2020年9月19日土曜日

秋空

今朝は、彼岸の入り
お墓参りをする人にとっていい天気になりました。
(春もお参りに行けなかったのですが、電車に乗って四天王寺にお参りするのは諦めました)

連休初日の19日 お出かけ日和」(えりの気象日記 9月18日)
どこからともなく甘い香りがしてきたので探すと
上の方にクズの花が咲いていました。

気象予報士の坂下恵理さんがレポートしていた
小さい秋さがした 秋の七草」(関西 NHK)
キキョウ(蕾)を見つけることができてビックリしました。
そして、秋の七草の覚え方を教えてくださった。

オスキナフクハ(お好きな服は?)」だそうです!

ミナエシ
スキ
キョウ
デシコ
ジバカマ


岩波書店のTwitter

【今日の名言】
理性のある動物、人間とは、まことに都合のいいものである。
したいと思うことなら、何にだって理由を見つけることも、理窟をつけることもできるのだから。


――『フランクリン自伝』☞

付け加えたいのは
今から調べても、確たることは申し上げられない」(小川一さんのTwitterより
これが継承なのでしょう。
NHK映像ファイル あの人に会いたい▽アンコール岸朝子(食生活ジャーナリスト)
を見ていたのだけど、
その後に
チコちゃんに叱られる「▽タコのウインナー▽寝ているとビクッ」(大阪は再放送)
で、タコのウインナーと結びついていました。
そして沖縄最後の王家だということも。
岸朝子さんはタコのウインナーの考案者の尚道子さんの妹だということを初めて知りました。
9月19日
 正中(しょうちゅう)の変がおこった。 1324(正中元)年

 鎌倉幕府の支配のゆきづまりがはっきりしてきたなかで後醍醐(ごだいご)天皇は即位した。
 天皇は新しい人材を登用し、親政を進めて、幕府を倒す意志を固めていった。
そのころ天皇は、しばしば、ほとんど裸体に近いかっこうで近臣たちと飲食をともにする無礼講をひらいて、ひそかに倒幕計画を話し合ったといわれる。
挙兵(きょへい)は9月23日と決まった。
しかし、土岐頼員(ときよりかず)が計画を妻にもらしたことから情報が流れた。
この日、六波羅は急ぎ軍を派遣して土岐・多治見(たじみ)を討ち、日野資朝(すけとも)・俊基(としもと)らを捕らえた。
天皇は鎌倉に使いを送り、誓書(せいしょ)を提出して自分は事件に関係ないと弁明した。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
日本の歴史11 太平記の時代』より「倒幕計画の頓挫」を転記しますφ(..)
第二章 帝王後醍醐
 倒幕計画の頓挫


 前項にみたような後醍醐の政策基調が、倒幕の企図へと必然的に結びつくものであったかどうかは確言できない。
しかし、治天の役割を天皇に回収した上で自らの子孫に確実に伝えてゆこうとする後醍醐の政策上の意図は、公家社会にとっての鎌倉幕府の重要度を削減しよとする企図と親和的である、とはいえる。
少なくとも、外在的な「天意」によって皇位の帰趨(きすう)が左右されるという現状を改変するためには、公家社会とっての鎌倉幕府の役割を根本的に変革する必要がある、と認識されたとしても不思議ではない。
(『日本の歴史11 太平記の時代』新田一郎 講談社学術文庫 2009年)
 もっとも、それを実行に移すのは容易ではない。
「王朝国家の警察官」の役割をもっぱら武家に委ね、自前の軍事力を持たない当時の公家政権には、鎌倉幕府を自力で軍事的に打倒することは不可能である。
のみならず、現状の急激かつ根本的な改変の試みについて、公家社会内部でも合意を調達しえたわけではない。
均衡の実現を促す幕府の役割は、公家社会内部の状況にこそ存立根拠を持っていたのだから。
 それゆえ、倒幕の計画を立案するにあたって、後醍醐は腹心の日野資朝・俊基らをして各地の武士や有力者の勧誘にあたらせたのである。
正中元年(1324)のこの計画は、未然に六波羅探題の察知するところとなり、資朝らが首謀者として捕らえられ頓挫し(正中の変)、後醍醐は難を逃れたものの、その立場が悪化したことは想像に難くない。
 こうした後醍醐周辺の一連の挙動について、当時「謀叛(むほん)」という表現が用いられることがあったらしい。
天皇の「謀叛」という、本来は撞着(どうちゃく)的であるはずの表現(律令の用語では、「謀叛」は、外夷に通じたり偽主に従うことによって、天皇を危うくする企てを言った)は、秩序の存立の根拠が天皇へ収斂(しゅうれん)しないという当時の現実を、如実に物語っている。
正中の変の事後処理を記した花園上皇の日記は、後醍醐が鎌倉幕府へ向けて、謀議への自身の不関与を弁明した文書に、「率土(そつど)ノ民(たみ)皆皇恩ヲ荷(にな)フ、聖主(せいしゅ)ノ謀叛ト称スベカラズ」と書かれていたことを、伝えている。
この表現は、秩序の主宰者たるべき天皇として後醍醐の自己認識と矜持(きょうじ)を示すが、反面、「聖主ノ謀叛」の語が実際に用いられたことは、そうした後醍醐の自己認識が必ずしも社会的な了解と一致したものではなかったことをも示している。
 とはいえ、これを「幕府に対する謀叛」として解釈するのも、適切ではない。
状況の中に遍在する「権力」作用を天皇の手に回収しようとしたときに、天皇の位置づけがあらためて問われ、ひるがえって秩序の存立の根拠が問われる。
後醍醐が対抗したのは単純に幕府であったわけではなく、むしろ彼の企図は公家社会の状況に対してこそ対抗的なものであった。
この「謀叛」の語は、「国家権力が幕府に存したこと」を示すものではない。
 一方で、後醍醐は、やや後には護良(もりよし)親王がしばしば用いた「関東ハ戎夷(じゅうい)ナリ」という言説、あるいは北条氏を「伊豆(いず)在庁」と呼んでことさらその出自の低さを強調する言説は、この時期特有の政治性を帯びたプロパガンダである。
確かに、北条氏は伊豆国北条を本拠とし在庁官人(国衙<こくが>行政の実務にあたった現地任用の官)となった桓武平氏(かんむへいし)の一流であり、嫡流代々の家督が帯びた官位も相模守(さがみのかみ)・武蔵守(むさしのかみ)や左京権大夫(さきょうのごんだいぶ)といったせいぜい四~五位相当の官にとどまり、公卿に昇ることはない。
その出自にせよ位階にせよ、京都の公家社会の尺度で表現される限りは、低いものである。
また、源氏の嫡流が途絶えた後も、北条氏は武家の形式上の首長の座につくことなく、摂家将軍ついで皇族将軍を京都から迎えている。
これについて、「北条氏は実質的に政治権力を握りながら、その出自の低さゆえに形式的な地位を獲得しなかった」とする説明がしばしば示されるが、公家社会の尺度と、鎌倉を中心とした武家社会における北条氏の存在とは、別の問題である。
 たとえば、東国における「王権」の所在を示す材料として近年着目された現象の一つに、日蝕(にっしょく)、月蝕の際の処置がある。
中世、日蝕・月蝕の際に御所を筵(むしろ)で包むことによって、異変から天皇の身を守ろうとしすることが行なわれたが、鎌倉でも将軍の御所について同様の措置がとられることがあり、そのことをもって、天皇と将軍とを「王権」の相並ぶ主宰者とする解釈が、黒田日出男氏によって示されている(『王の身体 王の肖像』平凡社 1993年)。
ただし、日蝕・月蝕の際に将軍の御所を筵で包むには、実は摂家将軍以降のことであり、これは京都の「王権」のあり方をモデルとして導入された措置と考えられる。
「将軍」は京都との関係において措定される地位であり、鎌倉と京都との架橋する役割を担う、武家社会にとっては外来者なのであった。
 鎌倉時代における北条氏に対する公家社会の視線をより的確に示すのは、「関東穢(かんとうえ)」をめぐる措置である。
天皇・院の死や天災・大乱などによって生じる「天下触穢(てんかしょくえ)」の一類型として、将軍や北条氏当主の死による「関東穢」に際し、京都の朝廷における公事などが停止される措置がとられた。
京都の公家社会は、北条氏を、関東の政務を主導し、その死から発生する「穢」が天下に及ぶ存在として、認識していた(黒田日出男『王の身体 王の肖像』)。
ただし、将軍とは異なり、北条氏は公家社会の尺度とは別枠という認識があったようで、書札礼(しょさつれい<やりとりされる書簡の形式を官位・家格などによって規律する礼式>)などの点において、公家社会の尺度がそのままには適用されることがあったともいう(本郷和人「西園寺氏再考」『日本歴史』634号 2001年)。
 実際、関東の政治の現場には独自の家格の尺度が機能しており、北条氏はその尺度に拠(よ)って、自らの立場を構築していた(細川重男『鎌倉政権得宗専制論』吉川弘文館 2000年)。
鎌倉幕府における北条氏の儀礼的な格づけは、たとえば源氏の正統に最も近いとされる足利氏と比較しても明らかに高いものであった。
北条氏の出自を低いものとするのは、京都の尺度の適用によるものであり、それは、この時期以降に東西を通貫する尺度として確立されてゆくことになる。
北条氏や足利氏の立場もそれに拠って別の形で語り直されてゆくのであり、そのことは「源氏の正統」を「将軍」有資格者とする言説の成立にも、密接に関係するのである。
 さて、正中の変の結果、後醍醐の幕府に対する立場が悪化したのを機に、皇太子邦良(くによし)周辺は皇太子の践祚(せんそ)を画策して運動を展開し、邦良が嘉暦(かりゃく)元年(1326)3月に病死すると、今度は持明院統側が文保の擬案を根拠として後伏見上皇の第一皇子量仁(かずひと)親王の立太子を主張した。
これに対し、後醍醐は皇子世良(よよし)親王の立太子を望み、さらに邦良の遺児康仁(やすひと)王を大覚寺統の嫡系として推す勢力もあったが、結局のところ量仁の立太子の実現に至った。
状況の改変に失敗した後醍醐は、皇子尊雲法親王(そんうんほっしんのう<後に還俗(げんぞく)して護良<もりよし>)を比叡山に入れて天台座主(てんだいざす)としたのをはじめ、南都北嶺(なんとほくれい)の要所要所に影響力を及ぼし、僧兵勢力を取り込むことによって、幕府に対抗するための中核的な勢力を構築することに努めた。
 そうして準備を進められていた後醍醐の二度目の倒幕の企図は、しかし性急な軍事行動が失敗に帰し皇統の断絶にまで至ることを危惧(きぐ)した吉田定房(よしださだふさ)の密告によって武家方の知るところとなり、元弘(げんこう)元年(1331)5月、六波羅探題は日野俊基をはじめ倒幕計画の中心的な面々を捕らえ鎌倉へ押送(おうそう)、後醍醐は南都から笠置山(かさぎやま<現、京都府笠置町>)に拠って兵を募ったものの幕府軍に包囲され陥った(元弘の乱)。
 かくして、後醍醐の企図はまたしても失敗に終わり、後醍醐は皇位を廃されて隠岐(おき)に配流され、持明院統の後伏見上皇の院政のもとに、皇太子量仁親王が践祚した。
すなわち光厳(こうごん)天皇であり、後になって北朝第一代に数えられることになる。
もとよりそれは「鎌倉幕府が擁立した」などという単純な問題ではない。
公家社会の作法が均衡を保ってゆくためにこそ、後醍醐に代わる穏健な天皇の存在が必要とされたのである。
(『日本の歴史11 太平記の時代』新田一郎 講談社学術文庫 2009年)