2020年9月13日日曜日

涼しくなるかなと思ったけど…

 

天気予報を見ると最高気温が、昨日より4度低く30度だったので
涼しいかなと思ったけど蒸し暑かった(^^;
クサギの実がちょこんと顔を出していました。
もうじき、綺麗な青紫色になる♪
大坂選手全米優勝 根室も喜び」(北海道 NHK)
おじいちゃんの言葉に
彼女は彼女なりに、差別のことを考えてのことだと思うので、勇気があるなと誇らしく思います
おじいちゃんの言う通りです。

マスクについてあなたはどんなメッセージを送りたかったのですか?と聞かれ
質問を返しますが、あなたはどんなメッセージを受け取りましたか?
 皆さんが話し合うきっかけになるのが重要なのです

と逆に聞いていたのがさすがだなぁと思いました。
次は、私たちが答える番なのですが
岩田健太郎さんのTwitter

「周囲に迷惑をかけるな」は日本で突出して多い的外れな批判。
何かをするとは既存勢力に「迷惑」がかかること。
当たり前の話

「黒人ならば日本人ではない」「スポーツに政治を持ち込むな」大坂なおみへの批判が的外れな理由 (堂本かおる 文春オンライン 9月1日)

引用記事の中に
バッシングを覚悟で、信念に従い一人で行動した大坂なおみ選手」(4ページ
大坂さんは一人で行動したのです。
安田菜津紀さんのTwitter

大切なのは発信者の「差別を煽ったつもりはない」という意図の有無ではなく、もたらしてしまう影響とどう向き合うか、だと思う。
特に「自分は差別するはずない」と思い込んでいる時ほど、無意識に誰かの尊厳を踏みにじっていたりする。
それに気づいた時どう、行動するか。


「外国人」というレッテルが独り歩きしてしまうとき〟(安田菜津紀 9月8日)

私にも差別する感情があると思っています。
それだけに〝学ぶ〟ということ〝知る〟ということが大切だと思います。
一方、大阪では差別を学ぶ場であった「大阪人権博物館」が立ち退きさせられ、「ピースおおさか」の展示から加害の歴史が削除されている。
Eテレのドキュランドへようこそ「K症候群 ユダヤ人を救った謎の感染症」 
知らないことがいっぱいあった。
そしてイタリア人は素晴らしいなと改めて思った。
番組の最後にピエトロ・ボロメオさんの言葉

父は言いました「私たちは人類という一つの人種だ」と

今の私たちはかみしめるべき言葉だと思います。
再放送の予定がないのが残念です。
9月13日
 修験野田泉光院(のだせんこういん)が日向(ひゅうが)八ヶ谷村休助(きゅうすけ)方に泊った。 1812(文化9)年

 日向国(宮崎県)佐土原(さどわら)の安宮寺(あんぐうじ)の修験野田泉光院は、前年春に藩主のゆるしをえて、57歳のこの年9月3日、長い修行の旅に出た。
佐土原を一路南に下り、飫肥(おび)城下をへて、この日の朝、榎原をたち、福島の滝の権現をもうでて、八ヶ谷という村にきた。
もう日は西に傾き、懸命に宿を探したが、「勝手に旅人を泊めるな、と禁じられているのでだめだよ。四キロ先の海辺の山伏のところにでも行くんだね」と村人にいわれて困ってしまった。
ところが鬼瓦(おにがわら)のようなこわい顔の休助という男が「困っているだろう。一人暮らしで狭いところだが泊めてやる。内緒だぞ」といってくれた。
顔に似合わずやさしい休助の心のこもったもてなしをうけ、めずらしい夜話(よばなし)に耳を傾けた。
こうして泉光院は旅をつづけ、6年2ヵ月もかけて、四国と陸奥(むつ)などを除く日本中をまわった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
野田泉光院のことをこの本で初めて知って、図書館などに関連する本はないか探しました。
泉光院江戸旅日記』(絶版)にその時のことが書かれていたので転記しますφ(..)
―文化9年9月◇飫肥―
(略)
 出発してから十日目の9月13日は、福島(串間市)にある滝の権現に参詣して、麓で一泊しようとしたろころ、ここは高鍋領の飛地で、旅人を泊めてはならない土地のなので、一軒も宿がないといってことわられてしまう。
高鍋とは、秋月家二万七千石の領地である。
どうしても泊まりたければ、辻堂か、一里ほど先の海岸に住んでいる山伏の所で泊まるほかないだろうというのだ。
この日の結末がどうなったかを書くと、
(『泉光院江戸旅日記』石川英輔 講談社 1994年)
「あれこれいい合っているところへ、鬼瓦のような顔つきの大男が来て、ていねいな口ぶりで『皆さんがたはお宿がないようですが、ここはお上(かみ)の厳しいお達しで勝手に旅人をお泊めすることができない土地ゆえ、困っておられるのでしょう。私の家は、狭くてむさ苦しいのですが、一晩だけ我慢して、ないしょでお泊まりなさい』といった。見かけは恐ろしい男だが、行って泊めてもらった。休助という人で……」
 この休助さん、もとは、薩摩島津家の武士だが、参勤交代で江戸にいた時に茶屋遊びで借金がかさなり、のっぴきならずに夜逃げしてここに隠れ住んでいる、という。
薩摩領から十キロも離れていない土地に<亡命>していられたのだから、のんきな世の中だ。
身の上話を聞いた泉光院は、――それより落ちつきたり――と、書いている。
この恐ろしげな男が、実は小心なお人良しだと知って安心したのである。
休助の家には小さな鍋が一つしかなく、飯を炊くとすぐ水が蒸発してしまうので、別に土瓶(どびん)で湧かしておいた湯を足しながら炊き上げるという貧しい暮らしぶりを、泉光院はくわしく観察して書いている。
(略)
(『泉光院江戸旅日記』石川英輔 講談社 1994年)
本文の最後に

(略)
6年2ヵ月にわたる大旅行は、日本中の人々が提供してくれた一宿一飯の好意のおかげで無事に終り、われわれは、今でもその生々しい記録を読むことができる。
 帰国後、泉光院は安宮寺の庭に『九峰修行供養塔』を建てた。
単なる旅の記念塔ではなく、長い旅を支えてくれた大勢の人々への感謝と、その人たちの現世、来世の平安の祈りを込めて建てたのに違いない。
明治維新の排仏毀釈という宗教弾圧の嵐の中で修験宗も大きな影響を受け、安宮寺は痕跡もなくなったが、この供養塔だけは、跡地の一部の空き地に今も立っている。
(『泉光院江戸旅日記』石川英輔 講談社 1994年)
今朝の日曜美術館で「日本の原風景~広重の“木曽海道六十九次”~」が紹介されていました。
当時の旅の様子がわかって興味深かったです。
江戸時代の庶民の旅を紹介してくれる本に
江戸庶民の旅 旅のかたち・関所と女』があります。
その中から一部を転記しますφ(..)
第一章 庶民の旅
 宿場以外での宿泊


 宿場では、賭博・喧嘩・口論の禁止、一人旅・浪人者・どことなく怪しい節がある者がいたら宿役人へ届け出ること、無断で泊めた者からは過料(たいていは一人につき銭一貫文の罰金)を取ること、旅人の長逗留を禁止すること、という取り決めがあった。
貞享4年(1687)に幕府は、一人旅でも不審がなければ泊めるようにとしていたのだが、現実には宿役人に届けるようになっていて、一人旅の者はのちのちまで警戒されていた。
(『江戸庶民の旅 旅のかたち・関所と女』金森敦子 平凡社新書 2002年)
 どんな道にも宿場が設けられていたわけではない。
交通量が少なければ宿場は成立しない。
しかし旅人はそんな道でも歩いている。
こうしたときは民家に一夜の宿を借りることになる。
また行き暮れて宿場までたどり着けない場合も、民家の戸を叩くことになる。
こうしたことで、この禁制はあってなきがものになっていた。
 文化9年9月から文政元年11月(1812~18)まで、7年以上にわたって全国を旅した山伏の野田泉光院も、そのほとんどの日々を民家に泊めてもらっている(「日本九峰修行日記『日本庶民生活史料集成第二巻』)。
托鉢しながらの旅だから、街道を行くより、喜捨してくれる田舎を歩くことが多かったのだが、一度たりとも野宿はしていない。
 安政2年(1855)、清河八郎(山形庄内の人で尊王攘夷派の志士。34歳で暗殺された)は母親と伊勢参りに行く途中、新潟から街道をはずれたところにある親鸞上人の遺跡に立ち寄ったときに、「行暮(ゆきくれ)の人の宿としべき所四軒あり。されども順番を以て勤(つとむ)るゆへ、旅人勝手にやどりがたし」と、四軒の農家のみが行き暮れた旅人を順番に泊めさせていたことを書いている(『西遊草』)。
このように民家が当番制で旅人を泊めるという例は案外多い。
 民家では旅人を泊めないという土地でも辻堂があった。
そこに案内して泊まるようにいうのはもちろん、煮炊きする鍋を貸してくれることさえあった。
また間(あい)の宿(しゅく<宿場と宿場の間に設けられた休憩所。もちろん宿泊は禁じられている>)の茶店で泊まったと書いている者が何人もいる。
宿場以外でも旅人を泊めてくれるところはいくらでもあったのである。
病死した旅人

 長い道中の途中で川留めや病気で旅費を使い果たす者、あるいは護摩の灰などにやられて旅費を失ってしまう者もいた。
こうした場合はどうなるのだろう。
銭を借りられるのはよほど運のいい人だ。
だいたいは来ているものを売り払い、乞食の格好で喜捨を受けながら故郷へ戻ることになる。
東海道や伊勢参宮道などの人どおりの多いところでは、そうした者が特に目についた。
『東海道中膝栗毛』にも、深編み笠をかぶった浪人がぬっと出て、「道中わづらひまして、難儀をいたします。なにとぞ路銭の御合力を願いひます」と弥次・北をびっくりさせる場面がある。
 慶長18年(1613)に越後柏崎に出された示達には、「諸旅人には憐れみをたれ、もし病気になったときは宿を貸すことはもちろん、養生をさせ、故郷へ帰る路銭がない者へは用立てるように。もし死亡したときは、町役人が立ち会って死亡に至るまでを書面にし、残された荷物も遅くならないうちに送り届けること」という一項があり、路銭を与えるなど、早い時期から旅人を保護する気遣いを見せている。
 体が元気なうちはまだ故郷へ近づくこともできたが、旅の途中で死亡した場合は、死亡した土地に葬られることになる。
 天保10年(1839)9月に越後国魚沼郡妻有(つまあり)庄枯木又(新潟県十日町市妻有町)から諸国巡拝に出た与三左衛門という69歳の老人は、翌年の4月に「芸州御領備後国三谿(みたに)郡吉舎町」(広島県双三<ふたみ>郡吉舎<きさ>町)で発病した。
帰国したいと望んだので村送りで送られることになり、22日に出発。
翌月の5月17日に「濃州厚見郡鳥屋村」(愛知県犬山市鳥屋越か)に着いている。
ここまでおそらく120里以上はあるだろう。
1日平均5里弱を進み、25日目に鳥屋村に着いたことになる。
その日の夜中、にわかに病気が重くなったので、薬を与えて看病したが、18日の未明に亡くなってしまった。
こうした事情を記した上で、「右の段、当地の役所へお届けし、御検死のお役人衆が出張して見届け、全くの病死であることに相違ないというお改めを受けたので、ただちに埋葬した。与三左衛門が持っていた手形から、そちらにご通知するものである」という書状が、鳥屋村の組頭と庄屋の連名で、枯木又村の円通寺(与三左衛門の檀那寺である)に届けられている(『十日町市史資料編五』)。
 往来手形には、「万一この者が旅の途中で病気になったり病死した場合は、寺院やお役人の御慈悲をもって、そちらの風習にしたがって始末してくださいますよう、この段ひとえにお頼み申しあげます」と書くのがお定まりの文句だった。
これだけ読むと野にうち捨てられるような感じを受けるが、実際の扱いは、意外にも親身でていねいなものだったことがわかる。
何日も旅籠で家族同様に看病をして無事帰国させた例もあるし、死亡した場合は、亡くなる前の状況や、埋葬した寺などを事細かに書いて、死者の家族に知らせるのが普通だった。
 こうした書状は住民が飛脚を使って届けるのではなく、死亡した土地の奉行所へ出された。
奉行所から江戸藩邸に送られ、そこからさらに客死者の領主の江戸藩邸へと届けられ、国元へと知らせが行くという場合が多い。
 国元では、帰路の途中で亡くなったことに驚きながら、手厚く看病してもらったこと、葬ってもらったことに感謝して謝礼金を包んだ。
身内から送る場合もあるし、身寄りがなかったり身内が極貧だったりすると、村役人の名前で送っている場合もある。
葬った村では、看病した者にやるか寺に預けるかといろいろ協議した末に、病死者の墓を建てたり、回向(えこう)にまわしたりし、自分たちでは使っていない場合が多い。
(『江戸庶民の旅 旅のかたち・関所と女』金森敦子 平凡社新書 2002年)
ごまのはひ【護摩の灰】
 道中で旅人を欺いたり威したりして、その財物を掠め取る盗賊。
高野聖(ひじり)の扮装で弘法大師の護摩の灰と称して押売りしたことから始まるという。
(『岩波古語辞典(旧版)』大野晋他編 岩波書店 1974年)
今朝の父の一枚です(^^)v
父が、表側からの画像を印刷するのをリクエストしましたが
私には、裏側から見ると、ムスッとしているのと、おすまししている顔に見える(*´▽`*)