2020年9月9日水曜日

秋の気配が…

 

5時前に戸を開けると、少し涼しかったです。
出かけた時は、青空も見えたのに、歩き出すと狐の嫁入りみたいに雨が降ってきた。
降ったり止んだりの変な天気でした。

9日 出かけるときに降りだしていなくても傘を!」(えりの気象日記 9月8日)

新型コロナワクチン開発 製薬会社など9社“安全最優先”宣言」(NHK)
開発競争が激しいのですが、“安全優先”で進めてほしいです。

こころの時代~宗教・人生~「コロナの時代を詠む」

永田和宏さんに釈徹宗さんが聞き手となって対談されています。
前半で新聞に投稿された新型コロナを詠んだ歌が紹介されています。
なるほどと思う歌ばかりでした。

ジョンズ・ホプキンス大学の世界の感染者数のグラフを詠んだ永田さんの歌

すでに目盛りは
1000万まで切られゐて
そのおほよその到達時間


永田:感染した人とか亡くなった人というのは名前がない扱いなんです。
ここに抜け落ちてるのは、亡くなった方一人一人には
その一人の死の悲しみがあり
周りのその一人の人を取り囲んでいる
周りの家族の死の悲しみがある。
これが全て数で目盛られていくと、抜け落ちていってしまう。
志村けんさんの例をあげて亡くなった人と家族が対面できないことについて

永田:亡くなるっていうことは、
その人の尊厳っていうのは、最後に保障されるべき場なんだけども
その場さえも死者から奪われていく。
これはほんとうに異常なことで
今回初めて、それが表に出てきたというか
そういう状態だったんだと思うんですけど…

:人間っていうのは、あまりの大きな悲しみを、一度に引き受けることができない。
そこをまあ日本であれば、お通夜とか、お葬式とか、お骨あげとか
そういう段階を、プロセスを踏みながら少しずつ少しずつ
愛する人に先立たれた悲しみを引き受ける
そういう「喪(も)の作業」になってるんですが
これが一切ない状態の厳しさっていうのは…。
永田:ほんとうにおっしゃるとおりに、あれは死者を大切に悼むということ以上に
生きて残っている人たちに、ある種の納得をさせるという儀礼
つまり順番に死者が、人が、いなくなったということを
順番にゆっくり納得させていくという意味が、すごく強いんだけれども
今回のように突然、遺骨になって帰ってきた。
そうすると、死者であるということを受け入れる
こちらの遺族の心の準備ができてないというそういうことなので。
永田:死者に触れさせないことが、本当に必要なのか疑問
確かにウイルスに感染して亡くなった。
その人の体内にまだウイルスはいます。
ただ亡くなった方は、もう呼吸もしないし
ウイルスを外に吐き出すことはないんですね。
だけど一切、遺族に会わせない。
これが本当に、必要なのかどうかっていうのはね
実は、まだ、きちんとした実証実験というか研究はないんですよ。

…(略)…

せめて手を握るぐらいのことは…
きちんと消毒して
手に触れてもらうくらいのお別れというのはやっぱり
死者のためにも、そして何より残された人たちのために
必要なんじゃないかなという、そんな気がしますけどね。
永田:寺田寅彦は、実はね、今言っている「正しく恐れよ」なんて言ってないんですよ。
正しく恐れることは本当に難しいことだ。

齋藤茂吉や与謝野晶子のエピソードも紹介されています。
そして最後に妻の河野裕子さんと心を交わし続けた日々が語られています。

君が死と
新学部とを往復し
ただに揺れゐし
あの春の花

   永田和宏

(永田さんと河野さんのやり取りが録音されていました)

誰彼を
長生きして欲しいと数えつつ
ついには あなた一人を数う

    河野裕子

長生きして欲しいと誰彼数えつつ
ついにはあなた一人を数う


(2日後、河野さんは64歳で息を引き取りました)
わが窓に
日々神山
(こうやま)のありしこと
その十年を君あらざりし

    永田和宏

永田
愛している人を失う悲しみっていうのは
その人の前で輝いていた自分が失われてしまう
その悲しみなのかもしれない。

わたくしは 
死んではいけないわたくしが
死ぬときあなたがほんたうに死ぬ

  永田和宏
9月9日
 近江で職人と百姓の区別がはっきりさせられた。 1583(天正11)年

 豊臣秀吉の家来浅野長政(あさのながまさ)は、この日近江(滋賀県)にいるいろいろな職人たちに次のような命令を出した。
「一月前、秀吉様は、お前たち大鋸(おが)・大工・鍛冶(かじ)・塗師(ぬし)・桶結(おけゆい)などの職人たちは、百姓が年貢のほかにつとめるような雑役(ざつえき)とはちがう仕事で奉仕せよ、と仰せ出された。
ところが、あっちこっちの下級の領主どもが、お前たちを勝手にこきつかおうとしているらしい。これは実にけしからんことだ。お前たち職人は、これから大坂城をつくる仕事があるのだ。」
こうして職人は、百姓とちがう負担を負うことになり、職人と百姓との身分が明確に区別されるようになったのである。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
日本の歴史12 天下一統』より「兵農分離」を転記しますφ(..)
検地と刀狩
 兵農分離


 大仏殿造営の基礎がさだまった直後、天正16年(1588)7月6日、秀吉は有名な刀狩(かたながり)の令を発した。
 それは諸国百姓らが刀・脇差(わきざし)・弓・鉄炮(てっぽう)そのほかの武具類を所持することを停止し、これをことごとく没収するというのである。
その理由はこれらの道具をたくわえて年貢や所番(しょばん)を難渋せしめ、自然、一揆をくわだてたり給人(きゅうにん)に非儀を働くものがあっては、田畑不作の基であるということで、その没収した刀・脇差はむだにするのではなく、大仏殿建立の釘(くぎ)・鎹(かすがい)にもちいられるから、今生のみならず来世まで百姓の福利となるといい、百姓は農具さえもち、耕作をもっぱらにすれば、子々孫々までも長久であるという内容からなっていた。
(『日本の歴史12 天下一統』林屋辰三郎 中公文庫 2005年)
 このなかに述べているように、また奈良の多聞院英俊(たもいんえいしゅん)がその日記に「内証は一揆停止の為なりと沙汰これ在り、種々の計略也」と書いたように、中世の民衆勢力の基盤となった土一揆(どいっき)を、弾圧しようとしたものであることは明らかである。
そしてすでに大名の家臣団編成によって武士を農村から切り離す方向がすすめられていたが、この刀狩は百姓の武器をとりあげることによって、もっとも端的な兵農分離を実現したのであった。
 秀吉の行なった刀狩の直接の先蹤(せんしょう)は、天正4年(1576)のころ、柴田勝家(しばたかついえ)がその領地であった越前(えちぜん)で、下間頼清(しもつまよりきよ)らの一向一揆(いっこういっき)を平定したのちに行なったものであろう。
このとき勝家は、民間の武器・馬具などを集め、これを素材にして農具を製して領民にあたえ、また鉄鎖をつくって九頭竜川(くずりゅうがわ)の船橋を繋がしめたので、一つの美談として伝えている。
これを「刀さらへ」と称しており、国内の織田神社では、寺内ならびに内の者は、刀さらへ・緒役は免除であったと主張している。
したがってここでも一向一揆の対策として打ち出されたことは確かである。
 これと関連して同じ年3月に、勝家は八ヵ条の掟(おきて)をだし、その第六条で、国中の土民百姓が新儀(しんぎ)に主取りをし、武士の奉公人となることを禁止している。
これは身分的に兵農分離を規定したものとして注目されているのだが、一方に家臣団の編成がすすむとともに、このような身分規定が必要になったと考えられるのである。
したがって刀狩は、単に一揆に対する防衛策だけではなく、封建社会の基盤としての兵農分離の結果としてひき出されてきたともいえる。
そしてさらに検地という事実とむすびつけて考えると、いっそうその意味が明白になってくるのである。
 さて刀狩の実態は、加賀江沼(かがえぬま)郡で「刀千七十三腰、脇差千五百四十腰、鑓身(やりみ)百六十本、かうがい五百本、小刀七百」の武具請取りが知られている。
かうがいは髪掻(かみかき)である。
女性が短刀の代わりに金のかんざしを抜きとることはよく聞く話だが、そのような応用武器までも狩りとったのは、末端で法令が誇張された結果であろう。
刀狩の下命されたときは、なお関東・奥羽は平定していなかったが、その征討が終わるとただちに出羽(でわ)・奥州(おうしゅう)そのほか津軽(つがる)までも、百姓らの刀・武具狩と検地を仰せ付けている。
知行(ちぎょう)の安堵(あんど)とともに、この両者が秀吉の統一した権力によって実施されたとこに、専制権力の現実を見ることができる。
そしてそれは、もとより江戸幕府にもひきつがれたのである。
(『日本の歴史12 天下一統』林屋辰三郎 中公文庫 2005年)