今朝も晴れて日差しが厳しいです。
あの日、長崎は晴れていました。
本来は、小倉に投下される予定でしたが雲が多く
晴れていた長崎に投下されたそうです。
「京都や横浜も原爆投下の有力候補地だった」(東洋経済 高橋浩佑 20180801)
「長崎 平和公園 原爆犠牲者の冥福と平和を願う祈りの場」(動画)
「核兵器廃絶を求める活動」(中学・高校)
8月9日(8日深夜)午前2時13分 から放送された「もういちど“長崎の原爆”をみつめる 『焼き場に立つ少年』をさがして」は、
中学校の教科書「目撃者の眼(め)」で紹介したジョー・オダネルさんが撮影した少年の行方を追っていました。(2019年4月22日の記事)
2010年ニューヨークの国連本部で、被爆体験を語った谷口稜暉さんの
「『赤い背中』の少年」を撮影したのもジョー・オダネルさんです。
ジョー・オダネルさんの話と写真をもとに編集された『神様のファインダー』から幾つか転記したいと思いますφ(..)
■ 佐世保市長との夕食
九州に上陸した私が、空襲に遭った佐世保市内の撮影をひたすら続けていた時のことです。
その辺りでいちばんと言っていいほど高い建物を見つけました。
珍しいことにこの建物は戦災を免れたようで、ほとんどダメージが見当たりませんでした。
私は日系二世の通訳と共に、12階はあろうかというビルの入り口ににたどり着き、「建物の最上階から写真を撮りたい」と係りの人に伝えました。
すると市長の許可が必要とのことだったので、早速私たちそのビルの5階にある市長のオフィスに向いました。
市長は50歳ぐらいで、身長、体重ともに標準ぐらいの、眼鏡をかけた男性でした。
彼は丁寧に私たちをオフィスに招き入れ、快く許可してくれました。
(『神様のファインダー 元米従軍カメラマンの遺産』
編著 坂井貴美子、写真 ジョー・オダネル
いのちのことば社フォレストブックス 2017年)
屋上に登り、かすんでいた空気が澄んでくると、はっきりとした景色が見えるようになりました。
私は端の囲いに上がり、撮影を始めました。
すると通訳が、恐がりもせずに身軽に撮影を続ける私の姿を尊敬のまなざしで見て、仕事ぶりを写真に収めてくれました。
撮影を終えて階段へ向かうと、ちょうど上がってきた市長に出くわしました。
なんと彼は、私たちをその日の夕食に招待してくれるというのです。
ありがたく受けることにし、その晩私たちは、市長のほか8人の日本人男性と夕食を共にしました。
食事はとてもおいしく、みなさんもとても礼儀正しく、私の話に熱心に耳を傾けてくれました。
食事会も終盤に差しかかった頃、私はこのようなすばらしい料理を誰が用意してくれたのか聞きたくなり、通訳を通して市長に結婚しているかどうか尋ねました。
彼はしばしの沈黙の後、「はい、35年間、結婚していました」と答えました。
私は思わず、「奥さんを台所に閉じ込めてこき使っているんでしょう」と冗談を言いました。
すると市長が何か答え、それを聞いた通訳は深呼吸をして、翻訳するのをためらっているようでした。
私は不思議に思い、市長が何と言ったのか通訳に訪ねました。
しかし通訳はテーブルに目を落したままです。
私が再び尋ねると、彼はゆっくりと顔を上げ、私の目を見ながら「彼の奥さんは空襲で亡くなったそうです」と答えました。
私はあぜんとしました。
落ち着いては、しかし緊張した様子で座っていた市長に、「愚かなアメリカ人が、失礼なことを伺って申し訳ありません」と謝るしかありませんでした。
私には、市長がどうして敵である私を夕食に招いてくれたのか、妻が殺されたというのに、どうしてアメリカ人と共に過ごすことができるのかわかりませんでした。
自分が逆の立場だったらと思うと何も言えず、「そろそろ失礼します」と私が言うと、市長は丁寧に頭を下げ、親切にドアの所まで見送ってくださいました。
私たちは握手をして別れました。
・「佐世保空襲」(佐世保市)
・「歴代市長」(佐世保市)
■ 壊滅した広島
佐世保にしばらく滞在したあと、私は海兵隊の親しいパイロットに、広島に連れて行ってくれるよう頼みました。
世界で初めて原子爆弾が落とされた街をこの目で見たかったのです。
それまで空襲で破壊された街を多く見てきた私は、それらとそんなに違わないだろうという気持ちで広島に向いました。
飛行機で1時間ほど飛び、パイロットに着いたと言われて上空から辺りを見回しました。
「これが広島?」私が想像していたイメージとは全然違いました。
街などなかったのです。
すべてが平らで、瓦礫(がれき)とほんの少し破壊された建物が見えるだけ。
まるで、巨大な手が人間の痕跡を一つ残らず取り去ったように、街は跡形もなくなっていたのです。
私は呆然として何も考えられなくなり、パイロットに着陸してくれと言うのが精いっぱいでした。
私たちは爆心地近くの空き地に着陸しました。
「こんな場所に足を踏み入れて大丈夫なんだろうか」という不安を感じながら一歩を踏み出した瞬間、地面の柔らかい感じに驚いたのを覚えています。
方角などまったくわかりません。
すべてが灰色と黒の石やコンクリートの塊で、建物など一つも見当たりませんでした。
辺りには嫌な臭いが立ち込めていて、息をするのもつらいほどでした。
少しずつ目が慣れてくると、信じ難い光景が目の前に広がっていました。
数え切れないほどの人間の骨。
白く漂白されたような人骨がほこりにまみれているのを目にしながら、私は、ここにはもう骨しか残されていないことを悟りました。
絶望感に打ちのめされ、自分がどこにいるのかもわからなくなりました。
何千、何万という人々が住んでいたはずの街が、たった一発の爆弾で廃墟と化してしまったのです。
すべてがなぎ倒された真っ平らの爆心地を、我々は「グランド・ゼロ」と呼びました。
まったく人気(ひとけ)がない。
そこで私は思いました。
「神よ、我々は一体何をしたのですか」と。
茫然自失の私の耳に、からすの鳴き声が聞こえてきました。
見るとあちこちにからすが飛んでいて、まるでわずかに残った人肉を狙っているかのようです。
私は憤りを抑えることができず、手を振り回しながらからすの群れを追い払おうとしましたが無駄でした。
からすたちは少し離れたと思ってもすぐに戻ってきました。
パイロットが「危険だからやめたほうがいい」と言うので、私たちは飛行機のある場所に戻ることにしました。
後に気づいたのですが、私がからすに抱いた憎悪は、裏返してみれば、自分の国が広島を破壊してしまったという罪悪感だったのです。
13歳の時に私が体験した洪水は、家や家具、父の歯科医の職を奪い、家族は何か月も政府からの配給に頼らざるを得ませんでした。
すべてのものを失う体験でしたが、原爆との大きな違いは、洪水は自然災害で誰にも予測できないが、原爆投下は人によって計画され、実行されたということです。
私は広島の人骨だらけの荒れ地に呆然と立ち尽くし、人間が同じ人間に犯した信じ難い行為を思いながら、言いようのない悲しみ襲われました。
(『神様のファインダー 元米従軍カメラマンの遺産』
編著 坂井貴美子、写真 ジョー・オダネル
いのちのことば社フォレストブックス 2017年)
今朝の父の一枚です。
母と一緒に歩いた時に、父がクサギの葉を食べたことを教えてくれました。