2019年8月11日日曜日

あまりの暑さに…

立秋を過ぎたから「残暑見舞い」なのですが…
酷暑が続いていてカラスも口を開けたままキョロキョロしていました(^-^;
昨夜のSONGS
MIYAVI beyond the border ~全ての境界線を越えて~
(再放送は、8月31日土曜 午前1:10 ~ ※30日金曜深夜)
冒頭でMIYAVIが今年7月にロサンゼルス ドジャースタジアム
アメリカ国歌をギターで演奏する場面が映っていました。
これ日本で考えられますか?
忌野清志郎が「君が代」を演奏した時にどれだけ叩かれたか!
まだ「君が代」をロックで演奏することやアレンジすることを
許さない空気が漂っていますよね。
国籍を問わないことや表現の自由を認めるところがアメリカは凄いなと思う。
大統領が差別的な発言をしてもそれに「NO!」と抗議する
日本のマスコミや芸能人との大きな違いだと思います。
アメリカ国歌を演奏した日本人はMIYAVが初めてかな?
よくマスコミで日本人初と騒ぐのにMIYAVIが
日本人初のUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の親善大使として
活動していることは、SONGSで知った。
番組のインタビューに答えて
やっぱり子どもたちがワクワクできる世の中じゃなきゃいけない
最後に「The Others」を歌ってくれたけど
僕たちはみんなそれぞれ違っています。
 一度その違いを受け入れれば、僕たちは一つになれます

とメッセージを送ってくれました。
2018年に亡くなった金子兜太(とうた)さんは、
戦後、長崎で勤務をされていたことがあります。
その時のことを
あの夏、兵士だった私 96歳、戦争体験者からの警鐘
に書いておられます。
長崎の爆心地を歩く
 1958(昭和33)年、長崎支店に異動になりました。
原爆投下からすでに13年経っていましたが、それでも爆心地周辺は黒焦げの状態で、被爆した浦上天主堂が崩壊したまま。
マリア像も倒壊していました。
 長崎への転勤が決まったときから、原爆で街がどうなったのか、しっかり見てやろうという気持ちになっていました。
そんなとき、『短歌研究会』という雑誌から俳句掲載を頼まれ、「いい機会だ」と、長崎市内を歩き回ることにしました。
(『あの夏、兵士だった私 96歳、戦争体験者からの警鐘
  金子兜太 清流出版 2016年)
 爆心地の中心はまだ大きく裂けていて、すぐそばの丘に日銀の社宅があり、そこからいつも爆心地を眺めていました。
私は目撃していませんが、社宅の庭から人骨が出ると噂されたこともあります。
  黒焦げになった大地も徐々に復興し、人々はたくましく暮らしていましたが、一瞬にして多数の命が〝消滅〟してしまったという事実は重く苦しく、人々の心に大きな影を落としていました。

 吟行のために街を歩いていると、ある映像が浮かんできました。
山の向うからマラソンの連中が走ってきます。
そして爆心地に入った途端、原爆でみんなの体が折れ曲がり、焼けただれたまま崩れ落ちてしまうのです。
そこで曲がった体、火傷、爆心地という映像が浮かんできたんですよ。
でもなかなか俳句にまとまらなかった。
 そうこうしているうちに、三日ほどたったころかな、夜、うんうんうなりながら辞書を繰っていたんです。
そうしたら「彎曲(わんきょく)」という言葉が目に飛び込んできた。
「できた」と思った瞬間の句が、

  彎曲し火傷し爆心地のマラソン

です。
そんな幻想を詠(うた)った句です。
「金子兜太の前衛性が如実に出ている」と俳壇でほめられ、それから私は「前衛俳人」ということになりました。
 原爆を落とされたもう一方の地、広島では、

  原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫(がれき)歩む

 という句をつくっています。
この当時はまだ組合活動に従事していて、その関係で広島も何度か通過していたのです。
 すると広島駅前に女性たちが数人、佇んでいるのが眼に止まりました。
若くて妙齢な婦人から少しお年を召した方まで、いずれも家族を失って、生きていくために操を売る女性たちばかりでした。
 なかに中年にさしかかった美人がポツンと立っていた。
原爆に遭ったのでしょう、顔の半分を覆うケロイドを隠すようにして立っている。
妙にその姿が忘れられませんでした。

  霧の車窓を広島馳せ過ぐ女声を挙げ

 の句ができたのがそのとき。
きれいな人でした。
春をひさいで生きるしかない気の毒な境遇。
汽車が走り去る後ろで、女性の「きゃー」という声が上がるという幻覚です。
 むしろ私の気持の中では、長崎の句よりも、この句のほうが強く残っています。
その悲痛な状況に思いをはせ、その女性のことを何度か夢に見ています。
顔の半分がケロイド状で、それを隠すようにして立っている……あの女性。
 戦争を始めるのは男だけど、犠牲になるのは女性と子どもです。
あの十五年戦争のとき、「これは世の中が危険な方向に向かってるな」と直感した背景には、妙に女性たちが静かだったということもあります。
声も上げず、あきらめたように、悲しむように……。
 私はトラック島で無線を傍受し、原爆を投下されたことを知っていたが、広島・長崎がこれほどまでの惨状とは、この目で見るまで信じられませんでした。
予想をはるかに超えていた。
慄然としたというより、日本という国が嫌な目に遭っているような気がした。
それがあの女性の顔と結びついてます。
「気の毒だ」という言葉さえ軽薄に聞こえるくらいの衝撃でした。
その女性のかげには、もっと多くの同じ境遇の女性たちがいたのです。
 人間が犯した愚かな過ちで、人間がここまで苦しむ。
戦争の被害は、自然災害と違って防ぐことができるはずなのに……。
 私がいた戦場でも、弱い者がいたぶられ、そして殺されたという認識があいます。
「男ならまだしも」という感じがしますが、女性がね。
〝ひどい目に遭ったんだなあ……〟と、いまでも思い出します。
 このことはいつも、胸につっかえていました。
その後も何度か広島を訪れましたが、必ずそれを思い出します。
だから広島という土地は、私にとってはつらくてたまらない土地です。
長崎、沖縄にも同じような思いを抱きます。
(『あの夏、兵士だった私 96歳、戦争体験者からの警鐘
  金子兜太 清流出版 2016年)
今朝の父の一枚です。
遅れて咲いている蓮の花
葉を日傘にして咲いているみたいでした(*´▽`*)
各地で猛暑日 熱中症に警戒 水分補給など対策を
今朝のニュースで紹介されていたのは
ケニアでポン菓子を米でなくソルガムやトウジンビエなどの
地域の伝統的な食材を利用して作っていました。
ポン菓子は子どもの時にドキドキしながら見ていたな…
こんな風に食糧問題への取り組みに活躍してくれているのがうれしいですね。
ケニアで「ポン菓子」? 地産地消を目指して”(国際農林業協働協会JAICAF)

家田製菓の取り組み