2019年8月17日土曜日

時々風が吹くけど…

今朝も蒸し暑い…(^-^;
時々、風が吹いてくると思わず立ち止まっていました。
Eテレ「2355」で「見分け博士」によると
羽のつけねを見て「三角カナブン、コガネムシ」と教えてもらいました。
この子はカナブンのようです(*´▽`*)
カナブンのとび方」(小学3年 動画)
2018年の再放送だけど「チコちゃんに叱られる」の中で
「くしゃみ」のことが話題になっていて
くしゃみをした人に沖縄で「クスクェ」と
おまじないをかけてあげると紹介されていました。
一緒に見ていた父が奄美でもよく似た言葉をいうそうです。
奄美では方言がいろいろあるようですが
方言を文字化するのは苦手ですが
父によると「インナァカメ(くそくらえ)」「シバリヌメ(しょんべんのめ)

調べると
くしゃみをした後で言う“まじない言葉”があれば、全国の例を知りたい。
(レファレンス共同データベース)

くさめ【嚔】
①くしゃみをした時に唱える呪文。(例文は省略)
②くしゃみ。(例文は省略)
▽「休息万命(くすくまんみやう)」の崩れた形というが、本来は「糞(くそ)(は)め」で、くしゃみに対する罵言か。
(『岩波古語辞典(旧版)』大野晋他編 岩波書店 1974年)

『徒然草』の47段や『万葉集』の歌(第11巻2637)が紹介されていたと思います。
初めに『徒然草』の47段の「」と「」を転記した後
『万葉集』第11巻2637と
番組では紹介されませんでしたが2408の歌を紹介します。
  訳
 ある人が東山の清水寺をお詣りしたところ、年老いた尼と道連れになった。
その道すがら、彼女が「くさめ、くさめ」とずっと言い続けているので、「尼様、いったい何をそんなに唱えておられるのですか」と問いかけたけれども、答えもせずに、なおも「くさめ、くさめ」と言い止(や)めない。
(『徒然草』兼好著 島内裕子翻訳 ちくま学芸文庫 2010年)
それでなおさら気になって、その人が何度も何度も聞くので、尼はついに腹を立てて、
「ああ、忌々(いまいま)しい。くしゃみをした時、このようにお呪(まじな)いの言葉を言わないと死んでしまうと申しますから、私が乳母(めのと)となってお育てした若君が、比叡山に稚児(ちご)となっておいでなので、たった今も、もしや、くしゃみをなさったかと心配で、このように申しているのですよ」
と言ったのだった。
 まことにめったいない、若君思いの態度であったことよ。

 ここに描かれているのは、無私の精神の崇高さである。
自分を全身で受け入れ、守ってくれる人間への、はるかな希求もあるかもしれない。
いずれにしても、この老尼のことを愚昧(ぐまい)な人間だと思っているのではないことは、行間からはっきりと読み取れる。
 徒然草には、有名無名を問わず、人間の心の輝きを書いた箇所が、いくつも出てくる。
世の中の真実を見抜き、それを簡潔明確に過不足なく描き出す明晰さを、兼好は備えているが、彼は決して皮肉屋ではないし、外界に対して冷笑的な態度を取ることもない。
そのような兼好の人間性が、いつの世にも色褪せことのない徒然草の魅力を支えている。
(『徒然草』兼好著 島内裕子翻訳 ちくま学芸文庫 2010年)
 巻第十一(寄物陳思)2637
うち鼻ひ鼻をそひつる剣大刀(つるぎたち)身に添ふ妹(いも)し思ひからしも

鼻がむずむずしてくしゃみをした。
(剣大刀)身に寄り添うあなたが私を思っているらしい。
(『万葉集(三)』佐竹昭広他校注 岩波文庫 2014年)

▽上二句はくしゃみをすること。
人に思われるとくしゃみをすること。
「剣大刀」は、ここでは「身に添ふ」の枕詞。
いつもは一緒にいる妻が今は近くにいないのだろう。
(『万葉集(三)』佐竹昭広他校注 岩波文庫 2014年)
巻第十一 2408
眉根掻き、はなひ、紐解け、待てりやも。何時しか見むと思へる吾君(わぎみ)

早く自分に逢いたいと思うて、あなたは、眉根が痒(かゆ)くなって掻き、嚔(くさめ)をしたり、下裳(したも)の紐が自然と解けたりして、これは自分に逢う前兆だ、と待っていらっしゃるか知らん。
あなたよ。
(『口訳万葉集(中)』折口信夫 岩波現代文庫 2017年)
「くしゃみ」のことではありませんが辞書のコラム欄にこんなことが書かれていました(^^)v

染め物上手の紫の上
  ――平安時代の貴族の女性――


 平安時代の貴族の姫君や夫人たちは、美しい衣裳を着て多くの侍女(じじょ)にかしずかれ、何もしないで座っていたように思うかもしれないが、実はそうばかりではない。
(『古語林』林巨樹、安藤千鶴子編 大修館書店 1997年)
 『落窪物語』の女主人公である中納言の姫君は、継子(ままこ)であったためもあるが、継母からうちじゅうの着物、腹ちがいの姫君の婿殿のまで押しつけられ、昼も夜も縫い物をしていた。
 『源氏物語』の「玉鬘(たまかづら)」の巻に、源氏の君が自分に関係ある女性たちにお正月の衣裳を贈る有名な場面がある。
正夫人格の紫の上はたいへん染め物が上手で、職人に織らせた絹を、もちろん侍女たちを指揮してであろうが、「世になき色あひ匂(にほ)ひ(ぼかし)を染めつけ給へば」、その美しい布地を見て、源氏は、紫の上は全くこの世に得がたい人だなァと感心する。
彼女は香の調合も上手だし、これより前、源氏が須摩に身を引いたとき、18歳の若さで都の留守宅をあずかり、経済面から使用人の支配まで、立派に家政をとりしきる。
 これは実在の人物、高階貴子(たかしなたかこ)(儀同三司母<ぎどうさんしのはは>)は、掌侍(ないしのじょう)という女官、いわば当時最高のキャリアウーマンで、漢学・漢詩の才能は男子にまさるといわれた。
のちに摂政関白になる藤原道隆(ふじわらのみちたか)と結婚し、正夫人として伊周(これちか)・隆家(たかいえ)・定子など8人の子の母となるが、子供たちに漢籍や和歌の教育を十分に行ったらしい。
伊周は当代一の学才をうたわれたし、15歳で一条天皇の中宮となった定子は、あの才女清少納言たち多くの侍女に一歩もひけを取らず、彼女たちを統括して文化の高い後宮(こうきゅう)サロンを作り上げた。
 もちろん、『源氏物語』の末摘花(すえつむはな)や女三の宮のように、ぼうっとして何もできない姫君もいたから人さまざまであるが、多くの貴夫人たちは、しっかりと家政の中心になっていたようである。
(『古語林』林巨樹、安藤千鶴子編 大修館書店 1997年)
今朝の父の一枚です(^^)v
栃の実が大きくなりました。