2019年4月22日月曜日

暑いけど…

今朝も暑かったけど時折吹く風が気持ちよかったです(*´▽`*)
シオカラトンボが一休みしてました。
この時期は、オスも未成熟でムギワラトンボなので雄か雌かは分かりません。
 昨日の補欠選挙の結果を見ていて沖縄も大阪も首相が招いた結果だと思います。
言葉は時代とともに意味が変わるというけど
沖縄の住民投票の結果に対して「真摯」という言葉を発しながら
「真摯」を「無視」とすり替えたのには唖然としてしまいました。
大阪では、自民党がこれほど衰退したのは
首相が大阪維新の会とお友達になっている結果だと思います。
ある意味、首相にとって都合のいい結果になっていると思っているのではないかな?
言っていることと逆のことをよくする方なので…
今まで自民党支持だった父が首相に対する怒りと
大阪で支持者の多い党への反発から
市議会選挙で無所属の方に投票していました。
河野進さんには『ぞうきん』(幻冬舎 2013年)という詩集があります。
前のブログで『母』(1975年刊)『続母』(1976年刊)という
2冊の詩集からいくつか詩を紹介したことがあります。
河野進さんが『母』の中で沖縄を歌ってくれた詩があるので紹介したいと思います。
なお沖縄が本土に復帰したのは1972年5月15日でした。
(聖恵会授産所は「社会福祉法人聖恵会」と名称変更になっていると思うのですが?)
  地球の果て

おうい 沖縄よう
とうとう 帰って来たな
まだ まだ
九州ぐらいまでか
まだ まだ
あまみ大島か
まだ まだ
では もとのままか
もっと もっと遠い
反省もざんげもなく
基地の島として当然のように
軍備をゆるすかぎり
逃げはしないが
地球の果てまで追われて行く
(『母 河野進詩集』聖恵授産所 1975年)
  ふるさと
 
天然の美しい球が
流れるように連なる島だから
琉球列島と呼ぶようになったと
忘却の基地や搾取の島にしないで
世界の楽園として大切に育てよう
神がお造りになった自然と芸術の宝庫であり
失われた人類の心のふるさとである
日本よ 沖縄に帰ろう
(『母 河野進詩集』聖恵授産所 1975年)

  祖国のない島民

今日は二月十一日
日本は建国記念の祝日
だが沖縄のカレンダーは平日である
家に街に日の丸の旗はひるがえらず
小学生や大学生は登校し
官庁や銀行の門は開いている
祖国を失った島民に
どうして建国記念日があろう
沖縄を無視してどこに建国記念日があろう
(『母 河野進詩集』聖恵授産所 1975年)
長崎の被爆を写した写真で鮮烈に記憶に残っているのが
ジョー=オダネルさんが撮った「焼き場に立つ少年」です。
そのジョー=オダネルさんにインタビューした教材があったので転記しますφ(..)
目撃者の眼(め)
   ジョー=オダネル 文・上田勢子(うえだせいこ)

 佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると白いマスクをかけた男たちが目につきました。
男たちは五十センチほどの深さに掘った大きな穴のそばで作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を石炭の燃える穴の中に次々と投げ入れていたのです。
(『中学校 国語2』学校図書 平成28年版)
 十歳くらいの少年が歩いてくるのが目にとまりました。
おんぶひもをたすきに掛けて、幼子を背中にしょっています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやって来たという強い意志が感じられました。
しかも足ははだしです。
少年は焼き場の縁まで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
 少年は焼き場の縁に、五分か十分も立っていたでしょうか。
白いマスクの男たちが静かに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいることに初めて気づいたのです。
男たちは幼子の手を足を持つとゆっくりほうむろうとするするように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
 まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆいほどの炎がさっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。
その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気がついたのは。
少年があまりきつくかみしめるため、唇の血は流れることもなく、ただその下唇に赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりと焼き場に背を向けて、沈黙のまま去っていきました。
 私は言葉さえかけることができなかったこの少年が気になって仕方がありませんでした。
自分で慌てて着たよなしわしわの服、はだしの足、おんぶひももよじれてかかっていました。
もしかしたら家族をみんななくしてしまったのかもしれない。
服を着せてくれるお母さんはもいないのか、家はあるのだろうか、考えれば考えるほど気になります。
そこで私は日本の新聞にこの写真を載せてもらいました。
「どなたかこの少年を知りませんか?」という問いかけを添えて。
知り合いに頼んで何度も載せてもらいました。
でも、なんにも反応はありませんでした。
私にこれほど衝撃を与えたこの少年は、たった一枚の写真を残していなくなってしまったのです。
 長崎に三か月滞在し、それから広島に行きました。
そこでも悲惨な写真をたくさん撮りました。
私は戦争の写真を撮りながら、自分にこう言い聞かせてきました。
これは将来のために撮るのだと。
私の見たものをみんなに見せるために撮るのだと。
カメラは私の眼だったのです。

 日本に行くまで、私は日本人を見たことがありませんでした。
終戦直後、日本に初めて行った私は、日本人の丁寧さただただ驚きました。
こんな大変な時に、これほど礼儀正しい国民がいるでしょうか!
1945年の9月から七か月間の日本滞在の後、何度も日本に行きました。
友達も増えました。
五十年以上のつきあいになる友人もいます。

 戦争は二度と繰り返してはなりません。
原爆は決して落とすべきではありませんでした。
戦争終結に必要だったと言う人がいます。
でも、誰が何と言おうと、私はこの眼で見たのです。
原爆でやられたのは、老人と女たち、そして子供たちだったのです。
原爆が必要だったわけなどありません。
私は、死ぬまでそのことを言い続けるつもりです。
なぜなら、 You don't forget what you saw. (見たものは忘れない)から。

 ジョー=オダネル 1923~2007。写真家。アメリカに生まれた。
アメリカ軍の報道写真家として、戦後の日本を撮った。
本文は、上田勢子氏のインタビューによる。
(『中学校 国語2』学校図書 平成28年版)

   使命

真っ黒いぞうきんで
顔はふけない
真っ白いハンカチで
足がふけない
使命がちがうだけ
とおとさにかわりがない
(『続母 河野進詩集』聖恵授産所 1976年)
藤棚でくつろいでいた女性から
「(写真を撮る)邪魔になりませんか?」と声をかけていただいたので
クマバチの雄には針がないことやスズメバチのことなどをお話しました。

ハチに刺されたら…
 社会性のハチは、こちらから攻撃したり、
巣に近づいたり触れたりしなければ、ほとんど刺さない。
それ以外の場合は、ハチが近くにきても、
追い払わずにじっとしているほうが刺されない。
だが、万が一刺された場合には、多数のハチに刺されないよう、
できるだけ早くその場所を離れよう。
そして、針が残っている場合には針を抜き、
指された場所を水洗いした後に、
ステロイド軟膏を塗ってタオルなどで冷やすとよい。
腫れがひどい場合やショック症状を起こした場合には、
刺された場所を水で冷やしながら、医者のもとへ急ぐ。
(『大自然のふしぎ 増補改訂 昆虫の生態図鑑
  岡島秀治監修 学研教育出版 2010年)