風がなくて蒸し暑さをひたすら我慢して歩いていました(・_・;)
原民喜の「女の顔」を転記しますφ(..)
女の顔
ぼくがこの地上で最後の息をひきとるとき、恐らく一人の幻が浮んで来て、それが静かに無限の彼方へぼくを抱きとつてくれるだろう。
これはぼくの夢なのだが……。
死際に浮んでくる一つのイメージこそ、その人間にとつて最も絶対なのではあるまいか。
(『定本原民喜全集Ⅱ』 青土社 1978年)
子供の時からぼくは女の顔によつて、いろんなことを教わつたようだ。
わけても、ものに怯える女の顔つき、ものに憧れる女の顔つき、この二つの原型は幼いぼくの心に早くから灼きつけられてしまつた。
それにしても、ものに怯える女の顔つきは、どうしてあんなに切実にぼくに感染したのだろう。
恐らく、死んだ母も姉も、そのまた祖先に母たちも姉たちも、みんな、みんな生命の危機の上を通り越して来たためなのだろうか。
毅然として、ものに耐えてゆく女の顔つきを知つたのはぼくが大分成長してから後のことだつた。
ある日ぼくは、毅然として悲しみに耐えてゆく美しい美しい女の映画を見た。
するとぼくは映画館を出て道を歩きながら、暫くは自分が、その女性になつたような感じで、カメラがこちらを追つてくるような気がした。
どうかすると、女は絶えずカメラに照らされて生きているのではあるまいか。
世間という小さな狭いカメラから宇宙という無限大のカメラまで……。
だから、女の顔つきは作意も多いがナゾもまた深いようだ。
ぼくは広島で原子爆弾に遭つてからは、もう人間の顔をその生存どおりには信じ難くなつた。
一瞬の光線でふくれ上つた女たちの顔は悲惨というものの極限であつた。
今ではこの傾向もかなり薄らいで来たが、遭難後一年あまりは、どんな女の顔を見てもすぐに奇怪な姿が描かれてならなかつた。
だが、人生には、どんな悲惨な出来事も忘れさせてくれる顔があるようだ。
それがどのような顔なのか、はつきり名指すことはできない。
が、何の言葉もかわさず、一瞬のゆきずりに見た顔で、時にぼくを慰めてくれるものがあるようだ。
(『定本原民喜全集Ⅱ』 青土社 1978年)
今朝の父の一枚です。
トノサマガエルは用心深くてすぐに隠れるのですが(^^)v
「タピオカ 関西で輸入が急増 タピオカドリンクの大流行で」(NHK)
のニュースを見ながら父は、戦後、タピオカを嫌と言うほど食べたそうです。
食糧難だったので助かったそうですが…
原料を戦地から復員して来た兵隊が持ち帰ったのとちがうかなと話していました。
ニ、三年で有毒だという話がどこからともなく伝わって来て食べなくなったそうなのですが
タピオカの原料キャッサバはソテツなどように毒抜きをする必要があるようです。
父は粉にして食べていたそうで、ジュースにするなど思いもよらなかったと話していました。
「タピオカの原料・キャッサバってなあに?」(TBSラジオ)
「キャッサバ」(ウィキペディア)
午後から心臓リハビリでしたp(^^)q
30分間の歩行距離は2.14㎞、消費カロリーは128kcalでした。
理学療法士のNさんと話していたのは、
Nさんが山口に里帰りをしていた時に
台風10号が近づいていたのですが
天気がいいので海が大丈夫そうに見えても
父親が止めた方がいいと言うので見に行くとやはり荒れていて
翌日、大丈夫だろうと言うので見に行くと子どもと遊ぶことができたそうです。
大分で救助された人たちは、道に迷ったようです。
発病前、山に登っていた頃は、山小屋に着くと
山小屋の人に天候のことなどを聞いていました。
最近は、ナビやスマホなどがあるのでそれに頼ってしまうのですが…
「渓谷付近で孤立の18人 全員救出 けがはなし 大分 玖珠町」
情熱大陸「中西進(国文学者)」で8月15日に詠まれた歌
8月25日(日)22時59分まで無料配信されています。
昭和回顧
人を焼き
日 月 爛れて
戦 熄む