今朝も蒸し暑かったです(^-^;
帰る頃に「豪雨予報 激しい雨」のメールが届きました。
散歩を早めに切り上げて、途中で買い物をしていると土砂降りになりました。
7月11日の記事で少し書いたけど梓澤要さんの『荒法師 運慶』を読んでいて
気になったのが文覚(もんがく)です。
その文覚には伝説があって、その一つに京都の恋塚寺は
出家前の俗名遠藤盛遠(えんどうもりとお)が誤って殺めた袈裟(けさ)を祀っています。
なお袈裟の骨を納めた恋塚は上鳥羽の浄禅寺と
下鳥羽の恋塚寺の二つの寺に伝えられています。
「ふるさと昔語り 恋塚(京都市南区・伏見区)」(京都新聞)
その伝説「恋塚寺」を数回に分けて転記したいと思いますφ(..)
恋塚寺
春は弥生(やよい)、三月もなかばを過ぎたころでありました。
その日は渡辺の橋の橋供養(はしくよう)というので、遠藤武者の盛遠(もりとお)は、十七歳の年少でありながら、紺村濃(こんむらご)の直垂(ひたたれ)に黒糸おどしの腹巻を着け、あっぱれ若武者らしく、供養をとりしきっていたのです。
(『日本の伝説 1 京都の伝説』
駒敏郎、中川正文 角川書店 昭和51年)
橋供養というのは、長い間ひとびとを渡してくれた橋の労をねぎらうために、橋のほとりでねんごろに供養するならわしがあったからです。
都のうちのだれ彼となく、きそって参詣の足を運ぶので、なかなかのにぎわいになっていました。
盛遠は辻々を兵士たちで固めさせ、その間を駆けずりまわっては、てきぱきと、みごとに指図をしていました。
ところが供養も終わって、ひとびとが家路につきはじめたころ、目をみはるような出来事が起こったのです。
ちょうど橋の北東の桟敷(さじき)から女房(にょうぼう)たちがぞろぞろでてきて帰ろうとするなかに十六、七歳ぐらいでしょうか、はっとするような美しい女房が、輿(こし)に乗ろうとして、すだれを巻きあげようとしていました。そのものごしは、まるで絵に描いたような、さえざえした風情だったのです。
「あっ! あれはいったいだれであろう」
盛遠は心のなかを、雷に打たれたような激しいものがとおり抜けたような気持ちでした。
「あれは、どこの女房だろう」
盛遠は思わずわれを忘れ、奉行の仕事も捨てると、そっと輿のあとをつけていきました。
見え隠れについていくと、なんとそれは源左衛門尉渡(みなもとさえもんのじょう わたる)の家へ入っていくではありませんか。
「では、あれは」
盛遠はそこでまた、驚きの声をあげたのです。
というのは、渡の女房であるならば、それは盛遠の叔母の娘の袈裟(けさ)だったからでした。
盛遠は早くから両親に死に別れ、みなしご同然のような子ども時代を、衣川殿(ころもがわどの)というその叔母のもとで養われていたのです。
「あの袈裟が、あれほどに美しくなろうとは……」
すでに三年あまり出会っていませんでした。
まえから、きれいな娘にちがいありませんでしたが、妻となったからでありましょうか。
雪のような肌はいよいよ白く、花びらのような赤い口もと――まるで物語の女性(にょしょう)とは、こういうものをいうのではないかと思うくらい、みごとに成人していたのです。
(『日本の伝説 1 京都の伝説』
駒敏郎、中川正文 角川書店 昭和51年)
今朝の父の一枚です(^^)v
2013年の7月ごろから咲くのを
母と一緒に楽しみにしていたアオノリュウゼツラン
その頃のことを思い出したようで「咲くかな」と呟いていました。
2013年7月24日に咲きました。