2019年8月16日金曜日

日差しが戻ってきましたが…

こちらは四国や紀伊半島のおかげで
台風10号の被害はなく過ぎて行きましたが
油断をしていると去年の台風21号のような被害が出るかもしれません。
14日の記事で「三点」に「鼻」を加えていましたが
目(2)と口(1)に見えるものがあれば
顔と認識するなと歩きながら気がつきました(^-^;
思い出すのは「にこにこマーク」(スマイリー・フェイス
このように思い違いで記事を書くことがありますm(__)m
基本季語五〇〇選』のなかで「野分の名描写」として
『枕草子』と『源氏物語』の「野分」の巻を紹介されていました。
『源氏物語』の「野分」の巻は長文なので
山本淳子さんの『平安人の心で「源氏物語」を読む』を転記したいと思いますφ(..)
この本は、『源氏物語』の入門に最適だと思います。
全巻について各巻ごとに「あらすじ」(省略)が書かれていて
続いて当時の人々の物の見方、世界観などが書かれています。
  平安人の心で「野分」巻を読む
   千年前の、自然災害を見る目

 災害はいつの世も容赦なく人々を襲う。
雅びな『源氏物語』「野分」の巻を読んでいてさえも、つくづくと感じるのはそのことだ。
そこには台風という災害が、あまりにもありのままに記されているのである。
(『平安人の心で「源氏物語」を読む
  山本淳子 朝日新聞出版 2014年)
 この台風は、まず風から始まった。
「野分例の年よりもおどろおどろしく、空の色変りて吹き出づ」。
例年にない強力な台風が、空をかき曇らせ大風をもたらしたのだ。
日が暮れるにつれ、「物も見えず吹き迷はして」と風は強さを増す。
庭の萩を気にかけて格子(こうし)を下ろさずにいた紫の上の居室では御簾(みす)が吹き上げられ、女房(にょうぼう)たちがあわてて押さえる。
その様子を夕霧が垣間見ていた渡殿(わたどの)では、重い格子が風にあおられて外れる。
現在気象庁では最大風速がおよそ17メートル/秒以上のものを台風と呼んでいるが、雨戸が吹き飛ばされる風力はおよそ30メートル/秒だ。
六条院の下仕(しもづか)えたちは、風は北東から吹いていると言い、強風を正面から受ける馬場(ばば)や釣殿(つりどの)の補強にかかる。
夕霧が三条の祖母のもとに走る道ではさらに風が強まり、「いりもみする風」となる。
体を揉むように荒れ狂う風だ。
体を45度傾けないと歩けない風とすれば、風速40メートル/秒。
三条の御殿(ごてん)では大木の枝が折れ、瓦が吹き散らされる。
なお、京都地方気象台のデータによれば、近代以降では1961年の第二室戸台風が、東北東の風で最大瞬間風速34.3メートル/秒を記録している。
1934年の室戸台風では、南の風42.1メートル/秒だ。
 暴風が終夜続いた後、「暁方(あかつきがた)に風少ししめりて、むら雨(さめ)のやうに降り出づ」。
夜明け前に風が少しおさまったかと思うと、ざっと雨が降り出した。
「六条院には、離れたる屋ども倒れたり」。
光源氏邸宅の建物倒壊との知らせを受け、再び夕霧は飛びだす。
その途次(とじ)は「横さまの雨いと冷(ひや)やかに」と、横なぐりに降りつける雨。
しかも冷たい。
明らかに、大気が寒気へと入れ替わったということだ。
六条院に着けば、庭には折れた木の枝や、家屋の屋根をふく檜皮(ひわだ)や瓦、垣根などが散乱している。
その時、雲間(くもま)から僅(わず)かに夜明けの光が兆す。
雨がまだ霧のように立ちこめるなか、緊張が解けたか、夕霧ははらはらと涙をこぼした。
光源氏が花散里(はなちるさと)の御殿を訪(おとな)うと、今朝から急に冷え込んだからと、彼女は女房たちに指図して秋冬の装束(しょうぞく)の準備に余念がない。
人々は日常の営みを再開したのだ。
 このように、「野分」は台風災害の一部始終を、刻々の変化とともにリアルに記す。
また同じ『源氏物語』の「明石(あかし)」の巻は、高潮を描く。
強風が吹き潮が高く満ちて、波の音は荒々しく、巌(いわお)も山も残らず流されそうな威力であった。
さらに直後には落雷が仮住まいを襲い、廊(ろう)が炎上して、光源氏たちは避難を余儀なくされる。
 光源氏でさえも、自然の脅威の前には被害を免れない。
こうした描き方の背景には、作者はじめ当時の人々が繰り返し災害を体験していたという事実があるだろう。
例えば水害である。
当時の鴨川(かもがわ)は、日ごろの水量は現在より少なく、川底が浅かった。
そのため大雨が降るとたちまち暴れ川となり、堤(つつみ)は決壊した。
 藤原行成(ふじわらのゆきなり)は長保(ちょうほう)2(1000)年8月16日の日記にこう記す。
「夜来(やらい)大雨。鴨河の堤絶え、河水入洛(かはみづじゆらく)す」。
彼によれば、東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)の西側の平安京左京(さきょう)地区では、多くの住宅が流された。
なかでも藤原道長(みちなが)の豪邸・土御門殿(つちみかどどの)では、庭の池があふれて一面海のようになった。
また他家でも公卿(くぎょう)たちが馬に乗った人に背負われたりして避難したという。
どのような栄華も繁栄も災害には勝てない。
それは都人が常に目の当たりにしてきたことだったのだ。
 さて、紫式部が住んでいたと思われる堤中納言邸(つつみちゅうなごんてい)は、その名のとおり鴨川の堤にある。
道長邸では床下浸水で人々のすねのあたりまでが水に浸かった。
もっと川に近かった紫式部宅では、被害はさらに大きかったはずだ。
長保2年当時といえば、紫式部が結婚していわゆる専業主婦であった時期である。
娘の賢子(けんし)を、ちょうど懐妊していた頃かもしれない。
あるいは既に産んで、父を飲ませていた頃かもしれない。
そうした一人の市井(しせい)の人として、紫式部もこの水害を体験したのだ。

紫式部の邸宅」(紫式部顕彰会)
『枕草子』の「野分のまたの日こそ」では、風で終夜眠りを妨げられ、朝も遅くなってようやく目覚めた女が、まだ吹き残る風に髪を乱しながら、「むべ山風(やまかぜ)を」と歌の一節を口ずさむ。
本歌は「吹くからには秋の草木の萎(しを)るれば むべ山風を嵐といふらむ」。
『古今和歌集』に載り小倉百人一首にも採られている、文屋康秀(ふんやのやすひで)の歌だ。
「これが吹いて秋の草木を萎れさせるから、なるほど山風を嵐(荒らし)というのだな」。
「山」+「風」=「嵐」という漢字クイズの歌だが、嵐の威力を、物を「荒らす」暴力として改めて納得する歌でもある。
 もともと「嵐(あらし)」という語は、「荒き風」を意味するのだという。
「荒」とは手もつけられない激しさ、猛烈をいう言葉である。
ならば嵐のすさまじさは、その言葉ができて以来分かっていたことのはずだ。
だが人は、災害については、それが起こって改めて思い知るものなのかもしれない。
(『平安人の心で「源氏物語」を読む
  山本淳子 朝日新聞出版 2014年)
なお「あとがき」に次のようなことが書かれていました。
あとがき」より
(前略)
 ところで、この「あとがき」を書くためにパソコンのデータを調べていて、瞬時指が止まった。
本書の「一 平安人の心で『桐壺』巻を読む」の「後宮における天皇、きさきたちの愛し方」にあたる原稿を私が書き始めたのは2011年3月5日、第一稿として書き終えたのは3月15日。
何度か推敲を重ね、最終版となったデータファイルの日付は3月22日とある。
そうだった、私はこの原稿を、あの東日本大震災の混乱のなかで、自分はほとんど揺れも感じなかったばかりか、被災者や被災地のために何もできることがないという自責と無力感に歯嚙(が)みしながら、書いていたのだ。
 だがその時の思いは、それだけではなかった。
一つには、激しい無常の思いである。
一瞬前まで盤石と思われた日常が、いとも簡単に失われる。
しかも同様の自然災害が、この国ではどこでも起こり得るという。
私たちは誰も皆、何という不確かさの上を生きているのだろうか。
そのことに気づかされたとき、今こそ古典というゆるぎないものにすがりたいと思った。
そしてまた、この古典という心の普遍の拠(よ)り所(どころ)を、広く長く伝えてゆく作業に力を尽くしたいと、心から感じたのである。
(後略)
(『平安人の心で「源氏物語」を読む
  山本淳子 朝日新聞出版 2014年)
(2010年8月15日)

今日は、「五山の送り火」ですね。
発病の前年2010年8月15日に大文字山に登り、準備作業を見たことがあります。
(16日は入山禁止)
「大」の中心は金尾といって、特別おおきな割木がくまれるそうです。