クサギを撮ろうとカメラを向けたときに
花がピュッと一瞬で開いた(手前の2枚)
花は時間をかけてゆっくりと開くと思ったけど
勢いよく開く時もあるのだな…
僕は、暑さでヘトヘト何だけど…(^-^;
脱皮の際、外骨格でおおわれている昆虫は体の外皮を脱ぐことになりますが、
外皮と通じている呼吸器官の気管も一緒に脱皮します。
セミの抜け殻の内部に白いひもが入っているのに気がついた人もいるかもしれません。
これが脱皮した気管なのです。
(『観察する目が変わる昆虫学入門』野村昌史 ベレ出版 2013年)
『神様のファインダー 元米従軍カメラマンの遺産』を転記しますφ(..)
ジョー・オダネルさんが撮影した数多くの写真が掲載されていますが、
写真は本を手に取ってご覧ください。
■ 長崎の惨状
その後、私は佐世保から長崎市内に向けてジープで南下しました。
この40マイル(約64キロ)ほどの道のりが、
私の人生を変えることになったのです。
この時の任務は原爆投下後の長崎を記録するといもので、
私は隊のカメラマンとしてジープを使ってある程度どこにでも行くことができ、
パイロットに頼んで空から撮影することもできました。
(『神様のファインダー 元米従軍カメラマンの遺産』
編著 坂井貴美子、写真 ジョー・オダネル
いのちのことば社フォレストブックス 2017年)
まず、広島が世界で初めての原爆の犠牲となり、
短期間で14万人(*1)もの人が亡くなりました。
その三日後、今度は長崎が犠牲になり、7万4千人(*2)の命が消えました。
その瞬間、かろうじて命があった人々も皮膚が溶けて垂れ下がり、
指が全部くっつくなどして道端でうなっていたのです。
私には、そうした惨状を目にする心の準備ができていませんでしたが、
与えられた任務を全うするほかなく南下を続けました。
(*1)1945年8月6日から同12月末までの、原爆による推計死者数。広島市公式発表による。
(*2)長崎市原爆資料保存委員会による1950年7月発表の報告に基づく。
途中、瓦礫の山があってどうしてもジープで進むことができなくなり、
たばこなどと交換で日本人から馬を手に入れ、
市内を回って撮影しました。
夜は壊れた建物の中で寝たりしていましたが、
他のアメリカ人兵士に出会うことはありませんでした。
日本人と会うと、ほとんどの人が私を怖がるか避けるかしました。
長崎での孤独な数か月の中で、荒廃した浦上天主堂を見た時には心が痛みました。
原爆投下時には、ちょうど告解が行われていたため数十人の信者が天主堂内にいたそうです。
この教会のある丘を、私は「カルバリの丘」(*)と呼んでいます。
クリスチャンである私には、イエス・キリストが十字架にかかった丘を思い起こさせるからです。
(*)「カルバリの丘」
「カルワリオ(カルワリオの丘、ゴルゴタ)」(女子パウロ会)
■ 一本足の少年
それにしても、どんな悲惨な状況の中でも子どもたちはたくましいものです。
女の子たちは川沿いで洗濯をし、
男の子たちは野球を楽しんでいました。
私はその様子をなんとかカメラに収めようとしましたが、
すぐに逃げられてしまうのです。
考え抜いた結果、私はカメラの蛇腹の中にチョコレートバーやチューインガムを隠して軍の外に持ち出しました。
そして子どもたちに「チョコレートだよ、ガムもあるよ」と言うと、
みんな走ってくるではありませんか。
うれしかったですね。
子どもたちの中でも、どうしても忘れることのできない少年がいます。
彼には足が一本しかなく、杖をついて歩いていました。
その杖があまりにも大きくて歩きづらそうにしていたので、
彼を座らせ、持参したナイフで杖を6インチ(約15センチ)ほど切って渡し、
「歩きなさい」というジェスチャーをしました。
彼は10―15フィート(約3―4.5メートル)歩いたところで振り返り、
英語で「オーケー、オーケー」と言いました。
それ以来、その少年と親しくなりました。
私は当時、馬と一緒に廃虚で寝起きしていたのですが、
彼は毎日訪ねてきてくれ、馬にえさをやったり散歩をさせてくれたりしました。
私の食料は、軍の飛行機が定期的に空から落としてくれていました。
少年の家族とも仲良くなった私は自分の食料を分けてあげようと思い、
アルミの缶詰を振ってみて、
フルーツカクテルと思われるものを二つ持って出かけました。
少年の家に入ると、家族はくつろいでいました。
私はフルーツカクテルを持ってきたといい、
おもむろに缶にナイフを突き刺しました。
すると、ピューと赤い汁が。
それはケチャップでした。
気を取り直し、もう一つの缶を開けたら真っ黄色。
今度はマスタードだったのです。
それを見た少年の祖母が口に手を当ててくすくすと笑いだし、
つられてみんなも大笑い。
食料は分けてあげられませんでしたが、
とても楽しい時間を共有できました。
そんなある日のこと、少年が私を訪ねてきませんでした。
変だと思って彼の祖母の家へ行くと、彼女は自分の足を指さし、
寝ているようなジェスチャーをしたあと空を指さしました。
信じられないことでしたが、一歩足の少年は亡くなったのです。
足の傷口から細菌に感染してしまったとのことでした。
祖母は私を家の中に招き入れました。
少年の家族が、ろうそくが並んでいる壁に向かって座っており、
私にも一緒に座るように促しました。
それは少年の葬儀でした。
それから祖母は立ち上がって奥の部屋へ行き、
何かを持って戻ってきました。
最初、私が刀かと思ったそれは、少年が使っていた杖でした。
(『神様のファインダー 元米従軍カメラマンの遺産』
編著 坂井貴美子、写真 ジョー・オダネル
いのちのことば社フォレストブックス 2017年)