2019年1月30日水曜日

石清水八幡宮

父が妹と姪の古いお札とお守を納めたいのでやってきました(^-^)
石清水八幡宮です(^。^)
本当は2月3日位にお詣りしようかと言っていたのですが
天気予報をみるとあまりよくないし
鬼やらい神事」があるので参詣者でいっぱいだろうなと
昨日までの天気が嘘のような青空でした(^_^)b
先人たちの底力 知恵泉「ヒールの言い分!神に選ばれた恐怖の将軍 足利義教」
を見ていたら足利義教(あしかがよしのり)は、
(くじ)で選ばれた将軍なんだそうです。
そして石清水八幡宮でひかれたことを知りました(°°)
社務所で籤でなくて「酒かす飴」と「橘酒」をお土産に買いました(^_-)
石清水八幡宮御神酒「橘酒」は、
御本殿内に植えられている橘の樹から採れた実だけを使用し
特別に謹製されたお酒です。


石清水八幡宮」( facebook 2015年11月22日)
「神慮」による政治
 (足利)義持(よしもち)は、自分の後継者の決定も神慮に委ねた。
1428年(応永35)正月七日に義持は風呂場で尻のおできを搔(か)き破り、
まもなくそれが悪化して起居もままならぬ状態に陥った。
そして16日には
「大略思(おぼ)し食(め)し定めらるるなり。
 四十三にて御薨逝(こうせい)も不足なく思し食さるるなり」
と(三宝院)満済(まんさい)に漏らすのである。
(『室町人の精神 日本の歴史12』桜井英治 講談社学術文庫 2009年)
 幕閣たちの関心は、義持がだれを後継者に指名するかに注がれた。
ところが幕閣たちがいくら指名を求めても義持は口を開こうとしない。
そこで彼らは最後の頼みの綱として満済に説得を依頼したのである。
満済は幕閣たちの困惑ぶりを義持に伝え、あらためて後継者の指名を迫ったが、
義持は
「たとえ実子があったとしても指名はしなかったと思う。
 ましていまは実子がいないのだからなおさらである。
 ただ面々の相計らい、しかるべく決定してほしい」
とあいかわらずの答であった。
そこで満済は
「仰せはとにかく伝えますが、彼らもあきらめますまい。
 幸いご兄弟もおられることですし、
 そのなかからふさわしい方をご指名いただくか、
 それがどうしてもかなわぬなら、ご兄弟四人のお名前を籤(くじ)にして、
 八幡神前でそれを引いて決定するというのはいかがでしょうか」
と指名か籤引きかの選択を迫った。
義持はここでようやく籤引きに同意したが、
ただし籤引きは自分の死後におこなうようにとの条件をつけた。
 その理由を義持はこう語っている。

(…後略…)

(『室町人の精神 日本の歴史12』桜井英治 講談社学術文庫 2009年)
久しぶりに展望台にやってきました。
谷崎潤一郎文学碑「蘆刈抄」などについては
2018年1月11日の記事を参照してください。
籤引き将軍
 満済の報告を聞いた幕閣たちはさっそく籤引きの準備を準備をはじめた。
義持の死後では遅すぎるということで、遺言には背(そむ)くものの、
籤引きは生前におこない、引いた籤を開封するのだけは死後におこなうことに決まった。
候補者は義持の弟である青蓮院義円(しょうれんいんぎえん)・大覚寺義照(ぎしょう)
・景徳寺虎山永隆(こざんえいりゅう)・梶井義承(かじいぎしょう)の4人である。
満済がそれぞれの名を籤に書きこんで続飯(そくい)付けし、
山名時煕がその上に封を書いた。
(『室町人の精神 日本の歴史12』桜井英治 講談社学術文庫 2009年)

そくい【続飯】(ソクイイの約)飯粒を練って作った糊。
(『広辞苑 第六版』岩波書店 2008年)
それら四通の籤を管領畠山満家が石清水八幡宮へ持参し、
神前でそのうちの一通だけを引いて正月17日深夜に持ち帰ってきた。
義持は翌18日に亡くなり、その後、管領以下諸大名が一堂に会して籤を開封したところ、
そこには「青蓮院殿」の文字があった。
翌19日に管領が青蓮院を訪ねて義円に籤の結果を報告し、
義円はかたどおりの辞退ののちこれを受けいれた。
そして同日中に諸大名に供奉(ぐぶ)されて
青蓮院から日野義資(ひのよしすけ)亭に入るのである。
義円は3月12日に還俗(げんぞく)して義宣(よしのぶ)と改名し、
ちょうど1年後の1429年(正長 しょうちょう 2)3月12日、
将軍宣下(せんげ)をうけて義教(よしのり)と改名した。

(…後略…)

(『室町人の精神 日本の歴史12』桜井英治 講談社学術文庫 2009年)
楠葉の駅で父と別れて天満橋に向かいました。
本屋さんで探していると先程から紹介している
室町人の精神 日本の歴史12』があったので購入しました。
曜日変わり御膳を食べながら読んでいると…

はじめに――室町亭のもののけ

(…略…)

 ところでこれはあまり知られていない事実だが、
この室町亭は当時有名な心霊スポットであった。
室町亭にもののけが出没するようになったのは、
義教が室町亭に移ってまもない1432年(永享 えいきょう 4)ごろからであり、
以後、1459年(長禄 ちょうろく 3)ごろまで
4半世紀以上にわたってもののけは出没しつづけた。
襲われるのは大概女房たちであり、髪や衣服を切られるケースが圧倒的に多かった。
それはときに野狐(やこ)のしわざとされ、
ときには将軍に捨てられた女房たちの生霊(いきりょう)のしわざと考えられた。
義政の時代には、義政の母日野重子(ひのしげこ)をはじめ、
女房たちがもののけを恐れて室町亭に近づきたがらなかったために、
一時室町亭が廃棄されていた時期もある。
彼らにとってもののけはそれほど身近で現実性を帯びた存在だったということである。
 けれども、応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱がはじまるころには
もののけもほとんど目撃されることがなくなった。
もののけたちにとっても住みにくい時代がやってきたのである。
応仁・文明の乱とは、日本人の精神史にとってそのような
呪術性からの解放のエポックであったことを、まずここで銘記しておきたい。
この転換期を経て、日本の歴史ははじめて近代化への道をしずかに歩みはじめるのである。

(…後略…)

(『室町人の精神 日本の歴史12』桜井英治 講談社学術文庫 2009年)

明日の天気は雨のようですし、
父の歯科への送迎をするので更新をお休みします。
また、2月1日(金)に虫歯の治療、
2日(土)に血液検査があるので更新をお休みします。
3日ほどお休みしますが入院ではありません(^^ゞ

2 件のコメント:

  1. こんばんは~

    >お札とお守を納めたいのでやってきました
    お札納めには、とってもいいお天気でしたねぇ~
    暖かで。。(^^)/

    >3日ほどお休みしますが入院ではありません
    はぁ~い、了解しました(^-^;
    だんだんに定期的なお医者さん通いが増えていますよね。
    診てもらって安心いたしましょう(^^)/

    返信削除
    返信
    1. カイさんおはようございます(*^O^*)/
      >お札納めには、とってもいいお天気でしたねぇ~
      男山の上なのに風もなくて暖かで昨日お詣りしてよかったです(^_^)b

      >だんだんに定期的なお医者さん通いが増えていますよね。
      診ていただく項目が増えてきますね(^_^;)
      今日は、父の歯科ですが
      明日は、σ(^_^;の虫歯の治療です。
      先日、歯周病予防で歯科衛生士さんに診ていただくと
      虫歯を見つけていただきました。
      土曜日は来週、循環器科の受診日なのでそのまえに血液検査です
      病院は苦手ですが診てもらうことで毎日、歩けますp(^-^)q

      削除