2019年1月9日水曜日

初雪

まだ雨が残っていたのですが
出かける時には青空が広がっていました。
でも、父とコーヒータイムをしたあと歩き出すと
急に空が暗くなり雪混じりの雨が降り出した(°0°)
ソシンロウバイに隠れている子は雨宿りをしているのではありません(^_-)
青い目の人形」♪をご存じですか?
青い目の人形
  雨情と長世が愛をこめた人形も戦争で迷子に


 野口雨情が詩「青い目の人形」を
童謡雑誌「金の船」に発表したのは大正10年(1921)である。
のちの単行本では蕗谷虹児らの美しい挿絵で飾られていた。
〝青い目をした お人形は アメリカ生れの セルロイド〟
とは、まことに説明的であるが、自然にそのように語るだけで、
当時の人々はエキゾチシズムを感じたのにちがいない。
時代の先端をゆくアイドルだったのだろう。
(『歌をたずねて――愛唱歌のふるさと』毎日新聞学芸部 音楽之友社 1983年)
 雨情は娘・香穂子がキューピーと遊んでいるのを見て作詩したといわれる。
ヨチヨチ歩きの娘の姿にキューピーの可愛さを発見したのかもしれない。
本居長世が作曲して、戦前大いに流行する童謡となった。
〝やさしい日本の 嬢ちゃんよ 仲よく遊んで やっとくれ〟
と雨情は呼びかけたのだが、太平洋戦争が始まると、
この童謡が〝アメリカ生れの〟と歌詞で強調していることが、
かえってアダとなって、悲しい運命をたどることになる。
キューピーにかぎらず、
青い目をした人形はすべて〝一杯涙をうかべ〟消されていったのだ。
(『歌をたずねて――愛唱歌のふるさと』毎日新聞学芸部 音楽之友社 1983年)
 昭和55年8月出版された武田英子著「青い目をした人形は」(太平出版社)には、
昭和3年ごろからアメリカの「親善使節」として送られ、
全国各地の小学校、幼稚園い配布されたアメリカ人形の行方が丹念に追われている。
これらは全米の各州から贈られた手作りの人形で、
その数は日本国内だけでも一万体を超え、
ほかに旧満州、朝鮮、台湾にも配布され、総数は正確にはつかみきれない。
日本人形もまたお礼にアメリカに送られた。
(『歌をたずねて――愛唱歌のふるさと』毎日新聞学芸部 音楽之友社 1983年)
 これらは、排日機運の高まるアメリカで、
親日的な宗教家たちが中心となり実現した「人形使節」だったが、
童謡『青い目の人形』が日本で大流行していることも、
この運動を前進させるきっかけになったという。
しかし、雨情の童謡はセンチメンタルだとでも考えたのだろうか、
あるいは日米関係についての政策的な背景があったためか、
日本各地で催された人形歓迎会では、
小学唱歌ふうの『人形を迎える歌』があらたに作曲されて歌われた。
(『歌をたずねて――愛唱歌のふるさと』毎日新聞学芸部 音楽之友社 1983年)

・「人形を迎える歌」(YouTube)
 ところが、太平洋戦争が始まり、戦局が日本に不利になるとともに
「アメリカ生まれの青い目の人形」は「鬼畜米英」の手先、
人形(ひとがた)として、突き刺され、焼かれ、捨てられる運命をたどった。
キャラメルの箱に印刷された青い目の美少女が絵が姿を消し、
キューピーさんは「迷子になって」しまったのだ。
とくに公的教育機関では軍部の意向を気にして、
善意の教師の機転や愛情で延命した一部の人形を除いて、ほとんどが捨てられた。
(『歌をたずねて――愛唱歌のふるさと』毎日新聞学芸部 音楽之友社 1983年)
 それとともに、セレモニーのために作られた『人形を迎える歌』は消えてしまったが、
可愛いキューピーへの愛憐の心から生まれた『青い目の人形』は、
人々の心に今も残っている。
野口雨情と本居長世が青い目の人形にこめた愛は、
決して束の間のセンチメントではなかったのである。
(『歌をたずねて――愛唱歌のふるさと』毎日新聞学芸部 音楽之友社 1983年)
 現在、横浜の山下公園に隣接する産業貿易センタービル内にある「人形の家」には、
昭和2年の親善使節「青い目の人形」をはじめ、世界各国の人形が集められ、
親善の輪を広げる役目を果たしている。
(『歌をたずねて――愛唱歌のふるさと』毎日新聞学芸部 音楽之友社 1983年)
紹介されている武田英子さんの『青い目をした人形は』の
出版元の太平出版社が倒産しているようです。
同じ本かはわかりませんが、
人形たちの懸け橋 日米親善人形たちの二十世紀』が
小学館から電子書籍として出ています。
図書館などで読むことができると思います。
「人形の家」は現在「横浜人形の家」として公開されています。
青い目の人形について検索するといろんな記事がヒットします。
たとえば…
・「青い目の人形とは・・・」(八王子市立 第八小学校)

・「平和の心が宿る青い目の人形」(日本赤十字社 愛媛県支部)

当時の社会情勢が分る記事として
・「青い目の人形を受け入れた渋沢栄一が考えていたこと」(國學院大学)
父の一枚です。
散歩から帰ってくると撮影した画像を一緒に見た後
4、5枚ほどプリントしてあげています。
いつもは私に任せている父がソシンロウバイの画像をリクエストしました。
2012年1月の画像の中に母がソシンロウバイを見ている画像があったので
それもプリントしてあげると喜んでくれました。