2019年1月7日月曜日

七草

青空が広がっていて気持ちのいい朝でした(^。^)
7日は「七草粥」を食べて御馳走で弱った胃をいたわる日ですね(^_-)
そう言えば「ごちそうさま」は、韋駄天様のことだったのを
チコちゃんに叱られる!「大河ドラマ“いだてん”とコラボスペシャル
で知りました(^^ゞ
龍谷ミュージアム元館長のつぶやき」さんも呟いていました。
若い青菜を摘んで、春の息吹を体に取り入れる七種粥
 お正月も三が日を過ぎると、晴れやかな雰囲気も落ちつき、
徐々に日常の生活が戻ってきます。
週末の関係もありますが多くの企業や官公庁では、四日を仕事始めとし、
新年の挨拶をしてから通常の業務に戻ります。
かつては仕事始めの日に晴着を着て出社する風景も見られましたが、
最近ではほとんどそれも見られなくなりました。
(『和ごよみで楽しむ四季暮らし』岩崎眞美子 学研プラス 2009年)
 門松など正月飾りも出しておくのは七日まで、
正月七日までを「松の内」と呼ぶのはそのためです。
本来、松の内は正月十五日の小正月までの期間をさすものでしたが、
現在は七日までを松の内と考えるのが一般的なようです。
七日は「七日正月」とも言われ、お正月の重要な節目と考えられました。
一月七日の朝に「七草粥」をいただくのも、よい気分の切り替えになりますね。
(『和ごよみで楽しむ四季暮らし』岩崎眞美子 学研プラス 2009年)
 一月七日に七草粥を食べるのは、奈良時代の昔から伝わる風習です。
百人一首にも
君がため春の野にいでて若菜つむわが衣手(ころもで)に雪は降りつつ
(光孝 こうこう 天皇)という有名な歌があります。
新春の野に出てまだ若い青菜を摘んで食べることは、
春の息吹を体に取り入れることでもあり、万病を除く効果があると信じられたのです。
中国の古俗には、元日から八日までの各日に、
鶏、狗(いぬ)、羊、猪、牛、馬、人、穀を当てはめて占うという定めがありました。
ゆえに七日目のこの日を「人日(じんじつ)の節句」と呼び、
七草の菜を食べて身を清めたのだそうです。
人日の節句は、江戸時代に入って、五節句のひとつに数えられ、
武家社会の重要な行事のひとつとなりました。
(『和ごよみで楽しむ四季暮らし』岩崎眞美子 学研プラス 2009年)
 春の七草の多くは、今も野山や畑でよく見られる植物ばかり。
「君がために若菜つむ」を実践したいところですが、
残念ながら新暦の一月ではそれもむずかしそうです。
とはいえお正月のごちそうに疲れた胃には、
うすい塩味の七草粥の味がとてもやさしく感じられます。
お正月の残りのお餅をいれても、おいしくいただけますね。

鏡開き
1月11日は鏡餅を下げていただく日。
神聖なものなので包丁は使わず、槌や手で割るのがしきたり。
(『和ごよみで楽しむ四季暮らし』岩崎眞美子 学研プラス 2009年)
お正月にお酒をいっぱい召し上がった方もいると思います(^_-)
Kazeは、発病以来、神社でいただいたお神酒でさえフワフワになったので
お正月のお屠蘇(正式の薬草酒ではありません)も口をつけるだけにしました(^^ゞ
江戸時代の酒についてこんなことが書かれていました。
下り物と酒
 伴四郎の日記を読んで驚くのは、
昼と言わず夜と言わずよく酒を飲んでいることです。
なかには風邪薬代わりに飲んでいる時もありました。
江戸時代、各地に酒の生産地がありましたが、
伊丹や池田そして灘などの上方の酒が生産量、
品質ともにぬきんでた存在でした。
こうした上方の酒は「下り酒」として江戸でもてはやされていました。
(『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版
       青木直己 ちくま文庫 2016年)
 江戸時代初期から中期にかけて酒に限らず塩や醤油に油、
そして呉服や太物(ふともの 綿や麻の織物)をはじめとして、
品質の良い物は京や大坂などの上方から江戸へ運ばれており、
そうした物を「下り物」と呼んでいました。
現在では、東京へ向かう列車を上り列車と呼んでいますが、
当時は京へ上ると称して、江戸へは下るのです。
(『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版
       青木直己 ちくま文庫 2016年)
 江戸近郊で作られる物は「地廻り物」などと呼ばれており、
上質な下り物に対して品質的に劣り「下らぬ物」などと呼ばれ、
「くだらない」という言葉の語源とも言われています。
 しかし、時代とともに地廻り物の品質も向上して、
徐々に下り物を駆逐していきました。
その良い例が銚子や野田に代表される醤油でした。
ただし、酒に関しては長く下り酒に及ばず、
江戸時代後期には百万樽に及ぶ下り酒が江戸にもたらされました。
(『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版
       青木直己 ちくま文庫 2016年)
 こうした背景には、上方の酒造りの技術革新があったようです。
酒を造る過程で、米を糖化させるには30度から32度のくらいの温度が適しており、
夏が酒造りの最盛期でした。
ただしこうした製法では、雑菌のために
酸味を帯びた酒になってしまうこともありました。
寒く雑菌の発生しづらい冬季にじっくりと造る寒造りなど、
製法に工夫がこらされ、後には高い精米度と寒造りによって
混じりっけのない「灘の生一本」が登場して江戸市場を席巻しています。
(『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版
       青木直己 ちくま文庫 2016年)
 濁り酒は別にして、清酒の場合は冷やで飲むよりも燗酒が主流だったようです。
最初は鉄鍋で直接温めたのですが、中期以降になると
チロリと呼ばれる金属製の容器に入れて温めて、
柄のついた銚子に移してから、盃に注いで飲みました。
江戸時代の居酒屋の絵には、壁に掛けられたチロリを見ることができます。
また、チロリから直接杯に注ぐ場合もあったようです。
ただし、伴四郎の頃には陶器製の徳利を小ぶりにして、
直接湯煎して温める燗徳利が使われるようになっています。
 現在、居酒屋で「お銚子何本」などと注文していますが、
本来は銚子と徳利は別物だったのです。
(『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版
       青木直己 ちくま文庫 2016年)

燗酒用の酒器と盃洗」(日本酒図書館 菊正宗)
父はモズのオスとメスに会っていましたp(^-^)q
帰りに買ってきました。
朝食でなく夕食に雑炊にしていただきました(^_-)

七草のおかいさん
 せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ。
これが春の七草である。
七草粥は万病をはらうといい、正月の七日に祝うならわしは、古くからあった。
その前夜、まな板の上に洗った菜をのせ、
右手に包丁、左にすりこぎと金火ばしを置いて、唱えごとをしながら菜を切る。
「唐土(とんど)の鳥と日本の鳥が渡らぬさきに七草なずな」と三回。
白粥に青菜が散った風情は春らしく、餅は別にたいて入れる。

 けふぞかしなづなはこべら芹つみてはや
 ななくさのお物まゐらん  慈 鎮

 一(ひと)とせに一度つまるる菜づなかな  芭 蕉
(『京都歳時記』宗政五十緒・森谷尅久編集 淡交社 昭和61年)

七草粥の豆知識」(kikkoman)