2019年1月11日金曜日

青空が見えると

はじめは昨日のようにどんよりとした雲が多かったのですが、
雲の間から青空が見えて、次第に広がってきました。
青空が見えるだけで暖かく感じます(^_^)v
妹に録画してもらった「神様の木に会う~にっぽん巨樹の旅~」を
父と見ていてその姿に圧倒されました。
そんな巨樹を尋ねることは叶いませんが
クスノキについて稲本正さんの『森の博物館』より一部転記します。
楠[クス]
しびれるような香りに満ちた、彫刻に最も適した木


(…略…)

 ところで、楠はいつの時代から使われていたか。
これは次に紹介する椿や樫(かし)と同じように、
縄文前期(今から五千年以上前)から使われていたといわれている。
しかし楠が一番花形として輝いた時期をあえて限定すれば、
やはりそれは飛鳥時代であろう。
名著『木の文化』(鹿島出版会)を著した小原二郎さんによれば、
現存するほとんどの主要な仏像約600体を調べたところ、
飛鳥時代はほとんど楠で仏像が造られたという。
皆さんも奈良を旅されて、飛鳥時代の仏像を見られたときは、
「ああ、これは千三百年前ぐらいの楠なのだなあ」と思って見てほしい。
法隆寺の百済観音(くだらかんのん)、中宮寺(ちゅうぐうじ)の弥勒菩薩(みろくぼさつ)
そして法輪寺(ほうりんじ)の虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)、どれも楠の木でできている。
もう一つ、楠でできている有名な作品がある。
『玉虫(たまむし)の厨子(ずし)』だ。
彫刻のうまさにも驚くが、この玉虫厨子が千三百年ほど前につくられたとすると、
そのつくった職人の腕の良さに脱帽したくなる。
千年経ってもびくともしないものをつくるには、
(ほぞ)穴や枘がよほどきれいに細工されていなければいけない。
仏像にしても箱物にしても、千年の月日を生き延びたものには、
その生き延びた時間の重みが嫌でも奥深くまでしみ込んでいて、
見ている者は、いつの間にか別の世界につれて行かれたような錯覚に陥る。
(『森の博物館』稲本正 小学館 1995年)
 古人も楠をよく彫刻に使ったが、現代の彫刻作家も楠をよく使う。
舟越桂(ふなこしかつら)さんは、楠を使って国籍不明の人物像を彫る。
本人は意識していないのかもしれながい、西欧人のような眼をしていながら、
どこかそこには観音様の趣がある。
西洋人から見ても東洋人から見てもエキゾチックな趣があり、
それでいて楠のもつ木の温かみが伝わってきて、
つい話しかけてみたい気が起きたりもする。
また、深井隆(ふかいたかし)さんは
「人間の体を彫らないで、特に西洋のように裸体を彫らないで、人間を表現したい」
という欲求から『羽根のはえた少し傷ついた椅子』をよく彫刻する。
楠という素材がもつ温かみがあるので、
抽象的で哲学的作品だが、何か親しみ深さがあるような気がしてしまう。
(『森の博物館』稲本正 小学館 1995年)
好きな詩人に山尾三省さんがいます。
「聖老人」を転記します。
分けて書きますが、原文は分かれていません。
  聖老人

屋久島の山中に一人の聖老人が立っている
(よわい)およそ七千二百年という
ごわごわしとしたその肌に手を触れると
遠く深い神聖の気が沁み込んでくる
聖老人
あなたは この地上に生を受けて以来 ただのひとことも語らず
ただの一歩も動かず そこに立っておられた
それは苦行神シヴァの千年至福の瞑想の姿に似ていながら
苦行とも至福ともかかわりのないものとしてそこにあった
ただ そこにあるだけであった
あなたの体には幾十本もの他の樹木が生い繁り あなたを大地とみなしているが
あなたはそれを自然の出来事として眺めている
あなたのごわごわとした肌に耳をつけ せめて生命の液の流れる音を聴こうとするが
あなたはただそこにあるだけ
無言で 一切を語らない
(『聖老人』山尾三省 野草社 1988年)
聖老人
昔 人々が悪というものを知らず 人々の間に善が支配していたころ
人間の寿命は千年を数えることが出来たと 私は聞く
そのころは人々は神の如くに光り輝き 神々と共に語り合ったという
やがて人々の間に悪がしのびこみ それと同時に人間の寿命はどんどん短くなった
それでもついこの間までは まだ三百五百を数える人が生きていたという
今はそれもなくなった
この鉄の時代には 人間の寿命は百歳を限りとするようになった
昔 人々の間に善が支配し 人々が神と共に語り合っていたころのことを
(『聖老人』山尾三省 野草社 1988年)
聖老人
わたくしは あなたに尋ねたかった
けれども あなたはただそこに静かな喜びとしてあるだけ
無言で一切のことを語らなかった
わたくしが知ったのは
あなたがそこにあり そして生きている ということだけだった
そこにあり 生きているということ
生きているということ
(『聖老人』山尾三省 野草社 1988年)
聖老人
あなたの足元の大地から 幾すじもの清からかな水が沁み出していました
それはあなたの 唯一の現わされた心のようでありました
その水を両手ですくい わたくしは聖なるものとして飲みました
わたくしは思い出しました
法句経 九十八
  村落においても また森林においても
  低地においても また平地においても
  拝むに足る人の住するところ その土地は楽しい――
法句経 九十九
  森林は楽しい 世人が楽しまないところで 貪欲を離れた人は楽しむであろう
  かれは欲楽を求めないからである――
森林は楽しい 拝むに足る人の住するところ その土地は楽しい
聖老人
あなたが黙して語らぬ故に
わたくしは あなたの森に住む 罪知らぬひとりの百姓となって
鈴振り あなたを讃える歌をうたう
  <1978年11月発行月刊『Life Science』(生命科学振興会)に発表>
(『聖老人』山尾三省 野草社 1988年)