2019年1月26日土曜日

暗い空…

空を雲が覆っていっそう寒さを感じました。
最初は風が冷たく感じましたが
思ったほど強風にならなかったので助かりました。
昨日は、「東風吹かば…」の歌を紹介しましたが、
今日は山上憶良の歌を転記しますφ(.. )
(あま)ざかる 
(ひな)に五年(いつとせ) 
住まひつつ 
都のてぶり 
忘らえにけり
  巻五・880 山上憶良(やまのうえのおくら)

遠い地方に五年も住みつづけて、
都の雅(みやび)な振る舞いも
すっかり忘れてしまいました
(『NHK日めくり万葉集vol.1』中村勝行編 講談社 2009年)
――山上憶良が、都から赴任した九州・筑前(現在の福岡県)で詠んだ歌です。

[選者 浅見宣義(あさみ・のぶよし)裁判官]
 裁判官には転勤がつきもの。
時には単身赴任をしたり、故郷を離れたりして、いろいろと思うところがあります。
万葉集に同じ気持ちを詠んだ歌があるのも感慨深いですね。
(『NHK日めくり万葉集vol.1』中村勝行編 講談社 2009年)
――大分地方裁判所で判事を務める浅見宣義さんは、
20年にわたる裁判官生活の折に触れて、万葉集をひもといてきました。

[浅見]
 裁判で扱うのは、人間関係や財産をめぐる紛争です。
その過程で、当事者間における対立のあまりの激しさにとまどい、
人間にとって大事なものを再確認したくなることがあります。
万葉集には、そうした大事なものを素直に詠うものが多く、
万葉集の価値観にとてもひかれます。
(『NHK日めくり万葉集vol.1』中村勝行編 講談社 2009年)
――なかでも浅見さんがひかれる歌人の一人が山上憶良。
憶良が筑前に赴任したのは六十代後半のこと。
大陸との外交窓口「太宰府」が置かれた重要なこの地で、
憶良は都では知ることのなかった貧しい人々の暮らしに触れ、
人間の苦悩や弱さを見つめる歌を作りました。

[浅見]
 故郷や大都市以外の地方に赴任した裁判官は、
その地域の全事件を通して、自分が知らなかったカルチャーや、
その地方ならではの歴史を感じることが多く、とても勉強になるのです。
(『NHK日めくり万葉集vol.1』中村勝行編 講談社 2009年)
――九州に滞在すること5年。
「都の振る舞いもすっかり忘れてしまった」と詠った憶良は、
任期を終えて都に帰ると、一年余で世を去りました。

[浅見]
 僕ら裁判官は三、四年で任地が変わりますが、
この歌の場合は「鄙に五年」です。
私の場合は、地方出身者なので、地方勤務はどちらかというと好きなのです、
家族と離れる単身赴任はつらいですね。
(『NHK日めくり万葉集vol.1』中村勝行編 講談社 2009年)
憶良と官僚制度
 古代律令制度における官僚機構は、すでに精緻にして巨大なものであった。
中央官庁というべき奈良の都には、8世紀半ば、
大臣・納言・参議といったトップクラスから、各官庁の仕丁(しちょう 下働き)、
各地から選抜された衛士(えじ)まで含めると、
およそ一万人を超える役人がいたと推定されている。
(『NHK日めくり万葉集vol.1』中村勝行編 講談社 2009年)
 一方、地方では、中央から派遣された国司、
その下には地元の有力者らを任命した郡司が置かれた。
国司は、行政、司法、警察から祭祀に至るまで全てを管轄下においたから、
管内の最高権力者と言えるだろう。
任務の根底には、律令制度の浸透と中央集権の強化があった。
国司たちは租税収入をいかに増やすかに腐心し、
耕地の拡充や人口増加が達成されると出世の階段を上っていくわけである。
(『NHK日めくり万葉集vol.1』中村勝行編 講談社 2009年)
 役人になるにはいくつかのルートがあり、任官試験、勅旨による特別任官、
舎人(とねり)からの登用などのほか、
親が従五位以上であると自動的に位階を与えられる
「蔭位(おんい)」というシステムもあった。
山上憶良の場合、四十歳を過ぎてから
遣唐少録に任じられたのが役人としてのスタートであったようで、
最終官位は従五位下であった。
(『NHK日めくり万葉集vol.1』中村勝行編 講談社 2009年)
 養老3年(719年)、これまで地方行政では国司がトップだったのを、
さらに上位に按察使(あんさつし)という役職を置くようになる。
ただ、太宰府には、太宰帥(だざいのそつ)という
国司より上の役職があったため置かれなかった。
 山上憶良が筑前守に赴任した2年後の神亀5年(728年)、
64歳の政府高官が太宰帥として着任する。
大伴旅人であった。  (編集部)
(『NHK日めくり万葉集vol.1』中村勝行編 講談社 2009年)
  山上憶良臣(やまのうへのおくらおみ)、宴(えん)を罷(まか)る歌一首
憶良(おくら)らは 今(いま)は罷(まか)らむ 
子泣(こ な)くらむ 
それその母(はは)も 吾(あ)を待(ま)つらむそ  (巻三・337)

歌意
憶良めは今はお暇致しましょう。
子が泣いているでしょう。
きっとその子の母も私を待っているでしょうよ。
(『万葉集鑑賞事典』神野志隆光編 講談社学術文庫 2010年)
鑑賞
 宴を中座する時の歌か、お開きの歌かは、説の説の分れるところ。
しかし座を盛り上げる宴会芸であることは動かないだろう。
冒頭から自分の名前を読み込む歌など極めて稀で、それだけで充分な諧謔である。
しかも子守に帰るのだと言う。
憶良は70歳前後であるから、泣きわめくような幼児がいるとすれば、
所謂恥かきっ子である。
そして自分の妻をその子の母と呼ぶところも、恐妻家を演じていることを思わせる。
(『万葉集鑑賞事典』神野志隆光編 講談社学術文庫 2010年)
「世間の住(とど)み難(がた)きを哀(かな)しぶる歌」(巻五・804~805)や
「貧窮問答歌」(892~893)、「沈痾自哀文(ぢんあ じ あいぶん)などにも見られる
自己の戯画化で、ユーモリスト憶良の一面をよく表す。
無論、子を中心に歌っているところも憶良ならではである。
「らむ」の反復、「それその」(「それ」は漢文の発語の訓読に倣った強調)といった歌の呼吸も楽しい。
(『万葉集鑑賞事典』神野志隆光編 講談社学術文庫 2010年)