2019年1月28日月曜日

降りそうだったけど

今朝も曇り空で雨が降りそうでしたが
途中で青空が見えました。
どなたかが前カゴに荷物を載せたままにしているのを
ハシブトガラスが心配して見にきたのかな(^^ )
昨夜のNHKスペシャル「ベイリーとゆいちゃん」よかったですね(^-^)
手術室に入ったゆいちゃんの姿が見えなくなっても
手術室のドアーを見つめていたり
手術後、ゆいちゃんをおとづれたベイリーがいつもは指示に忠実なのに
ゆいちゃんが眠りにつくまで傍にてくれる姿にうるうるしていました…
重い病の子どもたちを支える セラピー犬 ベイリー
番組中に速報が入ったので再放送を再度録画しようと思ったら
2月27日(水)午前0時40分~(26日深夜)覚えているかな(^_^;)

大伴家持の有名な歌「貧窮問答歌」を転記しますφ(.. )
なお長歌(892)は二つに分けています。
  貧窮問答(びんぐもんだふ)の歌一首 幷(あは)せて短歌

風交(ま)じり 雨降る夜(よ)の 雨交(ま)じり 
雪降る夜(よ)は すべもなく 寒(さむ)くしあれば 
堅塩(かたしほ)を 取りつづしろひ 糟湯酒(かすゆざけ) うちすすろひて 
しはぶかひ
 鼻びしびしに 然(しか)とあらぬ 
ひげ搔(か)き撫(な)でて 
(あれ)を除(お)きて 人はあらじと 誇(ほこ)ろへど 
寒くしあれば 麻衾(あさぶすま) 引(ひ)き被(かがふ)  
布肩衣(ぬのかたぎぬ) 有(あ)りのことごと 着襲(きそ)へども 
寒き夜(よ)すらを 我(われ)よりも 貧(まづ)しき人の 
父母(ちちはは)は 飢(う)ゑ寒(こ)ゆらむ 
妻子(めこ)どもは 乞(こ)ふ乞(こ)ふ泣くらむ 
この時は いかにしつつか 汝(な)が世(よ)は渡る 
(『万葉集鑑賞事典』神野志隆光編 講談社学術文庫 2010年)
天地(あめつち)は 広(ひろ)しといへど 
(あ)がためは 狭(さ)くやなりぬる 
日月(ひつき)は 明(あか)しといへど 
(あ)がためは 照(て)りや給(たま)はぬ 
人皆(ひとみな)か 吾(あ)のみや然(しか)る 
わくらばに 人はあるを 人並(ひとなみ)に 
(あれ)もなれるを 綿(わた)もなき 布肩衣(ぬのかたぎぬ)の 
海松(みる)のごと わわけ下(さ)がれる かかふのみ 
(かた)にうち掛(か)け 
(ふ)せ廬(いほ)の 曲(ま)げ廬(いほ)の内(うち)に 
直土(ひたつち)に 藁解(わらと)き敷(し)きて 
父母(ちちはは)は 枕(まくら)の方(かた)に 
妻子
(めこ)どもは 足(あと)の方(かた)に 囲(かく)み居(ゐ)て 
(うれ)へ吟(さまよ)ひ 
かまどには 火気(ほけ)(ふ)き立てず 
(こしき)には 蜘蛛の巣かきて 飯炊(いひかし)く ことも忘れて 
ぬえ鳥(どり)の のどよひ居(を)るに 
いとのきて 短(みじか)き物を 
端切
(はしき)ると 言(い)へるがごしもと取(と)る 
里長(さとをさ)が声(こゑ)は 寝屋処(ねやど)まで 
来立(きた)ち呼(よ)ばひぬ 
かくばかり すべなきものか 世の中の道  (巻五・892)
(『万葉集鑑賞事典』神野志隆光編 講談社学術文庫 2010年)
(よ)の中を 憂(う)しとやさしと 思(おも)へども 
(と)び立(た)ちかねつ 鳥(とり)にしあらねば  (893)
(『万葉集鑑賞事典』神野志隆光編 講談社学術文庫 2010年)
歌意
 風に混じって雨が降る夜、雨に混じって雪が降る夜は、
どうしようもなく寒いので、堅塩を少しずつつまんでかじり、
糟湯酒をちびちびすすって、咳き込んで鼻をびちゃびちゃさせ、
立派でもないひげを搔き撫でては、
自分以外に人物とてあるまいと威張ってはいても、
やはり寒いので、麻の夜具を引きかぶり、袖無しのありったけ着重ねても、
それでも寒い夜だというのに、私より貧しい人の父母は飢えて凍えているだろう。
妻や子はひもじがって泣いているだろう。
こういう時、どうやってあなたは世を渡っているのか。
(『万葉集鑑賞事典』神野志隆光編 講談社学術文庫 2010年)
 天地は広いというが、私にとっては狭くなったのか。
日や月は明るいというが、私には照って下さらないのか。
人間皆そうか。私だけがそうなのか。
運良く人間と生まれ、人並みの体を持ったのに、
綿も入っていない袖無しで海草のように破れ下がったぼろぼろばかりを肩に引っ掛け、
伏せたひしゃげた小屋の中で、地べたに藁を撒き敷いて、
父母は枕の方で、妻子は足の方で、輪になって座ったまま辛がってうめき、
かまどに火を吹き立てることもなく、
蒸し器には蜘蛛が巣をかけ、飯の蒸し方も忘れて、
トラツグミのようにひいひい呻(うめ)いているところに、
特に短いやつの端を切る、ということわざそのままに、
むちを持った里長の声は、寝床まで来てわめきたてる。
かくも仕方ないものか、世の中の道は。 (892)
(『万葉集鑑賞事典』神野志隆光編 講談社学術文庫 2010年)
世の中は辛いもの、恥ずかしいもの、と思うけれど、飛び去ることもできない。
鳥ではないのだから。  (893)
(『万葉集鑑賞事典』神野志隆光編 講談社学術文庫 2010年)
鑑賞
 続日本紀は、奈良朝初年の農民の逃亡に関する勅を多く載せている。
律令国家が戸籍で土地に縛り付けた結果とはいえ、
農民が徴税・課役に苦しんだのは確かだろう。
当該歌は、左注に「山上憶良頓首謹上」とあり、某高官に奏ったものと推測される。
地方官を歴任した憶良が民衆の窮状を訴える意義は、無論あっただろう。
しかしそれだけなら、問答という特殊な体裁を取る必要も、
そもそも歌にする必要すらなかったはずである。
 長歌前半の問者は、憶良の(戯画化された)自画像である。
「堅塩」や「糟湯酒」は暖を取るためのもので、
上等の酒肴ではないが、極貧を示すものではない。
「我を除(お)きて 人はあらじ」というプライドは辛うじて保たれている。
しかしそのプライドは、寒さに震える現状を惨めに思わせる。
憶良は、自己認識として貧者であった(巻五・900~901)
(『万葉集鑑賞事典』神野志隆光編 講談社学術文庫 2010年)
 働けど働けど……という思いは、与えられた生の拙(つたな)さを思わせよう。
「大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)」などの仏典は、
人間の身を得て、仏法に近づくことがいかに貴重かを説く。
その点において平等でありながら、なぜかくも人生には差があるのか。
それを思う時、プライドを持てない極貧者に目が向けられる。
「わくらばに 人とはあるを」という答者にも、
そうした憶良の認識が投影されている。
最後に残るのは、自分が人間であるという誇りなのである。
(『万葉集鑑賞事典』神野志隆光編 講談社学術文庫 2010年)
 鳥は自由であるが、鳥ならぬ人間は地に生きねばならない。
煩悩の世間にあるのは辛くかつ恥ずかしいことである(反歌)。
しかし世間を「すべなし」と嘆ずる根底には、なおそれに対する愛があろう。
生き難さと生への執着の矛盾を身に引き受け憶良なればこそ、
人間の普遍的な問題として「貧窮」を、かくもリアルに描くことができたのである。
(『万葉集鑑賞事典』神野志隆光編 講談社学術文庫 2010年)
今朝の父の一枚です。
カワセミの後ろ姿しか撮せなかったことを残念がっていました。