2019年1月3日木曜日

日差しが顔をだしてくれると

気温が低く曇っていたので寒かったです…
時々、青空が戻ってくれて暖かさを感じました。
買い物から帰ってくると
熊本県和水町で震度6弱 津波の心配なし」のニュースが入ってきた
熊本のみなさんが無事でありますように
姪は看護師で31日も夜勤で働いていましたが
明日から仕事始めのところが多いのではないでしょうか?
白玉(しらたま) 
人に知らえず 
知らずともよし 
知らずとも 
我し知れらば 
知らずともよし
 
   巻六・1018 元興寺(がんごうじ)の僧(ほうし)

真珠は人に知られない
知らなくてもいい
知らなくても、
自分さえ価値を知っていれば、
世の人は知らなくてもいい
(『NHK日めくり万葉集vol.1』中村勝行編 講談社 2009年)
[選者 馬場あき子(ばば・あきこ) 歌人、文芸評論家]
 この歌は「知る・知らない」という言葉を五回も繰り返しています。
それで、作者によほど痛切な悲しみがあったんだということがわかります。

――奈良の都にあった、元興寺の僧侶が詠んだ歌です。
この寺は588年、飛鳥に創建され、のちに平城京に移されました。
朝廷の保護を受けた有力な寺の一つです。
そこに、博識で修業も十分に積んだ一人の僧侶がいましたが、
世間に認められず、そのことを嘆いて詠んだと、題詞に記されています。
(『NHK日めくり万葉集vol.1』中村勝行編 講談社 2009年)
馬場
 これは旋頭歌(せどうか)という形の歌です。
旋頭歌は「五七七 五七七」と同じ旋律を三回繰り返すので、
とても調子がいい反面、韻律が乗り過ぎてしまう。
そのため万葉後期には衰えてしまい、万葉集の中には62首しかありません。
 この歌の場合は、旋頭歌の響きが非常に生きていますね。
「白玉は人に知らえず」と一つの断定をしていますが、
その断定を「知らずともよし」と言って自己を慰安し、
さらに、自分が知っていれば、世間が知らなくてもいいんだというふうに、繰り返し慰める。
その、諦めても諦めきれない心の中のもやもやを表現しているところが読者を捉える。
 言わずにはいられないが、具体的には言えない。
混沌とした心のなかからにじみ出る歌の響きが、
その人の本音の美しさを醸(かも)し出すのではないでしょうか。
(『NHK日めくり万葉集vol.1』中村勝行編 講談社 2009年)
元興寺(がんごうじ)のこと
 日本に仏教が伝来したのは6世紀半ば、
百済の聖明王(せいめいおう)が仏像や経論を献上してきたことに始まる。
『上宮聖徳法王帝説』では538年、『日本書紀』では552年のこととされる。
奈良時代に入ると仏教は、災いから国土を守る「鎮護国家」の役割を増してゆく。
特に聖武天皇は、
「諸天(仏法を擁護する神々)に感(かま)け、臨護をねがふ」(『続日本紀』)
ことを目的として諸国に国分寺・国分尼寺を建立し、
さらに東大寺の大仏造立を発願する(開眼は752年)など、鎮護国家の実現に努めた。
(『NHK日めくり万葉集vol.1』中村勝行編 講談社 2009年)
 元興寺の前身は、蘇我馬子の誓願に基づいて飛鳥の地に着工され、
推古天皇4年(596年)に完成した「法興寺」である。
「大化の改新」の実現につながる、中大兄皇子と藤原鎌足との出会いの場は、
この法興寺の槻(けやき)の木の下であった。
その後、法興寺は平城京遷都にともない京内に移転され、
「元興寺」と呼ばれるようになる。
もとの法興寺も残されて「本元興寺」と呼ばれ、
飛鳥の本元興寺・奈良の元興寺とともに、「飛鳥寺」とも称された。
こうして生じた二つの「飛鳥」について、
大伴坂上郎女は「元興寺の里を詠む歌」として、
故郷の 飛鳥はあれど あをによし 奈良の飛鳥を 見らくしよしも」(巻六・1992)
という歌を残している。
(『NHK日めくり万葉集vol.1』中村勝行編 講談社 2009年)
 さて、元興寺は大安・薬師・興福の諸寺とともに
都の四大寺として朝廷の厚い待遇を受けた。
天平勝宝元年(749年)、諸寺の墾田面積の限が定められた際には、
東大寺の四千町に次ぐ二千町を定められ、
国家仏教を支える寺としての、格の高さがうかがえる。
平安期の資料によれば、元興寺には東西22の僧房があり、
僧侶の質量も充実していた。
  (森陽香)
(『NHK日めくり万葉集vol.1』中村勝行編 講談社 2009年)
昨夜の「ブラタモリ×鶴瓶の家族に乾杯 新春SP」は
太宰府天満宮が取りあげられていましたね。

都府楼(とふろう)には纔(わづ)かに瓦(かはら)の色を看(み)
観音寺(くわんおんじ)には只鐘(ただかね)の声(こゑ)を聴(き)
   不出門(ふしゅつもん) 菅(くわん)

現代語訳
都督府の楼門も、観世音寺の精舎も配所からすぐ近いところにあります。
けれども門を出たことがないので、楼門の瓦の色を見ては、あれが都府だと知り、
鐘の声を聞いてはこれは観世音寺からだと思いやるだけです。

語釈
○都府楼(とふろう) 府庁の正門の楼。「都府」は都督府の略。
○観音寺(くわんおんじ) 観世音寺の略。
 天智天皇草創、日本三戒壇の一。福岡県太宰府にある。

参考
『菅家後集(かんけこうしゅう)』「不出門」に出。『江談』、『大鏡』に出。
道真が配所の官舎でよんだ詩。
(『和漢朗詠集』川口久雄訳注 講談社学術文庫 1982年)
番組の中で全ての事を放送することは無理なことです。
ですから番組(一つの情報)だけで満足することなく、
興味が湧いたら自分で調べることが大切ですね。

その意味で参考になるなと思ったのが
昨夜(1月2日)の「 龍谷ミュージアム元館長のつぶやき」さんの呟きでした。

菅原道真が大宰府で亡くなって道真の遺骸を運ぶ牛車が動かなくなったため、
これはそこに留まりたいという道真の遺志によるものと判断し、
味酒安行が廟を建立したという話は今日ブラタモリで紹介されていました。
肝心な部分が語られていませんでした。
牛が動かなくなったのは安楽寺という寺の前


安楽寺の門前で菅原道真の遺骸を載せた牛車が動かなくなり、
そこに廟が建てられたのです。
つまり、太宰府天満宮の原形は安楽寺という仏教寺院。
醍醐天皇の勅を奉じた藤原仲平がこの地にやって来て、
道真の墓所の上に社殿を造営したのが
太宰府天満宮の始まりなのですが「安楽寺天満宮」でした。


日本人の宗教観というのは、明治の神仏分離令に染め上げられたものですから、
神社と寺院は截然と区分されています。
ですから太宰府天満宮の源流が仏教寺院と聞いても「??」となると思います。
親鸞聖人の法兄である聖覚が箱根神社を経営していたと聞いても「??」となるはずです。


「神仏分離令」「廃仏毀釈」「国家神道」、
これらは日本人の精神を蝕んだ本当に恐ろしいものなのです。
明治維新150年と浮かれている場合ではないのです。
「国家神道」で迷惑を被ったのは本当は天皇家であり、神社関係者です。
「国家神道」は虚妄の正義に心酔し、敵を創り出していくのです。

久しぶりに父が鶴見新山(標高39m)まで登ってきたので記念に一枚(^_^)b
画像を見ながら
「○子(母の名)は、登りたがったけど、膝が痛くて気がすすまなかった」と
当時のことを懐かしんでいました。