2019年1月29日火曜日

時々青空…

昨日より青空が時々見られたけど
重そうな雲が空を覆っていました。
シマウマが子ヤギを背中に乗せているニュースを見てビックリしました。
シマウマは臆病で人を乗せないと思うのだけど
子ヤギは乗せてあげるんですね(°°)
子ヤギがシマウマの背中に… 最近は毎日 静岡 東伊豆町

なぜシマウマには乗れないのか」(みんなの乗馬ブログ)

昨日紹介した山上憶良の「貧窮問答歌」について久松潜一氏の説を紹介します。
原文をどう訓んでいるかが「歌意」となるのですが、訓みを省略します。
  歌意
 風にまじって雨が降り、雨にまじって雪の降るみぞれの夜は、
どうしようもなく寒いので堅くなった塩をしゃぶり、にごり酒をすすって咳をし、
鼻をびしゃびしゃさせながら、チョビ鬚をなでて、
自分を除いては偉い人間はないとほこっていても
寒さは身にしみるので麻の衾をかぶるようにし、
布で作った袖なしのちゃんちゃんこをあるかぎり重ねて着てもそれでも寒い。
そのような夜を自分よりも貧しい人の父母は飢えて寒いことであろう。
その妻子達は力のない声を出して泣くことであろう。
こんな時はどうしてお前は世の中を過ごしているのであるか。
(『万葉秀歌(三)』久松潜一 講談社学術文庫 1976年)
 天地は広いといっても自分のためには狭くなったであろうか。
日や月は明るく照っているが私のためには照って下さらないであろうか。
人は皆誰でもこのようであるのか、私一人がこのようであるのか。
たまたまに人間と生まれたのに普通の人間と成人したのに、
綿も入っていない布のちゃんちゃんこの海松(みる)のように
さけてたれている襤褸(ぼろ)ばかりを肩にかけるように着て、
貧しい倒れかかった小屋のうちで床(ゆか)もない土間の上にわらを解いて敷いて、
それでも父母は枕元の方にやすんでもらい、
妻子達は足元の方に寝て自分を囲むように居て、憂えうめいている。
食べるものもなく、かまどには炊くこともないので煙も立たない。
こしきにご飯を入れることもしないので蜘蛛の巣がかかっており、
飯を炊くことも忘れ、ぬえ鳥の鳴くように弱々しい声でつぶやいていると、
短いものをさらに端を切るというたとえのように、
むちを持った里長の声は寝ているところまでどなっているのが聴こえてくる。
このようにしてどうすることもできないのか、人間の生きていく道は。
(巻五・892)
(『万葉秀歌(三)』久松潜一 講談社学術文庫 1976年)
  解説
 この歌は憶良の歌として傑作であるのみならず、
『万葉集』の歌としても代表的な歌の一つである。
題材からいっても貧窮生活をあつかったものは
古代から中世にかけての和歌ではほとんど見られないのであって、
近世の末にいたって木下幸文(きのした たかふみ)の「貧窮百首」や
橘曙覧(たちばな あけみ)の『独楽吟』に歌われているが、
長い間歌の題材としてとりあげられなかった。
近代にいたっては極めて多く扱われるようにいたるのであるが、
それだけにこの歌は近代にいたって一層重んじられるようにいたっている。
 憶良が社会詩人、生活詩人といわれるのもこういう歌があるからである。
憶良がこういう題材を歌ったのは中国における陶淵明(とうえんめい)
貧窮を歌った漢詩などの影響であろうが、淵明の詩とは異なった扱い方をしている。
(『万葉秀歌(三)』久松潜一 講談社学術文庫 1976年)
(「語釈」は省略)

  鑑賞
 この歌は新しい題材を扱っているのみならずその含む内容や
構成表現においても秀れている。
 題詞のおける貧窮問答というのは貧しいものの問答という程の意に解せられるが、
土屋氏の『万葉集私注』では、篇中の初めの問う者が貧者であり、
後に答える者が窮者であるとされる。
貧者に比して窮者は一層窮迫したものであるとされるのは興味ある着眼点である。
 はたしてそうか否かはまだ定め難いが注目すべき見解であることは明らかである。
構成において前段と後段とが別々になっているのもこの歌の特質である。
このように貧者と窮者との問答とすれば興味ある構成といえる。
構成からみて前段の方はどうにもならないほど貧しくはない。
後者は貧しくてどうにもならない生活状態を表わしている。
その間にそういう貧しい生活の細かい観察を行っている。
特に後段において貧しい生活の細かい状態を詠んでいるのは注目される。
(『万葉秀歌(三)』久松潜一 講談社学術文庫 1976年)
 憶良の写実性を重んじた例としては
衣服、住居、食物の三方面から貧しさの極みを歌い、
その上に里長から責めたてられる苦しさを歌っている。
これ程苦しい生活を写実的に表現した作品は和歌史の上で見ることはできない。
そうしてそのような窮迫した中にも「父母は枕の方に妻子どもは足の方に」と
秩序を守っている点に儒教的精神がみられるのである。
そうしてこのような苦しみの中にあって
最後に「斯くばかり術(すべ)無きものか世間(よのなか)の道」と結んだのは
憶良の諦念を示すものであろう。
(『万葉秀歌(三)』久松潜一 講談社学術文庫 1976年)
 憶良は老病貧の苦しみを歌い死の悲しみを詠じながら、
最後にこれが世の中の道であるとする。
「愛世間難住歌」の初めに「世中のすべなきものは年月は流るる如し」と詠んでおり、
古日(ふるひ)の死を悲しんだ歌にも「吾が子飛ばしつ世の中の道」と結んでいる。
このような老病貧の苦しみや死の悲しみも世の中の道として忍従し、
諦めなければならなかったのが憶良であった。
 従って反歌にも世間を憂くつらく思いながら
「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」という諦念となるのである。
貧窮の生活をこれ程切実に生き生きと描写しながら
これが世の中の道と諦めているのは、
一面からいえば飽きたらなく思われるとともに、
そこに現実的な儒教道徳の方向が示されている。
(『万葉秀歌(三)』久松潜一 講談社学術文庫 1976年)
 なおこの歌は貧窮を切実に詠んでいる点で
近代になってから一層多くとり上げられている。
この歌をそれゆえに階級闘争を歌ったとすることは
そのままには従いかねるものがある。
これが世の中の道であるという諦念によって
一つの結論に達している点にもそれはみられるが、
前段における貧しき生活が憶良の生活であるとすれば
後段にはその立場からこれより貧しきものの生活を
同情してみているとみられるからである。
 貧窮を歌ったのは前にも挙げた如く六朝詩の影響があるとみられるが、
吉川幸次郎氏がかつて言われた如く、
陶淵明らはそういう貧窮生活を余裕を持ってながめているのに対して、
憶良はそのような貧窮生活を切実に
苦しみ悲しんでいるところにその相違があるといえる。
ただ日本の詩歌でも橘曙覧の『独楽吟』では
そういう貧窮に超然としている点が歌われており、
淵明らのそれと通ずるものがある。
従ってその点を中国の詩と日本の歌との
相違する理由とすることは必ずしもできないと思われる。
(『万葉秀歌(三)』久松潜一 講談社学術文庫 1976年)
   歌意
 世の中をつらく人に対しても気まり悪く思っているが、
鳥でないから飛びたつこともできない。
   山上憶良頓首謹みて上る   (巻五・893)

  語釈
やさしと思へども 「やさし」ははずかしい意で、
 身分の上のものに対して自分をはずかしく思う意である。
 ここでは自分の貧しい生活を人に対してはずかしく思う意である。
謹上 この歌は憶良が何人かに贈った歌であり、
 そのために「謹上」といったのである。
 しかし誰に贈ったかは明らかでないが、身分の上のものに贈ったことは明らかである。
(『万葉秀歌(三)』久松潜一 講談社学術文庫 1976年)
   鑑賞
 この歌は長歌の反歌であり、長歌で歌っている趣旨を繰り返すというよりは
長歌で言わないことを補っている。
すなわち長歌ではそういう貧窮生活をどうしようもないと
諦めたところで終わっているに対して、反歌ではそれを敷衍(ふえん)している。
そういう苦しい世間から鳥ではないから飛び立つこともできない、
といっているのである。
(『万葉秀歌(三)』久松潜一 講談社学術文庫 1976年)
 旅人ならば、想像力を働かせて鳥のように飛びたっていきたいといったであろうが、
憶良はそのように飛びたつことはできないと歌っているのであり、
そういう点に憶良の現実的な所が表われている。
 その点でこの反歌は長歌で詠じた思想をそのまま認めているということができる。
全体としてこの長歌と反歌とは、長歌に中心があることは明らかであるが
反歌も同じ思想を別の方面から補った歌として効果を上げている。
(『万葉秀歌(三)』久松潜一 講談社学術文庫 1976年)