2019年1月12日土曜日

曇り空でした…

今朝は、曇り空で青空が見えませんでした。
それでも梅がポツポツと咲いているのを見るとうれしくなります(^_^)v
Eテレの「趣味どきっ!不思議な猫世界」の
第5回「武将と猫とお姫様」を見ていると
[再放送は1月14日(月)午前11時30分~]
徳川家康が犬と猫の運命を大きく変えていますね(^_-)
テキストから徳川家康のことを転記しますφ(.. )
徳川家康(1543~1616) 「猫放し飼い令」を発布

 家康が江戸幕府を開く前年の慶長7年(1602)8月、当時、
京都の行政を担当する京都所司代を務めていた板倉勝重(いたくらかつしげ)の名前で、
発令を出しました。
京都一条の辻に立てられた高札には、
一、洛中猫の綱を解き放ち飼いにすべき事。
 二、同猫売り買い停止の事

 と書かれていました。
こうした発令が出されたのは、
当時、京の都ではネズミの被害が深刻な問題となっていたからです。
(『不思議な猫世界 ニッポン 猫と人の文化史
    講師 山根 明弘他 NHK出版 2018年)
 当時の公家、西洞院時慶(にしのとういんときよし)(1552~1639)の
日記『時慶記(じけいき)』には、慶長7年10月4日の出来事として、
この放し飼いによって、猫は嬉々としてネズミを追いかけましたが、
外の世界はよいことばかりではありません。
ネズミの被害は減ったものの、今度は猫が行方不明になったり、
犬にかみ殺される事件が多くなったと記されています。
この著者も、通称猫公家とも呼ばれるほど、猫をかわいがっていました。
猫が危害を加えられるのが耐えられなかったのでしょう。
(『不思議な猫世界 ニッポン 猫と人の文化史
     講師 山根 明弘他 NHK出版 2018年)
 翌年、家康は征夷大将軍となりましたが、猫の放し飼いは江戸でも施行され、
おかげであっという間に猫の数が増えました。
この猫の放し飼い令をきっかけに、危害を加える犬はつながれるようになり、
犬と猫の立場が逆転していくようになります。
(『不思議な猫世界 ニッポン 猫と人の文化史
     講師 山根 明弘他 NHK出版 2018年)
このことを御伽草子にえがかれています。
猫の草子」は長文なので現代語訳を数日に分けて転記したいと思います。
原文通りではありませんし、転記間違いがあると思います。
猫の草子(そうし)

 天下がよく治まり国土が平穏であって、
このようなめでたい御代(みよ)に生きることは、
人間は申すまでもなく、鳥類や畜類に至るまで、ありがたいご禁制のおかげである。
まことに堯(ぎょう)や舜(しゅん)の御代よりもすばらしいことである。
まず慶長(けいちょう)7年8月中旬に、
京の市中で猫の綱(つな)を解いて、離されるようにとのご命令が出る。
同様にお奉行(ぶぎょう)から、一条の辻に高札(たかふだ)をお立てなさることがあり、
その文面にいうには、
 一、京の市中では、猫の綱を解き、放し飼いにしなければならないこと
 一、同じく猫の売買をさしとめること
   このとこに違反する場合には、かならず罪に処せられるべきのである。
   そこで、右のように言いわたす。

右のようにご禁制なされるうえは、
めいめいひそかに飼っていた猫どもに札(ふだ)をつけて、
放ってやると、猫はひととおりでなく喜んで、あちらこちらにとびまわることは、
気ばらしにもなり、鼠(ねずみ)を捕らえるにも便宜があり、
まもなく、鼠はこわがり恐れて、
逃げ隠れるようになり、桁(けた)や梁(はり)も走らず、
歩くにようにして小さな音もたてず、ひそかに歩く様子である。
このような気分のよいことはない。
できることならば、このご禁制が無事にとどこおることがないように願ったが、
だれもみなこのとおりである。
(『御伽草子集 日本古典文学全集36』大島建彦校注・訳 小学館 昭和49年)
 ここに、上京(かみぎょう)近辺の人であったが、
まことに尊いご出家(しゅっけ)がおり、
悪を離れて善に向かい、朝には、この世が天地とともに永久に続くように、
夕方には、この世がやすらかで、のちの世で極楽に生まれることができ、
すべての世界の生物が差別なく利益(りやく)をこうむるようにと願った。
宗門の教義、真理の観念の二つながら明らかである。
僧も俗人も男も女も、このご出家のことをありがたく思って感激の涙を流す。
まことに大日如来ともいうことができよう。
(『御伽草子集 日本古典文学全集36』大島建彦校注・訳 小学館 昭和49年)
 このようなありがたい道理をば、鳥類や畜類までも存じているからであろうか、
ある夜、思いがけない夢を見た。
鼠の和尚(おしょう)と思われる者が、進み出て、
「お坊様へ向かってことばをかわすことは、はばかり多いことと存じますが、
 教えの趣のことは、ひきつづき縁(えん)の下(した)で、
 いつも明け暮れお説教をうかがっておりますが、
 悔い改めることにより罪を滅(めっ)することができると
 仰(おお)せられましたことについて、出てまいりました次第です。
 心に恥じ入り罪を悔い改めることをもいたしましたならば、
 一言のご道理をも、お授けになってくださいませ」と申しましたので、
(『御伽草子集 日本古典文学全集36』大島建彦校注・訳 小学館 昭和49年)
僧は、
 「おまえらのような鼠ふぜいとして、このように神妙なことを申すものよ」
と、格別なことと思い、
 「草木(そうもく)や国土もすべて仏になるというのであるから、
 心のない草木も仏になると思われる。
 まして、命あるものとして、一度阿弥陀仏を念ずると
 たちまちはかりしれない罪も消滅する、ただ自分の心の中に阿弥陀も浄土もある、
 ここから遠く離れていない所に阿弥陀も浄土もあると説いておられるので、
 たとえ鳥類や畜類であっても、一度阿弥陀仏を念ずるという道理によって、
 仏にならないということはない」とおっしゃると、
(『御伽草子集 日本古典文学全集36』大島建彦校注・訳 小学館 昭和49年)
「それでは、罪を悔い改める物語を申しましょう」と言って、
鼠は泣きの涙をおしぬぐい、
「このたび、都の中の猫の綱を放されますので、われわれ一門は、
 ことごとく姿を隠し、あるいは逃げ、あるいは死に、
 ほんの少し残っております者どもも、今日か明日かの命と思い、
 心細く礎(いしずえ)の陰や縁の下にかんがでいるとはいうものの、
 ちょっとの油断もありませんし、また穴ぐら暮らしをいたしてみるといっても、
 一日や二日のことでもなく、中にばかりは、息がこもって、とてもおられません。
 たまたまつらい世間へ出ていってみようとしても、猫めに取っておさえられ、
 頭から嚙み砕かれ、肉を引き裂かれます。
 このようないやなことにあいますとは、前世からの因果も悲しゅうごじます」
と申すので、
(『御伽草子集 日本古典文学全集36』大島建彦校注・訳 小学館 昭和49年)
僧は答えて、
「おまえらが嘆き沈んで言うことは、いたわしく思っている。
 ことに一句を授けたので、弟子と同様に思うのだ。
 まずは、けしからぬこととして、
 おまえらが人に憎まれている次第を語って聞かせよう。
 自分のようなひとりぼっちの法師が、
 たまたま傘(からかさ)を張って立てかけておくと、
 すぐに柄(え)のもとを食い破る。
 また檀家(だんか)をもてなそうというので、
 煎豆(いりまめ)や坐禅豆(ざぜんまめ)を用意しておくと、
 一晩のうちにすっかり食べてしまう。
 袈裟(けさ)や衣(ころも)だけでなく、
 扇(おうぎ)、書物、はりつけ、屏風(びょうぶ)
 かき餅、六条豆腐(ろくじょうどうふ)などをだめにしてしまう。
 これでは、どのような心のおだやかな我慢づよい阿闍梨(あじゃり)であっても、
 おまえらの命を断ちたいと思うことはもちろんである。
 まして、まったくの俗人の身では、もっとも千万(せんばん)である」
とおっしゃる。
(『御伽草子集 日本古典文学全集36』大島建彦校注・訳 小学館 昭和49年)
その時に、鼠が答えて、
 「私も、おたとえ話のように存じまして、若い鼠どもに意見をするのですが、
 いましめのことばは聞き入れにくく、よい薬は口ににがく感じられるというとおりで、
 たやすく聞き入れもせず、ますます悪いいたずらをしようと申します。
 そのうちでも、まず第一に、人に憎まれてはならない、
 東隣(ひがしどなり)さんや北隣(きたどなり)さんのあらひぼうしやうつきをひ、
 茶汲(ちゃく)み女や下女の前垂(まえだ)れ、帷子(かたびら)、足袋(たび)、
 また袴(はかま)や肩衣(かたぎぬ)の端、唐櫃(からびつ)の隅、包み、
 葛籠(つづら)の中へこもって家を作ったり、餌食(えじき)にもならず、
 手柄(てがら)にもならないものをかじったりしてはならない、
 壺(つぼ)のはたなどをまわるなと、あかはだかの赤子(あかご)や、
 つけ紐(ひも)の幼な子の時から申し聞かせておりますが、
 勝手気ままななりばかりを好み、人の枕もと、菰(こも)
 古屋根(ふるやね)などをすみかとして、悪いいたずらばかりをいたしますのは、
 どうにもならない有様(ありさま)で」
とお語り申したが、そのうちに夢がさめてみると、すでにその夜は明けてしまっていた。
(『御伽草子集 日本古典文学全集36』大島建彦校注・訳 小学館 昭和49年)
続きは後日転記します。
父の一枚です。
モズに出会っていました。
駐車場に私が戻ってから10分以上してから帰ってきました(^_-)