2018年9月18日火曜日

暑いけど…

青空が広がっていて暑いですが、空気がサラッとしていました(^-^)
見上げるとメタセコイアの球果がいっぱいついていました。
公園の入り口は昨日書いたようにほとんど落ちていたのに…
実が落ちる木、落ちない木、倒れる木、倒れない木どこに違いがあるのかな…
露草や郵便まてる門の坂
(『橋本多佳子全句集』角川ソフィア文庫 2018年)
景色が動くと、ハトは首を振る。
もう少し詳しく言うと、ハトに対して景色が動くと、
ハトは景色に対して頭を静止させようとして、首を動かすのである。
これは、景色を目で追っているということだ。
 景色を目で追うという動作は、私たちヒトも行っている。
もちろん、私たちがハトのように首を振るわけではない。
たとえば、電車やバスの車窓から、流れる景色を見ている人の目の動きに注目すると、
彼らの目は、キョロキョロとせわしなく動いて景色を追っている。
このキョロキョロとした目玉の動きこそ、ハトの首振りと同じ意味をもつのである。
(『ハトはなぜ首を振って歩くのか』藤田祐樹 岩波科学ライブラリー 2015年)
   子規と曼珠沙華

 子規の小説が人の口にのぼらないこと、啄木のそれよりもはなはなだしい。
子規の文学のなかで、小説はほとんどその場を与えられていないと言っていい。
 そういう子規の小説の一つに「曼珠沙華」がある。
作者によればこれは「まんじゆさけ」と訓むらしい。
子規の小説は「月の都」とこの「曼珠沙華」の二作が主なものである。
 私は学生であったころ、これらの小説を読んで、
「墨汁一滴」や「仰臥漫録」から受ける徹底したリアリストとしての子規とはひどく違った印象に戸惑ったのを思えている。
子規の小説には浪漫主義の気分が濃い。
「曼珠沙華」を子規は明治三十年八月十日に書きはじめ、
病気が進んでいたにもかかわらず執筆は午前二時に及んでいる。
稿の成ったのは十月月下旬である。
 それより五年前、「月の都」を書いた子規はそれを幸田露伴に見せ、評を仰いだ。
露伴の評は厳しいものであったらしい。
子規が俳句に熱中するのはそれからである。
「僕は小説家となるを欲せず詩人とならんことを欲す」(虚子宛書簡)
――しかし、子規が小説を断念したのではなかったことは、この「曼珠沙華」にもあきらかである。
(『花に逢う 歳月のうた』上田三四二 平凡社 1983年)
「曼珠沙華」は、一口に言えば、金持の総領息子と乞食ほどにも貧しい花売娘との恋物語である。
息子が外に出て、偶然、その娘に逢う場面――
 「……何とも知れぬ大木一株(もと)雲に聳えて、
 其下には今を盛りの曼珠沙華が透間も無く生えて居る。
 それが傾く西日に映りて只赤毛氈を敷きつめたやうな。
 其中に坐つて何やらして居る一人の小娘を見つけたので……」

 娘は曼珠沙華の花をむしって糸で束ねている。
 娘の好きな花が曼珠沙華ときいて、息子は驚く。
(『花に逢う 歳月のうた』上田三四二 平凡社 1983年)
 「それは葬礼花、死人花ぢやの言ふて、人がいやがる花ぢやないか。
  葉も枝も何も無うて、ぽんと立つて、墓原などに生えるもので、色と言や厭赤い、
  赤うても子供も取らん、それが好きかい、その誰でも嫌ふ花が。」

 そう訊いてくる息子に、娘は答える。

 「そぢやけん、可愛がつてやるのぢやがなア。」

  娘は忌まれている身分の者で、それゆえ、忌まれている花に心を寄せるのである。
 小説は以下、蛇使いの出る妖しい夢の世界に移るが、筋書きはいまは問わない。
曼珠沙華の精のような美しい乞食娘
――ここに子規の、この花によせる嫌悪と憧憬、穢れと聖性の両面価値を見れば足りる。
(…略…)
(『花に逢う 歳月のうた』上田三四二 平凡社 1983年)
カラスの黒色と太陽との関係については、ギリシア神話にも登場する。
再び加藤秀俊氏によれば、
「カラスはもともと太陽神アポロの寵愛を受けた鳥であったが、
その色は黒でなく白であった。
そして、アポロの使者としてその純白の翼をひろげて飛びまわり、
あれこれの情報を持ち帰っていたのだが、
ある日、アポロの愛人であるコロニスが、
べつの若い男に心を奪われていることを発見し、
その心がわりの事実をアポロに報告した。
アポロは烈火のごとく怒り、即座にコロニスを殺してしまった。
しかし、コロニスを殺したあとアポロは悔恨の情にかられ、
彼女を手厚く葬るとともに、カラスのおしゃべりを憎み、
その純白の色を、まったく反対の真黒に変えて処罰した」という。
(『カラスはどれほど賢いか 都市鳥の適応能力』唐沢孝一 中公文庫 2003年)
   空気

花のまわりで 花の形
ボールのまわりで ボールの形
ゆびのまわりで ゆびの形

そこに ある物を
どんな物でも そこにあらせて
自分は よけて
その物をそのままそっと包んでいる
自分の形は なくして
その物の形に なって…

まるでこの世のありとあらゆる物が
いとおしくてならず
その ひとつひとつに
自分でなってしまいたいかのように
(『まど・みちお 人生処方詩集』詩と絵:まど・みちお 
             選詩:市河紀子 平凡社 2012年)
 秋空に朱(あけ)極まれる実石榴(みざくろ)を見据ゑゐにしかこの朝明けて  木俣修

 この木は、花も実も赤いのが誰の印象につよく残る。
その鮮やか紅色が、人生のそれぞれの時点において自己を見つめている人間に深く作用したようだ。
   (大谷雅彦)
(『岩波現代短歌辞典(書籍版)』岡井隆監修 岩波書店 1999年)

○ ○ ○ ○

午後から心臓リハビリでした。
30分間のトレッドミルでの歩行距離は2.18km、消費カロリーは128kcalでした。
リハビリの間の話題はやはり樹木希林さんのこと。
「不登校新聞」に樹木希林さんのインタビュー記事や講演の話が載っていたことを話していました。
・「9月1日は子ども自殺最多 樹木希林からのメッセージ
【追悼企画】樹木希林さん「がんのおかげで成熟した」
10月には近くの映画館でも樹木希林さんが出演された
映画「日日是好日」が上映されることも(o^^o)

0 件のコメント:

コメントを投稿

申し訳ありませんが,日本語だけを受けつけますm(_ _)m