2018年9月19日水曜日

青空が広がって…

今朝も青空が広がって暑い(^0^;)
今夜から天気は下り坂だそうです。
傘による事故相次ぐ 注意呼びかけ

いのちありて今年の秋も涙かな (明治29年)
(『子規句集』高浜虚子選 岩波文庫 1941年)
9月19日は「糸瓜忌(へちまき)」または「獺祭忌(だっさいき)
正岡子規の命日(1902年 明治35年 享年34歳)です。
・「根岸子規庵
・「松山市立子規記念博物館
今しがた聞きし茸(きのこ)の名は忘れ  占魚
(『基本季語五00選』山本健吉 講談社学術文庫 1989年)
近くのイチョウは、種子がほとんど落ちていたのに、
こちらは幹が折れているのにいっぱいついている…(°0°)

ぎんなん
イチョウの種子。果実ではない。
中に胚と胚乳がある。
胚乳には胚の成長に必要な養分が貯えられる。
食べるところもここ。
周りを3層の種皮が包む。
臭いのきつのは外層。
(はい)―受精した卵細胞が成長したもの。次の世代のもと。
胚乳―胚珠(はいしゅ)のときの組織がそのまま大きくなった。
胚珠―シダ植物の大胞子嚢に当たる。
中には大胞子から作られた雌の配偶体の組織(胚嚢 はいのう)がある。
(『写真で見る植物用語』岩瀬徹、大野啓 全国農村教育研究会 2004年)
ハシボソガラスが水を飲もうとしています。
水の飲み方
鳥というのは、一般に、あまり水を飲みません。
というのも、飛ぶためには、できるだけ体を軽くしなくてはならないので、
体に多くの水を保持しなくてもすむように進化しているからです。
たとえば、我々が、水を大量に含んだ尿をするのに対して、
鳥は、いわゆるおしっこはしません。
糞と一緒にあまり水の必要ない形で排出します。
必要とする水が少ないので、鳥たちは、
花の蜜や、果実(液果)から、必要な量の水を摂取できます。
肉食の鳥でさえ、必要な水を肉から摂取できると言われています。

(…略…)

多くの鳥は、くちばしを水につけても、そのままでは飲めません。
水を下くちばしの上に載せて、それを舌で吸い上げるか、
あるいは、水を下くちばしの上に載せて、頭を上げて、喉に流し込みます。
つまり、「そろっと掬(すく)って、ごくりと飲む」ことを何度か繰り返します。
いわば、小さじを用いたスプーン方式といえます。 
(『身近な鳥の生活図鑑』三上修 ちくま新書 2015年)
   末期を照らす曼珠沙華

 木下利玄(りげん)「曼珠沙華の歌」は大正十四年一月、雑誌「日光」に発表された。
利玄の代表作であり、また曼珠沙華の代表作でもある。

  曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径
  舂(うすづ)ける彼岸秋陽に狐ばな赤々そまれりここはどこのみち
  曼珠沙華毒々しき赤の万燈を草葉の陰よりささげてゐるも
  曼珠沙華叢(くさむら)の中ゆ千も万も咲き彼岸仏の供養をするか
  曼珠沙華あやしき赤の薬玉(くすだま)の目もあやに炎ゆ草生のまどはし
  曼珠沙華咲く野の日暮れは何かなしに狐が出るとおもふ大人のいまも
(『花に逢う 歳月のうた』上田三四二 平凡社 1983年)
二首目「舂ける」の歌の前には詞書がある。

 「わが故郷にては曼珠沙華を狐ばなと呼ぶ、われ幼き頃は曼珠沙華の名は知らざりき。」

 利玄は明治十九年、岡山県足守町に生れた。
数え年五歳のとき、旧足守藩主である本家の血統が絶えたため、
その養嗣子となって東京に引き取られた。
 この歌を利玄は、長年の結核がよほど悪くなった病床で、想像によって詠んでいる。
そのとき、花への回想がおのずから生れ故郷にむかっているのは、あわれが深い。
(『花に逢う 歳月のうた』上田三四二 平凡社 1983年)
利玄は曼珠沙華について、こう書いている。

 「私はあの花が大好きです。
 その紅の反くり返った花弁は、まだ炎威を残してゐる秋陽に照り映えて、
 毒々しいまでに燃えてゐる。
 それが夕方村を通り過ぎたりして、
 路傍の小高い丘の、日露戦役の戦死者の墓の処などに、
 かたまって咲いてゐるのを見かけると、赤い夕日照らされてといふ、
 センチメンタルな唱歌の節などが、 思ひ合はされて、
 不思議な淋しさを、人の心に投げかける。」
  (「習明漫筆」)
(『花に逢う 歳月のうた』上田三四二 平凡社 1983年)
この田舎の風景が故郷そのままかどうかはわからない。
が、日露戦争が終った翌年、二十歳の利玄は三度目の帰省をして、
父の死を看取っている。
母もその地で七歳のときに亡くなった。
 こうして曼珠沙華は、二つの方向に利玄をいざなう。
 一つは死の世界へ。
その原色の毒々しい花は、供養の花であり、
「赤の万燈」であり、「草葉の陰」の花である。
赤々と燃える花は死を目前にした作者の目蓋(まぶた)のうらで、
妖しい幻想の炎を立てている。
(『花に逢う 歳月のうた』上田三四二 平凡社 1983年)
いま一つは幼年と故郷へ。
この一連にある童話的な気分はそこから来ている。
「狐ばな」「ここはどこのみち」――作者は村の子供にかえっている。
熱にうなされながら、作者の意識は故郷の路をさまよい、
路はそのまま、あの世へとつづいているのを感じている。
 濃厚で、息ぐるしく、しかも甘美で、とろりとした味わい
――これは利玄の末期を照らした花の夢、花の幻の歌である。
 利玄はこの歌の出た年の、二月二十五日に死去した。
(『花に逢う 歳月のうた』上田三四二 平凡社 1983年)
今朝の父の一枚です。
サッカーボールが忘れられてポツンと淋しそう(^_-)

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