2024年7月31日水曜日

7月も最終日

朝から厳しい暑さ
クマゼミの合唱も日々大きくなり
この2匹は、仲良く並んでいるのではなく
このあと下の子が追い出されました。

きょうも危険な暑さに 東海 四国などで38度予想 熱中症対策を」(NHK)
朝ドラ「虎に翼」第18週「七人の子は生すとも女に心許すな?」 (88)
検察側の訳では
私が中を完全に燃やしてしまったせいで
となっていたのがヒャンちゃんが訳すと
私が気を揉(も)ませてしまったせいで」となっていました。
朝鮮文化考証を担当している崔誠姫さんの投稿に詳しいのでアクセスしてみてください。

國本依伸さんの投稿

なお、日本語話者が海外に行って冤罪で捕まり誤訳の被害に遭うのは、実はあるあるです。
誤訳による冤罪は日本国内だけのこと、日本に暮らす外国人だけの問題ではありません。
朝ドラ「虎に翼」で関東大震災で起きた朝鮮人虐殺をとりあげていることを「攻めている」などの書き込みを見ます。
朝鮮人犠牲者追悼式典へのメッセージを拒否する人が都知事に選ばれるのですから
年々、歴史の真実を表現することが難しくしてなっている。
歴史を学ばないと「コロンブス」のミュージックビデオのような問題がこれからも起きるとおもう。
関東大震災の朝鮮人虐殺は山田太一さんが
新宿中村屋の相馬黒光をモデルにしたポーラテレビ小説『パンとあこがれ』(昭和44年)ですでに取り上げているのです。

中村屋の歴史 大正
山田太一 脚本家・作家
 ドラマとは「人間」を描くものです。
 そして「個」をいかに出すかということです。


 脚本家の作家性を知らしめようと努めた

 初めての自身のオリジナルになる連続ドラマ『3人家族』(TBS)を書いたのは昭和43年、34歳のときだ。
この視聴率が好調で、「プロでやっていけるな」と確信ができた一作でもあったという。
TBSから『ポーラテレビ小説』という半年間156回の連続ドラマを頼まれたのは、それから間もなくのことだ。
(『昭和のテレビ王』サライ編集部・編 小学館文庫 2017年)
「毎朝8時10分からの放送で、お昼には再放送をする。NHKの連続テレビ小説と同じ時間にぶつけるというんです。向こうは獅子文六さんの作品で、大谷直子さんのデビュー作になった『信子とおばあちゃん』。こっちは新宿の中村屋を創業した相馬黒光さんを主人公にした『パンとあこがれ』(昭和44年)という、かなり硬派な話なんです。でも、NHKはもの凄い視聴率ですから、どうせかないっこない。
 その代わり、いろんなことをやっても大丈夫だというので、関東大震災のときの朝鮮人虐殺の話とか、一歩間違うと抗議がくるようなことまで、ずいんぶん、踏み込んで書かせていただいた。スタッフも意気に燃えていて、テレビの世界も捨てたものんじゃないなと思いましたね」
 この『パンとあこがれ』には、自身が書きたいことを、思い切り書いたという充足感があった。
しかし、その一方で、また、別の意味での無念さも胸につきまとって離れなかった。
いくら自分でオリジナル作品を書いても「脚本・山田太一」の名が表に出なかったからだ。
「脚本家の作家性を重んじるようになるのはまだ後のことで、脚本はだれなんていうことは番組の宣伝も言いませんし、視聴者も関心がなかった。そのままだと、だれが書いてもいい、単なる技術提供者みたいな存在になってしまう。それはやっぱり無念だし、何とか脚本家としてひとりの作家になりたいと思ったんです。で、周りを見渡すと、早坂暁さんとか倉本聰さん、向田邦子さんとか同じ思いの人がいることにも気づいた。そうした志を同じくする脚本家のためにも、いい作品をつくって、これはアイツが書いたんだということを知らしめようと努めたんです」
 脚本家の作家性を世に訴えるチャンスがめぐってきたのは、昭和51年、山田太一42歳のときだ。
その舞台になったのが『NHK土曜ドラマ』である。
「松本清張さんや平岩弓枝さん等、小説家の方の名前をかぶせたシリーズをつくることになって。そのとき、テレビで育ってきた人間もひとり入れようじゃないかということで、そのご指名が僕にきたんです。これは絶対に視聴率をとろう、評判をとってやろうと思いましたね。そうすれば、後に続く脚本家たちの道も開ける。その代わり、僕が失敗すると、やっぱりテレビ・ライターはだめだといわれる。ですから、このときは非常な緊張感のなかで、一作一作、本当に大事につくりました」
 山田太一が脚本家として作家生命を賭けた、その渾身の力作が『男たちの旅路』。
鶴田浩二を主演にした、ガードマンの世界を描いた物語である。
 もうひとつ、山田太一にとって記念碑的な作品といえるものに、昭和52年にTBS系『金曜ドラマ』で放送された全15回の『岸辺のアルバム』がある。
多摩川の決壊で、家が流れてしまった家族の実話を題材に拾ったドラマだ。
「その時期、僕は仕事に困っていなかったからかもわからないけど、やっとテレビに対する不満みたいなものが出てきたんですね。最初は映画に比べてテレビは自由だという感じがあってやらせていただいてたんだけれども、やっぱりちょっとねらったものを書こうかなと思うとブレーキがかかるわけですよ。いいですねえ、やりましょうと言いながら、そこにいろんな要素が混じってきて、結果的に自分が本当にやりたいものとは違ってきてしまう。どこかに脱出口がないかなと思っていた時期だったんです」
 その脱出口は、まったく思いもかけない方向から開けた。
東京新聞が新聞小説の連載を依頼してきたのである。
「僕は小説なんてほとんど書いたことがないのに、いきなり新聞小説だというので驚いたんです。でも、これはひとつの手だなと思った。先行メディアは後発メディアを軽く見る傾向があって、演劇は映画を軽蔑して、映画はテレビを軽蔑する。逆に言えば、テレビの人は映画にコンプレックスがまだあって、テレビで育った人間の脚本料はなかなか上がらないのに、映画の脚本家がテレビに来たりすると、わりと優遇する。そこを何とかしたいという気持ちもあって、僕が小説を書いて評判をとったら、扱いも変わるんじゃないか。テレビの企画も通しやすくなるんじゃないかと考えたんです。どうせなら、テレビでやらないものをということで、多摩川の決壊で家が流された家族を訪ねて取材をして小説を書き始めた。これを、TBSがドラマでやりたいと言って下さったんですよ」
(『昭和のテレビ王』サライ編集部・編 小学館文庫 2017年)
朝ドラ「らんまん」でも関東大震災が描かれたようです。
私は、見ていないのでどのように描かれたかは知りません。
牧野富太郎が関東大震災の時にどのように考え行動したのか。
朝井まかてさんの小説から転記したいと思います。
(小説ですので事実なのかは?ですが……)

 十二 恋女房

 あくる大正十二年九月一日、晴れて風も微(かす)かな正午前である。
 富太郎は猿股(さるまた)一つの姿で八畳の座敷に坐し、標本を手にして調べていた。
するとカタカタと家鳴(やな)りがする。
息を潜(ひそ)めて天井を見上げたが、尻を畳に押しつけて踏ん張らねばならぬほどの揺れになった。
(『ボタニカ』朝井まかて 祥伝社 令和4年)
 これは、ただごとではないぞ。
 東京は地震の多い土地だが、ゆらりゆらりと、まるで大きな揺り籠(かご)に入れられているような心地(ここち)だ。
そのうち縁側越しに隣家の石垣が崩れていくのが見えた。
家じゅうがギシギシと鳴り、書物や標本の山が崩れる。
棚や箪笥(たんす)が倒れる音がして、文机(ふみづくえ)が斜めに動いた。
気がつけば庭に跳び下り、榎(エノキ)の幹(みき)につかまっていた。
大地が四、五寸も左右に揺れている。
壽衛(すえ)や子供たちは家の中だ。
「おうい、おうい」
 叫べど、中にすっ込んで誰も出てこない。
(むね)の瓦(かわら)が落ちてきて、梅の枝が何本も無残に折れた。
やがて揺れが収まって、壽衛や子供らが庭に出てきた。
顔色が白く動き方も浄瑠璃(じょうるり)人形のごときだが、怪我(けが)はないようだ。
「お父さん、ご無事でしたか」
「当たり前だ。いや、呆気(あっけ)なかったな。どんな具合に揺れるか、座敷で味おうておったのに」
 腰に手を置いた春世が「よくおっしゃいますよ」と、鼻から大息を吐(は)いた。 
「そんな恰好(かっこう)で木につかまって、揺れを味わうもないもんです」
「猿に似ているなあ」と、百世(ももよ)もこんな時に憎まれ口だ。
春世は数え二十四、百世は二十二、巳代(みよ)が十九で、末の玉代(たまよ)は十四になった。
「百世さん、いけませんよ。お父さんに向かって猿だなんて」
 たしなめる壽衛が吹き出しているのだから世話はない。
皆で盛大に笑った。
一家が無事であることに安堵(あんど)したのが半分、これほどの大震に遭(あ)っての昂奮(こうふん)も半分あるだろう。
だが市中の方々(ほうぼう)が大火災になっていると、巳代が近所で聞いてきた。
日が暮れてから、春世と百世を連れて九段まで見物に出かけた。
 九段下は一面が火の海だった。
空まで焦(こ)げて色を変え、風も熱を持って吹いてくる。
大変な惨状だ。
これほど非常の事態にあると不思議なほど心が凪(な)ぎ、なにやら敬虔(けいけん)な気持ちにさえなってくる。
大学での不遇、しぶとくつきまとう貧乏、長引く池長問題。
人間一匹にかかる災難なんぞ、しごく些細(ささい)な、どうでもえいことじゃ。
 帰りに六番町の火事も見て、家に帰ると深更だった。
壽衛と巳代、玉代は庭にいた。
(むしろ)を敷き、「家に潰(つぶ)されちゃかないませんから、ここで夜を明かします」と言う。
「僕は家の中で寝るよ」
 一人で八畳に上がり、標本の山をかき分けて身を横にした。
今度また大きいのきたら揺れ方をしっかり確かめてやると気負い、それでいて圧死する時の己(おのれ)の気持ちを想像した。
 数え六十二にして未(いま)だ何も成さず。
これで僕も終(しま)いか。
いや、天命があらばあともう少しは生かしてもらえるだろうと、暗い天井を睨んだ。
 次の日、時々揺れはあるものの強くはない。
夕刻、朝鮮人の来襲があると近所が知らせてきて、家族で家を出た。
避難場所は代々木(よよぎ)の練兵場で、「お母ちゃんと妹たちから目を離すな」と息子二人に言いつけ、富太郎は先頭をぐいぐいと歩いた。
避難民の数は計り知れず、焼け出されたらしき風体(ふうてい)の一家も多い。
誰もかすり傷一つ負っていないわが家は奇跡的だったのだと、市中を見回した。
翌朝には帰宅し、東京市外の火災がなお続いていると近所で耳にするも、新聞がこないので状況が不明なままだ。

 …後略…
(『ボタニカ』朝井まかて 祥伝社 令和4年)

寺田寅彦について2021年9月17日に転記した「流言蜚語(りゅうげんひご)」を参照してください。
今朝の父の一枚です(^^)/

 クサギ 臭木・蜀漆 

「臭木」という名前は、葉に触ると嫌な臭いがするからとされます。
中国南部原産で、古代に導入されたものが野生化しています。
中国では「恒山」(宋代に真宗帝の諱<いみな>を避けて常山)と呼ばれました。

 食用・薬用

 若葉を茹(ゆ)でて汁物や和え物にして食用にしました。
また薬としても用いられ、葉や根に降圧・鎮痛作用があるとされてリウマチや高血圧などに用いられます。
『延喜式(えんぎしき)』(典薬式)において「恒山」は伊勢・丹波の二国から貢納されました。
(『有職植物図鑑』八條忠基 平凡社 2022年)