2024年7月10日水曜日

雨の後なのに

夜に雨が降ったのだけど蒸し暑い朝になった
日ざしが照るとなおさら暑かった

東北~西日本で断続的に激しい雨のおそれ 土砂災害など警戒を」(NHK)
7月8日に掲載されていた
折々のことば 鷲田清一 3139

手に持っている薪(まき)は、松だな。杉に変えてくれんか
            小山田ミナ
 岩手県二戸市の山奥。
苦労して夫と土地を拓(ひら)いた女性は、70を過ぎて手作りの豆腐店を開き、もう20年になる。
視力をほぼなくしている彼女を撮り続ける写真家・大西暢夫(のぶお)は、彼女に頼まれて薪をくべようとした時、こう言われた。
松では火力が強すぎる。
木がぶつかる音ですぐにわかったと。
自然の物音に耳を澄ませる感覚が貴(たっと)い。
写真絵本『ひき石と24丁のとうふ』から。
  2024・7・8
図書館で借りて読んだけど、手元に置きたくなったので購入しました。
小山田ミナさんの言葉を一部転記しますφ(.. )

 『ひき石と24丁のとうふ』より

小山田豆腐店は、稲庭岳(いなにわだけ)の裾野にある。

「ここは、開拓で切り開かれた場所なの。
昭和35年、28歳だったわたしは、
3歳と5歳の子どもの手を引いて、
家族4人で引っこして来たんです。
何もないところから暮らしが始まりました。
広大な山。広い畑。
自分たちの土地がほしかったんです。
そして自分のことは、
できるだけ自分の力でやりたかったの。
目の前の広い土地は、わたしたち夫婦が
大豆を作ってきた畑なんです」
(『ひき石と24丁のとうふ』大西暢夫 アリス館 2024年)
「わたしは、幼いころから両目に障害があって、
はっきり見えていないの。
外に働きに行けなかったから、
広い畑を、朝の暗い時間から、夜になるまで、
馬をたよりに耕しました。
牛も豚も飼っていたのよ。
じゃがいも、かぼちゃ、人参(にんじん)、小豆(あずき)、かぶ、そば、
そして大豆(だいず)
休んだ記憶なんてない。
中でも小豆の草取りは
大変だった。
茎の手ざわりが雑想と
にていたから、
指先の感覚だけでは、
見分けにくくて。
働いて働いて、
ようやくこの土地を
自分たちのものにすることができたの」
「10歳くらいのとき、霧がかかったように
両目が見づらくなったの。
このままだと失明しますよ、とお医者さんが
親に話していたのは覚えているけど、
親は毎日の畑仕事がいそがしくて、
手術ができる病院に
つれて行ってくれなかったの。
内職の仕事でお金をためて、
19歳になってやっと手術を受けたけど、
もう手おくれだった。若いときの話ね」
……
(『ひき石と24丁のとうふ』大西暢夫 アリス館 2024年)

ほとんど目が見えないミナさんがどうやって豆腐を作るのか。
ミナさんは、昨年の4月19日亡くなられたそうです。
ご冥福をお祈りします。
追記)大西暢夫さんのFacebook(4月7日)
朝ドラ「虎に翼」を見ていて思うのは、
去年の朝ドラ「らんまん」の主人公が女性だったらどんな反応があったのかな?
牧野富太郎がモデルの朝ドラと知ったときに見るのをやめました。
ゲゲゲの女房」のように寿衛子が主人公だったら見るのにとも思いました。
まるで太宰治が主人公の朝ドラになるようなそんな気さえしました。
(牧野富太郎の図鑑や太宰治の小説をよく読んでいますが)

朝ドラ「虎に翼」で再登場を期待しているのが涼子と玉。
日本国憲法が施行されて華族制度がなくなりました。
元華族で戦前から女性のために活躍された方がいます。
第十章 家族計画や自然保護のために働く情熱
  家族制度から逃れて、女性も平等になれました


(前半部分は、もしかしたらドラマでも取り上げられる内容かも知れないので省略)

 憲法の改正も、戦後の日本にとって急務でした。
無条件降伏、民主化、戦犯の処罰を決めた連合軍のポツダム宣言を受諾して、日本は敗戦を迎え、あらゆる価値観が逆転したんですから、新しい憲法を制定しなくてはならないのは当然のことなんです。
(『女の自叙伝 愛は時代を越えて』加藤シヅエ 婦人画報社 昭和63年)
 それで、翌年の4月に総選挙が行われて、初めて婦人議員が私も含めて39人誕生したわけですけど、国会が開かれるのは6月で、その議会に、政府が憲法改正案を上程することになったんです。
それに先立って、憲法制定委員会が設置されましたので、私はさっそく社会党の幹部会に出て、「女性の代表としてこの委員会に入れてください。新しい憲法の制定には、女性の発言が必要だと思いますから」と申し出たの。
そしたら、「あなたは委員会に出て、何を発言するつもりですか」と大幹部の西尾末広さんがおたずねになったの。
へんなことお聞きになると思いながらも、
「今まで女性を縛りつけて泣かせてきた、日本の封建的な家族制度をなくしたいんです」
 そう言いますと、
「あなたは日本の家族制度をぶち壊すつもりですか。そういう過激な意見を委員会で主張されたら困ります」
 なんとそうおっしゃるの。
私は家族制度を廃棄すると言っているのであって、家庭を壊すなんて言ってないし、毛頭考えてもいませんよ。
家族制度と家庭との区別もつかないなんて、不勉強もいいとこであきれてしまいました。
労働運動のことだけはわかっててもね、人権のことも、自由思想のこともわかってない。
ただ労働者や農民がえらく圧迫を受けて貧乏を強いられていると、ただそれだけしかわかっていない。
情けないと思いましたけどね、まあ根気よく説明して、ようやく委員にしていただきました。
 芦田均さんを委員長とする委員会の経過については省きますけど、とにかく私は、「国体護持」を主張する方たちと闘わなければならなかったの。
国体護持ってどういうことかというと、天皇は神で国民は家来、というのが国体で、それを継続して守る、ということなの。
敗戦後、天皇は絶対の権力とか権威をお持ちにならないで、象徴として日本を代表していただこうというのが、新憲法の主旨なんですから、古い考えの国体は護持されていないんです。
「天皇の存在は残るけれど、国体は護持されなかった」という紛れもない結論が出ているのに、保守党の人たちの中には、新憲法の主権在民を認めたくない人がいるの。
喜ぶべきことなのに。
天皇は神、国民は家来で、天皇の名のもとには死も覚悟して戦争でもどこへでも喜んで行かなくちゃならない、そういう封建的な考えだったればこそ、家族制度もあり、家長の絶対権力もあったんです。
こんな考えがあるがために泣いてきた女を代表して、私はずっと自分の意見を述べて闘ったわけなの。
私自身、かつて家族制度にがんじがらめに縛られて泣かされましたからね。
 憲法改正に伴って、民法や刑法の改正も行われたんですが、私は一方的に女性が不平等な扱いを受ける法律は、一刻も早く改正されなければならないと思いました。
旧民法には、女性の人権を無視した「妻の無能力に関する規定」なんていうひどいものがあったんです。
こんな主張が通って全文削除されました。
それから、憲法の男女平等に沿って、女性の結婚や離婚の自由、財産相続権、配偶者相続権を認めて、女を泣かせた家族制度もついに覆されました。
また、刑法での男女不平等のものといえば、姦通罪なんです。
婦人議員の間では、男女とも罰する「両罰論」にすべきだっていう声が高かったんですけど、一方では「廃止論」の声も出てきたんです。
加藤の意見は「廃止論」で、私は「両罰論」なの。
それで新聞記者の人たちが、「勘十さんは家に帰ると、奥さんに吊るし上げられるだろうな」なんて面白がってたそうですよ。
だけど私は結局、「廃止論」で納得しましたの。
夫唱婦随ってわけじゃなくて、やっぱり男女の問題にまで法律が立ち入るのはよくない、と考えたからなんです。
 翌22年5月3日に、日比谷公会堂で開かれた新憲法祝賀会の後、新憲法は施行されました。
 私はこの日、皇居のお濠ばたを歩いていましたが、青い芽をふいた柳の枝が風になびいて、まるで女の人が、身をもんで悲しんでいるような感じに見えたんです。
戦前の女は旧憲法の下で、毎日こうして泣いていたんだ。
でも、今からは男と同じ人権が与えられて、もう泣かずにすむんだなあと、しみじみ喜びを嚙みしめことでした。
(『女の自叙伝 愛は時代を越えて』加藤シヅエ 婦人画報社 昭和63年)

加藤シヅエ」(近代日本人の肖像 国立国会図書館)