2024年7月15日月曜日

海の日

歩いているときは日ざしが暑かったけど
しだいに曇り空になってきました。

近畿 15日昼すぎから激しい雨のおそれ 十分注意を」(関西NHK)
海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ということで「海の日
7月の第3月曜日でなく元々は

 海の日

 …前略…

明治9(1876)年に明治天皇が東北地方巡幸の帰途、軍艦ではなく汽船の明治丸にて横浜港に帰着されたのが7月20日であり、その日にちなみ、昭和16(1941)年に政府の次官会議において海事思想の普及と海洋精神の普及を目的に海の記念日に定めた。
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)

明治丸海事ミュージアム」(東京海洋大学)
 巡 幸
  ◆原武史◆
 
 天皇が2か所以上の場所を訪問すること。
1か所の場合は「行幸」という。
古代には上皇(太上天皇)が行うこともある。
また、皇后や皇太后、皇太子が2か所以上の場所を訪問するのは「巡啓」、1か所を訪問するのは「行啓」といい、行幸と行啓を合わせて「行幸啓」と呼ぶ。
大規模な巡幸は平安初期までの古代と明治以降の近現代だけに行われているため、以下ではこの2つの時代、とりわけ近現代に重点をおきつつ、行幸や巡啓、行啓も合わせて説明した。

 古代の巡幸(省略)
(『岩波 天皇・皇室辞典』原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
 明治維新と六大巡幸

 1863(文久3)年、孝明(こうめい)天皇は京都御所の外に出て、攘夷祈願のために賀茂社と石清水八幡宮への巡幸を行った。
このうち賀茂社へは、14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)が随行したが、これは将軍に代わる天皇の「御威光」が浮上しつつあった当時の権力関係を視覚的に示すものであった。
 京都周辺にとどまっていた巡幸の範囲が全国規模に拡大するのは、明治天皇からである。
天皇は1868(明治元)年、まず大阪を訪問してから、東幸と呼ばれる東京行幸を行い、翌69年にかけて、東海道を経由して京都―東京間を一往復半するとともに、伊勢神宮に参拝した。
こうして「動く天皇」が復活したが、天皇は鳳輦(ほうれん<鳳輿(ほうよ)>)に入ったままで、依然として「見えない天皇」であった。
新政府は当初、将軍とは異なる儒教的天皇像を打ち立てようとして沿道での直訴を認める方針をとったが、それも長くは続かず、70年制定の新律綱領で再び禁止された。
 東京に移った天皇は、72年から85年まで、「六大巡幸」と呼ばれる大規模な巡幸を行った。
その範囲は北海道から九州までわたっていたが、京都より東が中心で、陸路は主に馬車、海路は軍艦を使用した。
天皇は、各地の学校、県庁、裁判所、軍事施設、産業施設、神社などを訪問し、授業や運動、仕事の模様を見学したほか、沿道でも馬車をとめ、幌を上げて農作業を見た。
生身の身体をさらす「見える天皇」に変化したのである。
軍服を着用し、髭を生やした天皇の姿は、それ自体が「開化の象徴」であった。
しかし天皇は無言のままで、直訴もほとんどないどころか、沿道では禁止されたはずの土下座をする人々があとを絶たなかった。
天皇を宗教的カリスマと同じ「生き神」ととらえる人々がいた一方で、巡幸に気づかない人もいた。
 90年以降になると、天皇の地方視察を伴う巡幸はしだいに行われなくなり、陸軍特別大演習を初めとする軍事行幸が中心となった。
また陸路の交通手段はほとんど鉄道となり、天皇の身体は沿線でも見えなくなった。
「動く天皇」でありながら、再び「見えない天皇」となるわけである。
その代わりに、「御真影」に描かれた大元帥、「神」としての天皇像がしだいに広まっていった。
 1900年からは、嘉仁(よしひと)皇太子(後の大正天皇)の地方巡啓が始まった。
当初は個人的な学習の一環だったこの巡啓は、日露戦争以降に公的な地方視察となり、皇太子は明治末期までに、沖縄県を除く全国と大韓帝国を回った。
県庁や学校などの訪問場所は、六大巡幸とほぼ重なっていたが、決定的に違っていたのは、皇太子が思ったことを何でも口に出し、人々に気軽に声をかけたことである。
日光田母沢、葉山、塩原の各御用邸にも、皇太子は毎年のように訪れた。
(『岩波 天皇・皇室辞典』原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)

天皇専用の乗り物――鳳輦(ほうれん)」(東京国立博物館)
 地方巡幸
  演出者はだれか


 迎える側の人民がこのような状態にあるとき、地方巡幸を計画し、演出した政府の側はなにを意図していたのか。
 明治9年の東北行からはじまるこの徒歩と馬車による本格的な大巡幸は、その後、11年の北陸・東海道巡幸、13年の中央道巡幸、14年の東北・北海道巡幸、18年の山陽道巡幸と、ほとんど明治10年代に集中している。
それも自由民権運動の昂揚から激化の時期に集中している。
そしてこれ以後は、もはや一つ一つの村を天皇が親しく歩いて民草にまぢかく接するという、本来の意味の地方巡幸はおこなわれていない。
(『日本の歴史21 近代国家の出発』色川大吉 中公文庫 2006年改版)
 このように前後88回の明治天皇行幸中、最大の巡幸が10年代に集中したという事実はけっして小さな意味のものではない。
それはこの10年ほど明治国家にとって、「人心収攬(しゅうらん)ノ必要」がさしせまっていた時はなかったからであろう。
それは、別の角度から見れば、まさしく、近代天皇制国家の国造りの時期にあたっていた。
 この国家的なパレードの演出者は、わたくしの眼には大久保利通であったように見える。
明治9年の時は、大久保が指揮ため先発し、つづいて本隊が岩倉・木戸・徳大寺という最高の顔ぶれ(総勢136人)でつづいている。
この時はまだ未経験のためか、人民にたいする恩恵のほどこし方も総花(そうばな)的で、散漫に流れ、のちの巡幸の時のように集中的な効果をあげていない。
「賞恤(しょうじゅつ)」の件数も多くない。
ねらいも殖産興業の奨励にあるかと思うと各種学校の視察にあったり、君徳培養にあったかと思うと地方機関のタガの締直しであったり、水害村の見舞いや士族の慰撫がおこなわれたり、欲ばりすぎてかえって効果を薄めた感すらある。
 ところが11年巡幸になると様子が変わってくる。
死の直前、地租改正反対大一揆の教訓から真剣に地方制度の改革を考え、建議を提出していた大久保の胸中には、もはや力では抑えることのできない民衆の新しい動きが予感されていたらしい。
 かれの死後の7月22日に制定公布された地方三新法(郡区町村編成法・府県会規則・地方税規則)は、こうした情勢にたいする政府側の一歩後退二歩前進をはかる深慮遠謀であり、新時代をきずく礎石となったと思われる。
(『日本の歴史21 近代国家の出発』色川大吉 中公文庫 2006年改版)
大久保利通(おおくぼとしみち)」(近代日本人の肖像 国立国会図書館)

かれの死後」とありますが大久保利通は1878(明治11)年5月14日に暗殺されています。
西南戦争が1877(明治10)年2月15日に始まり、西郷隆盛(さいごうたかもり)が9月24日に自刃しています。

昨日、前大統領の暗殺未遂事件がありました。
会場の外から狙っているので銃の扱いになれた者の犯行かなと思ったのですが
犯人は、共和党員として有権者登録をしていた若者だそうです。
動機の解明がされると思いますが亡くなっているので時間がかかりそうです。

ケネディ大統領 暗殺」(NHKアーカイブス 1963年)
この時、オズワルド容疑者も殺されてしまい謎に包まれたままです。
今朝の父の一枚です。
イヌビワを写していました。
食べる?食べない?秋の木の実」(旧吉田茂邸 大磯町郷土資料館)

 「実や種子の役割」つづき

 種子には、親にはない特別な能力も備わっています。
厳しい寒さや乾燥も、種子なら平気で乗り越えます。
時に種子は、何十年に及ぶ長い年月を眠って飛び越えます。
種子は時間旅行もできるのです。
 種子は(裸子植物を除けば)、周囲をぐるっと実に包まれています。
実の色や形はじつに個性豊かです。
赤くて丸い実だったり、ドングリのように堅い殻の実だったり、厚いコルクの皮を着込んでいたり、カエデの実のように羽根をつけていたり、タンポポのようにパラシュートをつけていたりします。
かと思うと、熟すと炸裂する時限爆弾のような実もあります。
これらはみな、大事な種子を送り出すための旅支度です。
こうして種子は実に助けられて、地面を離れ、新しい大地に移動します。
 この本では、種子たちの旅を紹介します。
植物によって、種子の色や形もさまざまです。
じつは、実と種子の区別はかなり複雑で、種子に見えても実であったり、花から実への発育を観察しないと理解しづらい例も多いのです。
本書では、わかりやすく伝えるために、一般に種子と見えるものは「タネ」と呼ぶことにします。
(『実とタネキャラクター図鑑』多田多恵子 誠文堂新光社 2017年)