2024年7月6日土曜日

小暑なんだけど

天気予報を見ていると今日も猛烈な暑さになるみたい
朝のうちはぬるい風でもホッとしたけど
午後からは熱風になるのかな?

近畿 猛暑日のところも 夜のはじめごろにかけ局地的に雷雲も」(関西NHK)
今日は二十四節気の「小暑(しょうしょ)」ですが、七十二候の「温風至」の方がピッタリする。

温風至(あつかぜいたる)

新暦】7月7日~11日ごろ
意味】暖かい風が吹いてくる
夏の暑さもいよいよ本番へ
 南から暖かく湿った風が吹き、本格的な夏の到来を予感させるころ。
南風にも、梅雨の時季に合わせてさまざまな名前がつけられました。
梅雨入りのころに吹く風を「黒南風(くろはえ)」、中ごろは「荒南風(あらはえ)」、梅雨明けのころは「白南風(しらはえ)」。
この時季は白南風によって湿った暖かな空気が流れ込みやすく、それが上昇して山のようにむくむくと立ち上がる積乱雲を生みやすくなります。
雷雲ともいわれ、突然の激しく強い雨を降らせたり、突風や雷を伴うことも。
(『イラストで楽しむ日本の七十二候』アフロ著、森松輝夫絵 中径出版 2013年)

注)今日の時点でもKADOKAWAはシステム障害でアクセスできません。
来週の朝ドラ「虎に翼」第15週「女房は山の神百石の位?」

朝ドラ「ブギウギ」
の鈴子のように寅子もアメリカへ行きます。
ブギウギでは、娘の愛子が鈴子に泣いてすがりました。
優未は、どうするのかな?
和田(三淵)嘉子さんの子どもは男の子でした。
それを女の子にしたというのは、脚本家の吉田恵里香さんには狙いがあると思います(^_-)
来週も寅子が優未を寂しがらせていると視聴者からの批判が起こるのかな?
直人や直治のように我慢をしていたのは、男の子だから?
穂高重親が亡くなりました。
モデルになった穂積重遠も同じように亡くなっています。
穂積重遠の娘さんへの聞き書きの本より一部転記しますφ(.. )

 第3章 敗戦・一人で勉強を始めるまで
 昭和21年の総選挙と、その後の社会的事件


 戦争が終わって、一番最初の歴史的事件は総選挙ですわね。
ずっと昔、昭和3年に第1回の普通選挙があって、25歳以上の男性全部に選挙権が与えられた時、65歳の祖母が、出入りの植木屋さんにだって選挙権があるのに、「私にないなんてくやしいねえ」って嘆いた話は、耳たこができるほど聞かされていましたから、それはもう大事件で、喜んで行きました。
さあ、誰に入れましたっけ、忘れちゃったけど。
その後も祖母の事を考えるから、いつも棄権だけはしてません。
女の方も随分当選なさって、嬉しかったですね。
うちへよくいらした(†)竹内茂代さんもそのお一人です。
(『岩佐美代子の眼 古典はこんなにおもしろい』[聞き書き]岩田なつ 笠間書院 2010年)
 もう一つの大事件は、女も大学に普通に入れるようになったことですね。
この時ばかりは、「結婚しちゃって、しまった!」と思いましたよ。
女性で最初に東大法学部に入られた、(†)藤田晴子さん。
綺麗な方でね、ピアニストでもあって、ちょっと、アイドルみたいな扱いで、あこがれました。
ずっと後で国会図書館に入った時、専門調査員ていう、雲の上みたいなお仕事で、時々お顔だけ見ましたよ。
もう、にこにこした優しいおばあさまになってらして、「ああこの方が」って思いましたね。

 …後略…
 †)竹内茂代 ― 1881(明治14)~1975(昭和50) 医者・政治家。長野県生まれ。東京女子医学校の第一号の卒業生。昭和21年女性初の衆議院議員の一人になる。

†)藤田晴子 ― 1918(大正7)~2001(平成13) 東京生まれ。東京府立第一高等女学校卒。ピアノをレオ・シロタに師事。1938年日本音楽コンクール・ピアノ部門第1位。1946年東京帝国大学の女子第一期生として法学部に入学。卒業後、法学部の助手を経て、国立国会図書館の専門調査員に。1983年退職。著書に『楽の音によせて』『議会制度の諸問題』『シューベルト 生涯と作品』など。
(『岩佐美代子の眼 古典はこんなにおもしろい』[聞き書き]岩田なつ 笠間書院 2010年)

レオ・シロタについて

天才音楽家レオ・シロタと日本」(在日ウクライナ大使館)

ベアテ・シロタ・ゴードン展 ~日本国憲法に男女平等の思いを込めて~」(国立女性教育会館)
 第3章 敗戦・一人で勉強を始めるまで
 父の死


 昭和26(1951)年の正月から工合悪くて、亡くなったのが、7月29日ですから、半年。大変でした。
父の場合は、ぼろぼろになって、死んだんですからね。
直接には心臓の筋肉がだめになったんだけど、内蔵、そこいら中、悪かったでしょうね。
(†)東宮大夫のお務めが、精神的にも肉体的にもすごく大変だったのと、(†)最高裁の判事の仕事も。
(†)アメリカへも行ったりしたけど、それも今と違って飛行機だって大変だし。
そして、そういうことになったら、努める人ですから。
頑強な人だと思われていたから、長生きするだろうと思われていたけど。
六十八ですか。
我々から見れば、もう本当に全部弱ってしまって仕様がないという感じでしたが。

†)東宮大夫 ― 重遠は、昭和18年9月に東京帝国大学を停年退職。昭和20年8月東宮大夫兼東宮侍従長に。
†)最高裁の判事 ― 昭和24年2月、最高裁判所判事に。
†)アメリカへ ― 昭和25年9月27日、米国司法制度視察のため米国へ出張。11月18日、帰国。
(『岩佐美代子の眼 古典はこんなにおもしろい』[聞き書き]岩田なつ 笠間書院 2010年)
 第8章 高群逸枝(たかむれいつえ)さんのこと

 高群逸枝『森の家日記Ⅳ』昭和26年(1951)年7月
   三十日 はれ 朝六時のラジオで穂積先生の逝去(二十九日)を知り驚きと悲しみに沈む。わが業ついに先生のご生前に成らず。弔電をささげ、平塚、竹内、市川女史、X教授に手紙を書いて悲しみを訴えたが仕事も手につかず。
  八月一日 はれ 昨夜絶食。穂積先生葬儀時刻に遙拝。
 父と高群逸枝さん

 (†)高群逸枝さんと父は直接お会いしたこと、一度もないんです。
それこそ、お(†)家に籠りきりで研究していらした方だからね。
父が家族法、特に離婚法に興味を持って、三行半(みくだりはん<離縁状>)の研究なんかしていたから、そういうことでお問い合わせがあったりして、文通だけのおつきあいだったのね。

†)高群逸枝 ― 1894(明治27)~1964(昭和39) 詩人・女性史研究家。熊本県生まれ。詩集に『日月の上に』(大正10)、研究書に『母系制の研究』(昭和13)など。

†)家に籠りきり ― 高群逸枝は昭和6年37歳で女性史研究に入ったとき、研究に専念するため、面会謝絶、門外不出、1日10時間以上の勉学の鉄則を作り実行した。
 「高群さんというのは、偉い方だよ」と、よく言っていました。
「たかむれさん」て名前が珍しいじゃない。
それに、父が子供に向って「偉い方だよ」と言う事なんてあまりないから、印象に残ってました。
昭和13(1938)年に『母系制の研究』が出た時、その購入募集に一番先に申し込んだのも父だったそうです。
今まで見たこともない、枕になりそうな厚い本でね。
それが届いて来た時、父がつくづく見て、「高群さんも、もう少し売れる本作ってくれれば、楽なんだがなあ」と言ったのね。
びっくりして、とても腹が立ちました。
父ともあろうものが、「売れる本書け」とは何事だと思ったのね。
「よろしい。そんなら私のお小遣いためてあげよう」と思ってさ。
その頃、お小遣い一月五十銭。
今の500円玉に似てるけど、銀貨だからもう少し立派な感じ。
思っただけで、意志薄弱で実行はしなかったけど、その義憤は今でも覚えています。
 やはり、12歳頃の印象というのは、高群さんに限らず、すごく強いですね。
その頃は、父は家でもとても大きな机で仕事をしてましてね。
机の反対側では、母が縫い物したりなんかしてまして、その隣に姉と私が座って、絵を描いたり遊んだり。
父はそういうたちでね。
書斎はちゃんと祖父の立派なのがあるんだけどね。
そこで仕事をしないで、家族のなかで、ごちゃまぜのとこでするのが好きだったの。
だから一段落すれば、「お茶」ということになって、そういう時にそんな話をするわけ。
 高群さんの後援者で、生活面や、健康面の面倒も見てらした竹内茂代(たけうちしげよ)さんもよく存じ上げていて、この方はよくうちにもいらしたし、「しげよ」じゃなく、「もよさん、もよさん」とお呼びしていました。
 その後、『招婿婚(しょうせいこん)の研究』(大日本雄弁会講談社)資金として、父が推薦して「服部報公会」とか「啓明会」という財団から助成金を出していただきました。
一万枚ものカードを取りながら、中途で調査方法の誤りを発見して、全部破棄してやり直す、というような大変な苦心の御研究で、刊行されたのは父の亡くなった二年後、昭和28(1953)年でした。
 昭和15(1940)年にお出しになった『女性二千六百年』(厚生閣)は「国策に添った、美便乗したもの」と戦後に非難されましたけどね。
それを言ったら我々みんなそうなんです。
そういう事しなかったら、研究する事も生活する事もできない。
皇室関係の結婚のあり方、非常に大事な材料なわけでしょ。
でも、それをうっかり言うことができない。
もう、憲兵が来ていろいろと聞かれたり、大変だったんですからね。
それをカモフラージュするためにも、こういうことしなきゃならなかったしね。
実際問題としてね、天皇制のもとにあったわけですから、高群さんだってもちろん皇室を尊敬していらっしゃいましたよ。
当時の国民として、当然のことで、嫌々やむを得ずじゃなくてね。
それじゃなきゃ、戦争に皆行かないじゃないですか。
もっと反戦運動でもしますよ。
それが出来なかったのは、天皇制というものが、皆のなかにたたき込まれて、それに反対したら「非国民」だしね。
「天皇陛下のため」と言われたら、もう何も言えなかったもの。
今批判するのはやさしいけれども、そんな簡単なものではなかったんです。
そういう意味では、真面目に皇室を尊崇(そんすう)してもいらしたわけだから、敗戦の時は打撃だったと思いますけれども、一方では「これで新しくなれる」という気持ちもあったわけですね。
 それで最初に、『日本女性社会史』(昭和22年、真日本社)が出来るわけです。
この時も、父に戴いたものを、とっちゃって読みました。
もう、新鮮でしたよ。
全部わかったわけでも、なんでもないけどね。
婚姻史のざっとした見取り図を書いて、古代から、明治から、戦前、戦後、これから、という見渡しを書いていらっしゃるわけですから。
「新しい時代になった」という感激をもって、お書きになる方もお書きになったし、読む方もそうだったんですね。
それは、素敵でした。
(『岩佐美代子の眼 古典はこんなにおもしろい』[聞き書き]岩田なつ 笠間書院 2010年)
今朝の父の一枚です(^^)/
河津桜の葉が黄色くなっています
連日の暑さにもう夏バテをしてしまったのかな?

第5章 桜のこれから
 温暖化と開花期の変化


 …前略…

 ところで、こうした気温の上昇は地球温暖化だけの影響ではない。
ヒートアイランドと呼ばれる都市を中心に高温となる現象の影響も大きい。
地表が人工物で覆われることや排熱の増加がより大きいこともある。
桜の開花も当然ながらこのヒートアイランドに影響され、開花が早くなっている。
すでに述べたように、単純な気温の上昇がそのまま開花時期に影響するわけではないが、関東以北では都市化による開花時期への影響は大きいと思われる。
(『桜 (里の桜、山の桜。…)』勝木俊雄 岩波新書 2015年)