2024年7月9日火曜日

梅雨の晴れ間も…

ツバメが低く飛んでいました。
ここ数日、梅雨の晴れ間でしたが
天気予報では、これから大気が不安定になるみたいです。

近畿 厳しい暑さ 落雷や急な強い雨にも注意を」(関西NHK)
以前は、日射病といって昼間の病気だと思っていた。
沖田総司が池田屋事件で倒れたのは労咳(ろうがい)だと思っていたのですが…

 京都浪漫 悠久の物語 「新選組の実像~激闘!池田屋事件から160年目の夏~
霊山歴史館学芸課長 木村武仁さんの解説に

近年の研究では、このとき沖田は、暑い室内で一生懸命戦ったことによる
熱中症で昏睡したんじゃないかといわれております。
その根拠は、池田屋事件、元治元年
(1864)の6月の段階で
もし血を吐くほどの状況が悪化していたならば
慶応4年
(1868)まで生きられなかっただろうと
グレーテルのかまど「キング牧師のピーチコブラー
今まで、キング牧師についてはいろいろ番組を見たり、本を読んだりしたけど
キング牧師のお気に入りのお菓子があったのを初めて知った。
キング牧師がの生まれ育ったアメリカ南部ジョージア州の名物で、
牧師が仲間たちと夢を語りながら楽しんだお菓子が、ピーチコブラー


朝ドラ「虎に翼」でみんながよく集まるのが甘味処「竹もと
明律大学、カフェ燈台、竹もと、裁判所セット
最近、寅子の態度や発言に「もやもや」するという書き込みなどを見かけますが
私は、働いていた時のことを思い出して「チクチク」刺さります。
きっと同僚や後輩たちがスンとするような言動をしていたと
あの頃の記憶がフラッシュバックのように突き刺さります…

花江が着ているのは義母はるの着物だそうです(森田望智さんの投稿)。
花江も疎開先で息子たちがいじめなどで我慢していたことに気がつきませんでした。
はるが孫の直人や直治によく頑張りました。
もうがまんしなくてもいいよと語りかけていました。
今度は、花江が優未の気持ちを代弁してくれていますね。
朝ドラ「虎に翼」第15週「女房は山の神百石の位?」 (72)
冒頭のラジオ番組で最高裁長官に寅子が反論するのですが、
このエピソードは二代目最高裁長官田中耕太郎を囲む座談会での発言です。
昨日の71回で寅子がアメリカから帰国した様子が描かれていました。

〔第1部〕三淵嘉子 評伝
 女性法律家のすすむ道


 昭和25(1950)年5月12日、嘉子はアメリカへ向かった。
日本の法曹界を代表して、先進地の家庭裁判所を視察するためだった。
 一緒に参加したのは、大阪家庭裁判所の初代専任所長の稲田得三と、最高裁家庭局付だった佐藤昌彦の二人である。
(『三淵嘉子と家庭裁判所』清永聡 日本評論社 2023年)
 実子の和田芳武は、母が渡米した時のことをこう話す。

 「戦争が終わってまだ五年でしょう。それで渡米することになったから、みんな驚きました。当時は海外に行くことも自由ではなかったですし、少し前まで戦争していたアメリカです。私は武藤の家にしばらく預けられることになりました」

 当時は横浜から船で出発した。
芳武と武藤家の家族で見送ったという。
アメリカまで10日間かかった。
 帰国後に最高裁で開かれた報告会と、同年に会同で発表された記録が残っている。
それによると、三人はまずシアトルで家庭裁判所の少年部と家事部を訪ね、続いてニューヨークで26日間にわたって家庭裁判所と保護観察所を見学した。
それからワシントンへ移って12日間滞在し、少年院やFBIの鑑識部などを訪問。
さらに、シカゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコと回った。
 稲田と佐藤は8月3日に帰国したが、船が貨物船だったため女性は乗ることができず、嘉子は一人残されることになった。
彼女が帰国したのは8月23日。
三か月あまりの旅であった。
 この間、ワシントンにいた6月には朝鮮戦争が始まる。
アメリカ社会はやや騒然としていた。
 三人は、太平洋戦争で使われたB29が、再び飛び立つ様子を伝える新聞記事を見ている。
つい数年前まで日本各地に焼夷弾を落とした爆撃機が、今度は隣の朝鮮半島へ向かうのである。
おそらく複雑な思いを抱いただろう。
 それでも三人は、日本が制度のお手本にしたアメリカの家庭裁判所をできる限り吸収しようとしていた。
 一番年長の稲田は「我々三人は、その日見てきたこと聞いてきたことを少しでも多く身につけようというので、毎晩遅くまで論じ合い、ずいぶん努力しました」と語っている。
 嘉子はここで何を感じたのだろうか。
 自身が語り残した内容によれば、嘉子は何人もの女性裁判官の活躍を見ている。
そのうち一人は、ニューヨーク市のマンハッタンにある家庭裁判所のクロスという女性だった。
比較的軽微な家庭の紛争を解決するため、試験的に設けられていた。
彼女はここでたった一人の判事だった。
 女性が一人で裁判所を任されていることが、まず嘉子には驚きだった。
しかもクロス判事は事件の処理だけでなく庁舎の管理まで一人で担当していた。
さらに裁判所の費用をまかなうため、自ら寄付活動もしていた。
 裁判所の中には託児所もあった。
女性が子どもを連れて裁判所に来た際、法定に出ている間子どもを預かってもらうことができる。
寝室もあれば食堂もある。
充実した施設に嘉子は目をみはった。

 「Courtというより、それは一つの社会事業という考え方であります。私はまたそういう女のJudgeの意見を採り上げて試験的にやらせたというアメリカ人たちのやり方に驚異の目をみはったのであります」
 …後略…
(『三淵嘉子と家庭裁判所』清永聡 日本評論社 2023年)
息子の和田芳武は優未のように我慢強い子ではなかったようですよ

第二章 三淵嘉子——初の、女性の裁判所長
 第7節 いよいよ裁判官に
 <アメリカへ>


 嘉子が裁判官になった翌年。
昭和25年(1950年)の5月である。
彼女はアメリカへ行くチャンスを得た。
家庭裁判所がアメリカでどう運用されているかを、見るためである。
 約6カ月間、彼女は日本を離れた。
一人息子の芳武は、当時いっしょに住んでいた、弟の輝彦の家庭に任せた。
芳武は7歳。小学2年生だった。
輝彦は、筆者に言った。
(『三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち』佐賀千惠美 日本評論社 2023年)
 「芳武は成城にある、ゆかり文化幼稚園から玉川学園の小学部に進みました。どちらも、日本で最も自由な所でした。しかし、芳武は、そこですらはみ出す子でした。
 彼は頭の回転は早いです。しかも、わくにはまりません。自分の思うとおりに行動しました。小学校の授業中に、一人で虫取りに行ったりするのです。私の妻も彼にはだいぶ、手をやきました」
 芳武は、筆者にこう語った。
 「昼間、母は裁判所に行っています。おばさんの温子さんには、とても世話になりました。
 ぼくは音痴でした。小学校でもまもとに歌えませんでした。おばさんはオルガンを弾いて、ぼくに歌の練習をさせてくれました。
 しかし、おばさんがいても、母がアメリカに行っている間はさびしかったです。授業はほとんどさぼって、遊び回っていました」
(『三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち』佐賀千惠美 日本評論社 2023年)

新プロジェクトX「トットちゃんの学校 ~戦時下に貫いた教育の夢~」を思い浮かべます。
芳武さんは、成長して生物学者(医学博士)になったそうです。
今朝の父の一枚です(^^)/
アオノリュウゼツランの花が咲き出しています。
なんか避雷針が立っているみたい…

 雷 (省略)
 夕立 (省略)

 雲と雲、あるいは雲と地表との間の放電が光と音を発生する自然現象を雷という。
光だけなら稲妻で、秋の季語であり、気象庁の雷の定義にも光だけのものは含まれていない。
夏から秋にかけて、雨をともなう放電があると、空気中の窒素が大地に固定されて稲に栄養として供給されるから、放電は稲の妻であり、稲妻が多い年は豊作になると言われる。
 夕立は、夏の夕方、局地的に激しく降る雨である。
大粒の雨が地面を叩きつけ、雷鳴をともなう。
短時間で止み、からりと晴れて涼気を感じさせる。
武蔵野の夕立は馬の背を分けるといわれるほど局所的に降る。
 …つづく…
(『季語の科学』尾池和夫 淡交社 令和3年)