2024年7月7日日曜日

たなばた

朝から気温がグングン上がっています。
熱中症予防情報サイト(環境省)で「熱中症警戒アラート」が発表されました。

猛暑は“災害” 命を守る「熱中症」対策〟(NHK 7月5日)
今日は「たなばた」なんですが、「たなばた」をなぜ「七夕」と書くのかな?
7月7日の夕べの行事というところからの当て字?

七夕はどうして「たなばた」と読むのか…〟(レファレンス協同データベース)

京都の冷泉家では、
 7月――七夕――星に願いを
 「乞巧奠(きっこうてん)」と「二星(たなばた)

 冷泉家は〝和歌の家〟でございますから、歌会を中心に年中行事があります。
一年で最も重要な歌会はやはり正月の歌会始め。
次いで大切なのが七夕の行事でございます。
 私どもの家では、初秋に二つの七夕の行事を行ないます。
ひとつは歌の門人たち(尚光館<しょうこうかん>、玉緒会<たまのおかい>)が中心になって行なう「乞巧奠(きつこうてん)」。
もうひとつは家族だけで行なう「二星(たなばた)」でございます。
ちなみに、「七夕」と書いて「たなばた」と読みますが、私どもでは「しっせき」と読み、「二星」と書いて「たなばた」と読む習(ならわ)しになっております。
「乞巧奠」は日は決まっておりませんが、盛夏をはずして、少し涼しくなった八月下旬から九月初旬にかけて行なってきました。
(『冷泉布美子が語る京の雅―冷泉家の年中行事』聞き手南里空海 集英社 1999年)
 改修復元工事が始まってからは、この「乞巧奠」も工事の間はお休みしようと思っていましたところ、現当主・為人と貴実子夫婦が、「毎年行なってきた行事を中止するということは〝前例〟を重んじる冷泉家の習しに反する」と申しますので、それでは外に会場をお借りしようということになったのですが、ところが、庭のある会場となるとなかなかございません。
それで、ホールをお借りいたしましたところ、照明がきれいで雰囲気もあって、なかなか評判もよろしかったようです。
「乞巧奠」は家族だけで行なう「二星」と異なり、歌会の門人が大勢集まって星をお迎えいたします。
昔、歌会の男の方は薄い帷子(かたびら)と袴をはき、朝から「星の座」の祭壇を準備したものでした。
昼近く、暑くなってまいりますと、肌脱ぎになったり、襦袢(じゅばん)だけになったり、着物は腰のあたりにぶら下げたまま、戸をはずしたり、庭に机や灯台を運んで祭壇をこしらえておりました。
そんな姿が今も目に浮かんでまいります。
今はもうみなさんは、涼しいふうの格好で働いております。
「乞巧奠」は中断した時もあったようで、近代になって復活されたといわれていますが、戦時中にも中断した時期がありました。
物資不足で供え物が揃わないということもありましたが、何よりも世の中が「乞巧奠」どころではありませんでしたから……。
戦後はすぐに復活し今日まで続いております。
 星を迎える祭壇「星の座」は上の間の南庭に設け、その「星の座」を中心に「乞巧奠」は行なわれます。
祭壇は四脚の大きな机を並べ、その周囲に火皿ののった九本の灯台を巡(めぐ)らして作ってまいります。
机の後方には、二組の海の幸山の幸を土器(かわらけ)に盛って、二つの星――織姫と彦星に〝どうぞお召し上がりください〟と捧げます。
その種類や配列を間違えないようにとつくられた、歌で覚えております。
和歌の家ですからなんでも歌で覚えるようになっております。
「うりなすび ももなし からのさかづきに ささげらんかづ むしあはびたひ(瓜・茄子・桃・梨、空の杯、豇豆<ささげ>、蘭花豆=油で揚げた空豆、蒸鮑、鯛)」。
空の杯というのはどういう意味かわかりませんが、お酒を注ぐために空にしてあるのではないでしょうか。
「星の座」の後ろに二本の笹を立て、その間に麻糸を張り、そこに五色の糸と梶の葉を交互に吊します。
机の横には塗りの衣桁(いこう)を立て、そこに五色の布と五色の糸を梶の葉と同じように互い違いに飾ります。
机の手前には、星にお貸しするとして、「琴、琵琶で今夜はお遊びください」と楽器を手向けます。
「星の座」の正面に、水を張り梶の葉を浮べた角盥(つのだらい)を置きます。
昔は、夜、この角盥に星を映したといわれております。
この盥には四本の角のようなものがありますが、これは、姫君たちがお顔を洗う時、袖を濡らさないように掛けるためと、持つの便利にということで作られたものと聞いたことがあります。
 他に、広蓋(ひろぶた)に五色の糸と布をのせてお供えし、錫(すず)の花瓶には秋の七草――萩(はぎ)、尾花(おばな)、葛(くず)、撫子(なでしこ)、女郎花(おみなえし)、藤袴(ふじばかま)、朝顔――を生けてお供えします。
その時、新しく作った着物なり洋服なりがございましたら、それもお星さまにお貸しして、着ていただくという意味で手向けます。
そうすると、着物や洋服が増えると言い伝えられておりますから、楽しく手向けることができます。
「乞巧奠」の儀式は日の高いうちに手向けの蹴鞠(けまり)から始まるのが正式とされていますが、大正年代の道路拡張の影響で庭が狭くなってからは、蹴鞠はやっていなかったようです。
1995年に外の会場でこの行事をするようになってから蹴鞠も復活いたしました。
蹴鞠は桜、松、柳、楓(かえで)とそれぞれの木で四方を囲った中で行なうのが正式のようで、一番格式が高いとされております。
 鞠水干(まりすいかん)と申します蹴鞠の装束、それはきれいでございます。
あれは、本物の衣裳ですから重厚感がありますし、色彩も、緑、黄、紫、黒、茶……鮮やかで、今の男の方と比べて昔の男の方はおしゃれさんだったようです。
 私どもにあります狩衣(かりぎぬ)などのような装束はすべて正絹ですから、畳んでしまっておきますと、畳んだ折り山がすり切れてしまいます。
繕うことできない場合は、今は財団のほうで新しく作っておりますが、財団になる以前は、冷泉家が個人で作っていましたから、それはそれは大変でした。
 やがて日が沈む頃に、「星の座」の九つの灯台と庭の灯籠に火が入り、舞良戸(まいらど<雨戸の一種>)や障子、襖などすべての建具を取りはずした上の間(かみのま)で雅楽の演奏が始まります。
演奏曲目は「二星(じせい)」や「陪臚(ばいろ)」と、この夕べにふさわしい曲が奏でられて、これがまた初秋の夜に美しい音色で、とてもよろしいんです。
 私の父は平家琵琶を弾き、笙(しょう)もいたしました。
母はお琴とやはり笙をたしなみ、兄も姉たちもみな雅楽をたしなみましたが、私はどうもそちらの方面は不得手でして、もっぱら聴き役でした。
(『冷泉布美子が語る京の雅―冷泉家の年中行事』聞き手南里空海 集英社 1999年)

NHK特集 京都冷泉家」(NHKアーカイブス 1980年度)
今朝の父の一枚です(^^)/
七夕によく雨が降るのは、二人が会っているところを見られたくない
見るのは野暮だからと思っていたのですが…

 七夕(たなばた)

 牽牛(けんぎゅう)・織女(しょくじょ)両星の恋物語は有名である。
これは中国で後漢(ごかん<25~220年>)の時代に始まったといわれる。
わが国では、そのほかに、この日にはいろいろな行事がある。
たとえば、里芋(さといも)の葉におりた露で墨をすって字を書くと上手になるとか、盆行事の準備日として墓掃除をしたり、あるいは有名な青森のねぶた流しも一種の七夕行事と考えられている。
ここで注目してみたいのは、「七夕には雨が降る」と伝えている所があることである。
この日に雨が必要ということは、禊(みそ)ぎを思わせるもので、星祭りと矛盾がある。
その点、雨や禊ぎは、東南アジアの湿潤文化圏、星祭りは中国北部・中央アジアの乾燥文化圏の伝承で、その両方がみられるとする考えもあって非常に興味深い。
(『図説 民俗探訪事典』大島暁雄他編著 山川出版社 1983年)