2024年7月21日日曜日

梅雨明け

朝から猛烈な暑さ
木陰で休み休み歩いていました。

近畿地方が梅雨明け 午前から猛烈な暑さ 熱中症に警戒を」(関西NHK)
アメリカ大統領選挙は、トランプ候補が有利に展開していると思う。
トランプ氏は戦争を終らせると宣言している。
ウクライナへの援助を大幅に削減し、ロシアを有利にして戦争を終らせるのだろう。
削減した予算は、イスラエルにまわしてガザ地区を完全に廃墟にするのだと思う。
トランプ候補もバイデン大統領も使命感を持っている(はず)。
神谷恵美子さんの本を読んでいるとこんな文章に出会った。
使命感について
 使命感の危機


 反社会的な内容を持つ使命感を持つ場合に、それを実行すれば当然、社会に害毒をもたらす。
病人でなくとも、歴史上、使命に生きた人びとの中で、その行動が人類にわざわいを及ぼした人は決して少なくない。
たとえばフランス革命時代のロベスピエール、第二次世界大戦中のヒットラーなど、あまりにも有名な例である。
(『神谷美恵子 島の診療記録から』平凡社 STANDARD BOOKS 2017年)
 いうまでもなく、使命感と善悪の関係は必ずしも単純でない。
たとえば善意にもとづいていても、使命感の結果が人に迷惑を及ぼしたり、人を不幸にしたりさえすることは、しばしば目撃されるところである。
やっかいなことに使命感の持ち主は、大てい、自己の使命感を善と確信してやまないのである。
 それは使命感がいわゆる過価観念になりやすいためであろう。
そのため、うっかりすると精神的な視野の狭窄(きょうさく)や精神的な盲目さえもたらし、ほかのことや、ほかのものの見かたなど、いっさい考えられなくなるおそれがある。
それはまた、執着心にも通じる。
 つまり客観性を、ともすれば失いやすくなるのが使命感の特徴であろう。
自分の存在意義を確信し、使命感にあふれる、ということは、思いあがりとひとりよがりの危険を伴う。
これは精神病者をみていて、いつも考えさせられるところである。
 けっきょく、使命感に生きる人の注意すべきことは、つねに謙虚(けんきょ)な反省を忘れないこと。
自分と自分の使命感と使命の内容とを、いつも少し遠くへつきはなして眺めてみるゆとりとユーモアのセンスをもつこと。
及びたえずあらたに道を求める祈りの姿勢であろう。
 使命感に生きた女性

 次に使命感に生きた女性の例をいくつかあげてみたい。
昔から有名なのはジャンヌ・ダークである。
フランスのいなかの娘が天使の声によって救国の使命をさずけられ、軍隊をひきいて、イギリス軍の手からフランスを解放し、ついには使命に殉(じゅん)じて一命をささげたという。
故新渡戸稲造先生はジャンヌ・ダークに傾倒しておられたが、この若いおとめが使命に殉じたという、その「無償制(むしょうせい)」に、先生は何より感動しておられたらしい。
 アメリカのドロシア・ディックス(1802―1887年)の生涯はあまり知られていないが、精神医学史の上では、唯一の著名な女性である。
彼女は40歳になるまで、病身な一教師であったが、あるとき、ふとしたことから、女囚たちの収容されている監獄に出入りすることになり、その中にまざっている、精神障害者たちのみじめな処遇におどろいた。
精神病者たちをもっと人間的に扱うようにすること。
これが彼女の抱いた使命感の内容であった。
そのために、あらゆる困難と非難に耐えて、ただひとすじにこの目的のために余生をささげた。
彼女の努力は全米に及び、さらに英国にまで及んだ。
 イギリスのナイチンゲールはあまりにも有名な例である。
世界じゅうの看護婦さんを現在に至るまで導いているのは、ナイチンゲールのイメージである。
この人の伝記、ことにその前半において、彼女が使命感に持つに至る道程をよむことは、使命感についてじつに多くのことを教える。
 さいきん日本でも注目を集めはじめているのは、フランスの女流哲学者シモーヌ・ヴェーユ(1909―1943年)である。
この人の場合は、哲学者として真理を探究する使命感と、人類の不幸を共にしたいという、愛への使命感とが、二つながら強くあって、互いに相克していたような観がある。
彼女は数々の優れた著作を残したが、ただ書斎にこもっていることは、自分の心が許さず、労働者たちの不幸を自ら共にしたいとの願いから、工場へ女工として働きに行ったり、第二次世界大戦中には、ドイツに占領されたフランスの解放のために、なるべく危険な任務につかせてくれ、としきりに願う。
そのころ、イギリスにあった「自由フランス政府」の友人にあてた手紙に、彼女は次のようにしるしている。
「地球上にひろがっている不幸は、私にもたえずつきまとい、私をうちのめします。私みずから多くの危険と苦悩にあずからない限り、この悩みから解放されることはないでしょう。……このような性格をもっているのは不幸なことです。……しかし、これはただ性格の問題でなく、使命の問題だと思うのです。」
この最後のことばは興味ふかい。
 日本の女性にも、使命に生きた人は決して少なくない。
さいきん感銘をうけたひとりとして、高群逸枝(たかむれいつえ)氏をあげておこう。
彼女の日記「火の国の女の日記」は、あらゆるものを犠牲(ぎせい)にして、ぼう大な女性史を執筆することへの、強い使命感の記録ともいえる。
(『神谷美恵子 島の診療記録から』平凡社 STANDARD BOOKS 2017年)
アオサギの巣かな?
よく見かけるのは樹の上なんだけど…
それに子育ては終っているとおもうので
他の水鳥の巣を横取りしている?

サルスベリは何日間咲く? 【猿滑り・百日紅・紫薇】」つづき

 サルスベリを漢字で「百日紅」を書くのは、7月ごろから9月ごろまで、約100日もの間、花を咲かせ続けるからだ、とよくいわれます。
しかし、この記述によれば、軽く150日くらいは咲きっぱなし。
中国と日本とでは、気候が違うからなのでしょうか。
 また、中国人といえば、「白髪三千丈」式のおおげさな表現を好むことには定評があります。
そんな彼らが、実際より少なめの「百日」で満足しているというのも、ちょっと不思議な気がします。
 それはともかく、中国語由来の「紫薇」「百日紅」という、花に注目した優雅な呼び名に対して、木肌の特徴を捉えた「猿滑り」は、いかにも日本語独自の名称のように思われます。
しかし、そうとは言い切れない要素もあります。
 それは、9世紀の中国で、段成式(だんせいしき)という学者が書いた『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』という書物に、「紫薇のことを、北方の人は「猴郎達樹(こうろうたつじゅ)」と呼んでいる」とあること。
「猴」は、サルを表す漢字。
この書物では続いて、「この木には皮がなく、サルが駆け登ることができないことを表しているのだ」とも書いています。
 「猴郎達樹」の「郎達」の正確な意味ははっきりしませんが、中国人も、この樹木を「サルが登れない木」だと捉えていることは、間違いないようです。
(『漢字の植物苑 花の名前をたずねてみれば』 円満字二郎 岩波書店 2020年)