2024年7月27日土曜日

ごちそう

朝早くから元気な声が聞こえ
公園を歩くと大合唱…
厳しい暑さの中を歩いていて、時たま吹く風が一番のご馳走です。
ここしばらく雨が降っていないので地面がカラカラなんですが

東北 日本海側を中心に今月30日ごろにかけて再び大雨の見込み」(NHK)
朝ドラ「虎に翼」第17週「女の情に蛇が住む?」 (85)
「Tea Room Lighthouse」に稲さんが加わり
メニューにおふくろの味が増えましたね(^-^)
涼子様(ちゃん)のおすすめメニューは、カレーではなくハヤシライス!
ハヤシライスは、明治時代に始まっているようです。
3 全国各地で発展した「日本の洋食」
 ハヤシライス


 「上野精養軒」の林さんというシェフ、もしくは「丸善」創業者の早矢仕有的(はやしゆうてき)が発明したとも、英語のハッシュドビーフ・ウィズ・ライス(細切れ牛肉のライス添え)が訛ったともいわれる「ハヤシライス」は、薄切りの牛肉とたまねぎ、デミグラスソースの煮込みをライスにかけて食べる、明治時代に登場した日本の洋食の代表格です。
ハッシュドビーフとハヤシライスの両方の固形ルーを販売している食品会社のグリコでは、「ハッシュドビーフとハヤシライスの違いは明確ではありません。一般にハッシュドビーフはデミグラスソースをベースにした大人向きの味、ハヤシライスはトマトソースやトマトケチャップなどをベースにした子どもから大人まで親しみやすい味のイメージがあります」と説明しています。
(『日本の洋食 洋食から紐解く日本の歴史と文化』青木ゆり子 ミネルヴァ書房 2018年)
 ハヤシライス

 …前略…

 ハヤシライスについては、丸善の創業者である早矢仕有的(天保8年1837―明治34年1901)と関わるという話がある。
丸善百年史 上巻』(1・17)に次の記事がある。

  その語源についてこれを有的に結びつける説がある。幕末か明治の初年のことであろう。友人が訪問すると、有的は台所に有り合せた肉類や野菜類をゴッタ煮にして、飯を添えて饗応するのが常であった。そこから人々はこの料理をハヤシライスといい、ついにはレストランのメニューにまで書かれるようになったという。
(『くいもの 食の語源と博物誌』小林洋次郎 勉誠出版 2011年)
   しかしこの話はあまり面白過ぎる。英語でコマギレ肉のことをハッシュ( hash )といい、転じて肉と馬鈴薯や人参などの野菜との煮込みもハッシュという。神田佐久間町の三河屋は、明治初年以来の洋食屋であるが、そこではハッシュ・ビーフがよく流行った。これとライスとを合わせて称したものが、ハヤシライスの語原に違いない。

 用例は昭和初期から見られる。
早矢仕有的よりはだいぶ後だ。
あらかわ・そうべゑ『外来語辞典』(昭和16年)には、「ハイシ ライスともいひ、ハイ ライとも略す。」とある。
そんな略しかたがあるのは、かなりはやっていたからだろう。
(『くいもの 食の語源と博物誌』小林洋次郎 勉誠出版 2011年)
朝ドラ「虎に翼」第17週「女の情に蛇が住む?」 (85) 
長岡空襲が取り上げられていました。

第6章 米軍の日本焦土作戦
甲信越・北陸地方の空襲
 新潟県の空襲 戦意喪失を目的とした長岡空襲


 米どころ越後平野を擁し、冬の豪雪地帯が多い新潟県の主な空襲は、市街地を狙った長岡空襲と貿易港を狙った新潟空襲、それに信越化学工場を標的とした直江津空襲の3回である。
 とくにひどかったのは、20年8月1日夜。
126機のB29から925トンの焼夷弾攻撃を受けた長岡空襲であった。
死者1143人、重傷者350人、罹災者6万599人、焼失家屋1万5123戸。
市長も亡くなった(その後の調査で死者は1474人ともいわれている)。
(『日本大空襲  日本列島を焼き尽くした米軍の無差別爆撃』新人物往来社 2007年)
 公式記録によれば、長岡市は市街の約80パーセントを焼かれ、焦土と化したという。
主な公共の建物被害は市役所、税務署、裁判所、日赤病院、長岡郵便局、小・中学校、神社等。
長岡は新潟鉄工や津上製作所など工場の町であった、そうした工場を狙わずに市街地そのものを狙ったという点では、長岡空襲も他の都市と同じように戦意喪失を目的とした空襲であったといえそうである。
 東京や大阪、横浜がそうであったように、長岡も爆撃を受ける前に上空から油が降ってきた。
米軍が火勢を強めるためにガソリンを撒いたともいわれているが、それはゼリー状のガソリンを入れたナパーム焼夷弾の可能性が高い。
 非戦闘員1143人を虐殺した長岡空襲から14日後に終戦を迎えた。
広島に原爆が投下されてから9日、長崎の被爆から6日であった。
 6人家族で父母と弟妹を亡くした安藤恭三さん。
昼の疲れからうとうとと眠りについた途端、ウーウーとサイレンの音。
ハッと目が覚めて、「火事かな」と思った直後、サイレンのリズムに「空襲だ」と気がついた。
外へ飛び出すと、敵機が爆撃を開始したらしく市街地は火の海。
 一夜にして戦災孤児となった安藤さんは3年間、叔父のもとで育てられたが、食糧不足の時代であっために栄養失調で脚気になったり、肋膜炎になったりした。
安藤さんは語る。
「ウーウーと鳴り響く悪魔のようなサイレンの音は二度と聞きたくない。そして可愛い我が子にも絶対に聞かせてはならない」(『長岡空襲の記録』第三文明社)
 …後略…
(『日本大空襲  日本列島を焼き尽くした米軍の無差別爆撃』新人物往来社 2007年)
 「長岡戦災資料館 昭和20年夏の日を忘れない……」(PDF)

SNSの投稿に
祖母に「火薬は上げたら花火、落としたら爆弾」と言われて育ちました

1879年(明治12年)から始まった長岡花火は、
1947(昭和22)年から復活。
翌1947(昭和23)年に1日を「戦災殉難者の慰霊」の日とし、2、3日を「花火大会の日」と改められました(「長岡まつり・大花火大会の歴史」)
  1日に打ち上げられる「白菊」について
2023年8月19日に放送された新美の巨人たち山下清「長岡の花火」
で、紹介されていました。

長岡花火支えた花火師嘉瀬誠次さん死去 戦友弔う「白菊」手がける〟(朝日新聞 2023年12月16日)

 「白菊」は90年、シベリア抑留中に亡くなった戦友の弔いのため、旧ソ連のハバロフスクで初めて打ち上げた。長岡でも13年後の2003年、1488人が犠牲になった1945年の長岡空襲にあわせて8月1日午後10時半に打ち上げ、以降毎年続けられている。
今朝の父の一枚です(^^)/
ハクセキレイの若鳥を写していました。

ハクセキレイは飛ばなくていいなら飛ばない

……前略……

 ハクセキレイは、基本的に足を交互にくり出して移動する「ウォーキング」で移動し、スズメのようにピョンピョンはねる「ホッピング」はあまり行いません。
脚も、あしゆびも長いので、大股でも安定して速く歩くことができます。
早足で歩いては、昆虫などの小動物を見つけて捕まえます。
ときには人間が落としたパンなどを食べることもあります。
そうした食べ物は都会でも競争が激しいようで、最初は走って食べ物を目指していたハクセキレイが、スズメたちが飛んで向かうのに気づくやいなや、飛び立つこともあります。
飛んだほうが早いのは、彼らもよくわかっているようです。
(『トリノトリビア 鳥類学者がこっそり教える 野鳥のひみつ』川上和人 マツダユカ他 西東社 2018年)