2024年1月20日土曜日

大寒

昨日は、病院(心臓リハビリ)の帰り、日差しが暖かく車の窓を開けていたのに、今朝は、雨!
天気予報では、「雨、時々止む」となっていたけど本当に止むのかなと思っていたら
青空が見えるほどでした。
雨のおかげで来園者が少なく静かな公園でした。

能登半島地震 被災地の広い範囲で雨 土砂災害に十分注意を」(NHK)
 大寒(だいかん)
1月20日~2月3日 厳しい寒さが続く 冬季最後の節気

立春へと繋がる節目行事「節分」

 小と大で分けられる寒の時季において、より寒さが厳しくなる大寒。
しかし一方で、冬至からは確実に日差しは強まってきていて、春の気配を感じることもできます。
 しばしば早春に「三寒四温」という言葉を耳にしますが、本来は冬季に使用する言葉です。
中国北部や朝鮮半島から伝わった言葉で、日本の冬において文字通りの三寒四温はあまり見られませんが、それでも暖かな日差しを感じられることも。
(『美し日本の旧暦 二十四節気・七十二候』マガジンハウス編 2017年)
 大寒は毎年1月20日から始まることが多く、この日は「二十日正月」です。
正月の祝い納めをする日で、この日をもって正月の行事はすべて終了とされます。
 大寒を過ぎればいよいよ立春ですが、大寒最終日である立春前日は、豆まきや恵方巻きなどで厄払いする「節分」です。
立春・立夏・立秋・立冬の前日はすべて節分ですが、なかでも冬から春を迎えるこの時季の節目が重視され、一般的な節分として全国的に広まりました。
 また寒の期間に汲んだ水は長期保存に適した「寒の水」として重宝され、この時季の水で作られた味噌や酒は腐らないと言われています。
(『美し日本の旧暦 二十四節気・七十二候』マガジンハウス編 2017年)
朝ドラ「ブギウギ」で小夜が米兵のサムと出会ったときに手に持っていた薄い本
ドラマの中では「日米會話手引」と表示されていましたが
第二次世界大戦直後、わずか4か月で360万部以上売れた
日米會話手帳』(科學教材社刊)という本があります。
その発行元が科學教材社となっているのは…

復刻版 出版興亡五十年』小川菊松(初代社長)著より

 「日米會話手帳」発行物語

 昭和19年の終り頃から、私は日本があぶない。
敗けるのだということを感じていた。
これは何も私の勘がいいことを誇るのではない。
私は凡ゆる面に交際もあり、また仕事の関係から軍部の人々も相当知己があったから、当時の日本の実体がおぼろげながら解って来ていたのだ。
(『復刻版 日米會話手帳』誠文堂新光社編 2021年)
 …中略…
 
 太平洋戦争も幾百万の犠牲を払って、しかも開闢(かいびゃく)以来最初の敗戦という結末を見たのである。
ここで私は、戦勝国である米英から相当の圧迫を受け、神や仏にでもすがって、我慢しなければ、到底堪えられない様な世相が出現することを予想し、宗教的なものの出版に就いて一応は考え見ていたのである。
これは日清、日露、第一次世界大戦の後には戦記ものも売れたが、慥(たし)かな出版としては、何れもこうした経過を辿っているからである。
しかし、今回は過去の状勢とは大きなちがいなので、突磋ながらも先ず第一に『日米會話手帳』を考えた次第であった。
然るに米英軍が東京に進駐して見ると、彼等は予期に反して紳士的であり、友好的であった。
こうなると日本全国には、相当数の進駐軍が来ているのであり、それらと接する機会が多いことは、いろいろの面に於て火を見るよりも明らかである。
 然しながらこの大戦争を開始する前の頃から、日本精神の鼓吹ということから、一面誤って首唱した連中の意見で、中学校で英語全廃などということが行なわれた位だから、国民の大部分は英語に就いて殆んど関心をもたなくなっていたことも事実であった。
そこへ急に、英米人と接する機会が好むと好まざるとに不拘(かかわらず)出現したのである。
これは、どうしても、早急に語学とまで行かないでも、英米人と会う場合に、自分の意思を先方に伝え、先方の云うことは少しは解る程度の泥縄的なテキストを必要とする。
 私は、8月15日に頭に浮かんだヒントを早速実行に移し、拙速主義で『日米會話手帳』なるものを発行することにした。
そこで、「科学画報」の編集をやっていた加藤美生君に、何かこうした方向のもので、企画して見る様に命じて、一夜で和文の原稿を作り、それに英訳を入れて、四六半截判の32頁という、実におそまつなものであるが、『日米會話手帳』と銘打って発行することにした。
 ところが、こんなチャチなものをいかに戦後とはいえ、誠文堂新光社が発刊するのはどうかという意見が社内から起り、その発行反対の先鋒が伜の誠一郎であって見ると、私もいささか考えさせられた。
 しかし、この企画は、私の経験から考えて見ると、いろいろ検討して見たがどうしてもやるべきものである、という結論に到達した。
そこで伜ども何をいうか、誠文堂発行がまずければ傍系会社の科学教材社から出せば良いではないか、ということになった。
これは過去の経験から、私はもう自信満々だったからである。
ところが原稿が出来て、いざ印刷ということになると東京都内はすでに焼野が原で、出入の印刷所も殆んど印刷能力を失っている。
幸に完全に焼け残った大日本印刷に依頼して、三日位で組上げて印刷にかかった。
見本を作って販売関係の会社へ廻すと、意外に反響が大きかった。
 始め、30万部印刷して、日配へ見本を持って行くと、今の日販総務部長鍛冶忠一君がいて、百万部は買う、しかし定価五十銭では困る、一円にせよという。
原価計算をして見て、五十銭で売って儲かるものを、いくら何でも一円ということはないと頑張り、話合いの上八十銭に妥協して、いやいや値上げしたのだった。
 いよいよ発売となると、註文は殺到して本が間に合わない。
大日本印刷の輪転機を1週間動員して、刷りも刷ったり三百万部、それでいて地方には間に合わない。
しかも、当時はいろいろな事情から、地方への輸送が困難だったので、親しい友人の星野書店と、京都の博省堂の二店に紙型を作って送った。
二店とも二十万部前後は売っている。
この外、川越市と宇都宮市の二ヵ所でも各々十万ずつ印刷して、販売したから、総部数は360万部にも達している。
恐らく終戦直後におけるというよりも空前の発行部数のレコードであり、百年先は分らないが、先ず四、五十年までは絶後であろう。
今考えて見ても愉快な思出である。
…後略…
(『復刻版 日米會話手帳』誠文堂新光社編 2021年)

進駐軍 その1 (1945年)」(NHKアーカイブス)

進駐軍 その2(1945年)」(NHKアーカイブス)