2023年3月27日月曜日

ヒンヤリしているけど

降り続いた雨も止んでくれて今日は、全国的に晴れ間が広がるそうです。
黄色いタンポポが咲き出したと思っていると
シロバナタンポポが咲いていました。
こちらの公園で初めてシロバナタンポポに出会いました。
それまではタンポポは黄色い花だと思っていました(^^ゞ

白いタンポポを探そう」(島根県 平成19年4月8日)
3月27日 天保8年(1837.5.1) 〔忌〕大塩平八郎(おおしおへいはちろう)(45、大坂町奉行所与力)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

2018年6月14日に大塩家の菩提寺成正寺を訪ねました。
大塩平八郎が挙兵した背景について
第5章 内憂外患の時代と復興意欲
 3 天保の改革
 天保の内憂


 1830(天保元)年、沈殿した不安の気分が、お蔭参(かげまい)りの伊勢群参となって噴き出た。
1822年には初めてコレラが広がり、天然痘や流行性感冒なども流行するようになった。
伊勢神宮への群参は、過去にも起こったが、30年には農商工の奉公人の抜参(ぬけまい)りをふくめ約428万人が御蔭年(おかげどし)を願って宮川(みやがわ)の渡船場を渡ったという。
街道筋では、柄杓(ひしゃく)を手にした参宮者に施行(せぎょう)が行なわれた。
また、局地的なお蔭踊りが減免(げんめん)を求めることもあった。
(『日本の歴史6 江戸時代』深谷克己 岩波ジュニア新書336 2000年)
 1833(天保4)年の春から夏にかけて、東北・北関東は冷害から凶作になった。
江戸や各地の城下町では御救小屋(おすくいごや)を設けて救済に努めたが、餓死者や病人があふれた。
34、5年は好天だったが生産が回復せず、36(天保7)年にまた冷害から大凶作となった。
都市の購買力が減退したため、特産物生産地では高米価と収入源の二重の打撃を受けた。
各地に打ちこわしが続発し、中でも甲州騒動や三河加茂(かも)一揆は世人の注目を引いた。
 甲州の郡内地方は山がちで、住民は郡内絹の賃織(ちんおり)で暮らし、米穀は甲府盆地の国中(くになか)から買った。
しかし飢饉で米価が上がり織物が下がって苦しむ住民が増えた。
国中(くになか)の米屋は、江戸廻米令に乗じて米の買いだめと郡内への穀留(こくどめ)を行なった。
郡内住民は交渉や嘆願を繰り返したあげく、米の強借(ごうが)りを計画し、下和田(しもわだ)村の武七(ぶしち)、犬目宿(いぬめじゅく)の兵助(ひょうすけ)らを頭取に選んだ。
 一揆勢が笹子峠(ささごとうげ)を越えて国中に入ると、多数の貧農・日雇(ひやと)い・無宿(むしゅく)が加わり、行動が打ちこわし中心になった。
郡内勢はこれに反発して引きあげた。
国中の勢力は、甲府勤番や代官所役人らと渡り合って、米穀商・質屋・酒屋・太物(ふともの)屋・豪農宅の打ちこわしを続けた。
国中の村々は、「暴力」化した打ちこわし勢を百姓一揆から逸脱した「悪党」とみなしはじめ、村を守る自衛の「暴力」を発動することも辞さなくなった。
打ちこわしには数万が参加し、信州境にまで及んだ。
甲斐国は公儀御料(こうぎごりょう)だったが、信州高島(たかしま)・高遠(たかとう)藩、駿州沼津(すんしゅうぬまづ)藩からの出兵で抑え込まれた。
この騒動は、江戸の読売(よみうり<瓦版>)で各地に伝えられた。
 米価が高騰した大坂では、飢餓による死者が続出した。
元大坂町奉行与力(よりき)で陽明学者(ようめいがくしゃ)だった大塩平八郎(おおしおへいはちろう)は、救済策を上申したが拒(こば)まれた。
大坂東町奉行跡部山城守(あとべやましろのかみ)は、新将軍の宣下(せんげ)儀式の費用のために江戸廻米の命令を受けていた。
豪商も救恤(きゅうじゅつ)に熱意がなかった。
大塩は、彼らを誅伐(ちゅうばつ)して隠匿(いんとく)米金を窮民に与えるため、挙兵を決意した。
37年2月、大塩は公儀を批判する檄文(げきぶん)を飛ばし、「救民(きゅうみん)」の旗印を掲げて、私塾「洗心洞(せんしんどう)」に集(つど)う門弟二十数名とともに、自邸に火を放ち、豪商が軒を並べる船場(せんば)へ繰り出した。
一党は三百人ほどになっていたが、鎮圧勢と小競(こぜ)り合(あ)いの市街戦を繰り返して、その日のうちに四散した。
兵火は翌夜まで燃え、大坂の五分の一を焼いた。
「大坂残党」を名のる越後柏崎(かしわざき)の生田万(いくたよろず)の乱、備後三原(みはら)の一揆、摂津能勢(のせ)の山田屋大助(やまだやだいすけ)の騒動などの連鎖反応が起こった。
 水戸藩主徳川斉昭(なりあき)は、「下々(しもじも)」が「上(かみ)」を怨むだけでなく「恐れざる」ようになり、「参州(さんしゅう)・甲州(こうしゅう)の百姓、一揆徒党を結び又は大坂の奸賊(かんぞく)」などの内憂となり、それと「夷賊(いぞく)」が日本を狙(ねら)う外患とが結びつく怖れを警告した(戊戌封事<ぼじゅつふうじ>)。
(『日本の歴史6 江戸時代』深谷克己 岩波ジュニア新書336 2000年)

第20話 大塩平八郎(1793-1837年)」(なにわ大坂をつくった100人)
 「ごんごろ鐘」つづき

 三月二十三日
 ひるまへ、南道班子供常会(みなみみちはんこどもじやうくわい)をするために尼寺へいつた。
 いつも常会をひらくまへに、境内をみんなで掃除することになつてゐるのだが、けふは僕はひとつみんなの気のつかないところをしてやらうと、御堂の裏へまはつて、藪と御堂の間のしめつた落葉をはいた。
裏へまはつていいことをしたと思つた。
それは僕の好きな白椿が咲いてゐるのを見つけたからだ。
(『校定 新美南吉全集 第二巻』大日本図書株式会社 1980年)
 何といふよい花だらう。
白い花べんがふかぶかとかさなりあひ、花べんの影がべつの花べんにうつつて、ちよつとクリーム色に見える。
神さまも、この花をつつむには、特別上等の澄んだやはらかな春光をつかつていらつしやるとしか思へない。
そのうへ、またこの木の葉がすばらしい。
一枚一枚名工がのみで彫つてつけたやうな、厚い固い感じで、黒と思へるほどの濃緑色は、エナメルをぬつたやうにつややかで、陽のあたる方の葉は眼に痛いくらゐ光を反射するのだ。
 じつにすばらしい花が日本にはあるものだ。
いつかお父さんが、日本ほど自然の美にめぐまれてゐる国はないとおつしやつたが、ほんとうにさうだと思ふ。
 掃除が終つて、いよいよ第二十回常会を開かうとしてゐると、きこりのやうな男の人が、顔の長い、耳の大きい爺さんを乳母車にのせて、尼寺の境内にはいつて来た。
 きけばその爺さんは深谷の人で、ごんごろ鐘がこんど献納されるときいて、お別れに来たのださうだ。
乳母車をおして来たのは爺さんの息子さんだつた。
 深谷といふのは僕たちの村から、三粁(キロ)ほど南の山の中にある小さな谷で、僕たちは秋きのことりに行つて、のどがかはくと、水を貰ひに立寄るから、よく知つてゐるが、家が四軒あるきりだ。
電燈がないので、今でも夜はランプをともすのだ。
その近所には今でも狐や狸がゐるさうで、冬の夜など、人が便所にゆくため戸外に出るときには、戸をあけるまへに、まづ丸太をうちあはせたり、柱を竹でたたいたりして、戸口に来てゐる狐や狸を追ふのださうだ。
 お爺さんは、ごんごろ鐘の出征の日を、一日まちがへてしまつて、つひにごんごろ鐘にお別れが出来なかつたことを、たいへん残念がり、口を大きくあけたまま、鐘のなくなつた鐘楼の方を見てゐた。
「きのふ、お別れだといつて、あげん子供たちが、ごんごん鳴らしたが、わからなかつただかね。」
と庵主さんも気の毒さうにいふと、
「ああ、この頃は耳の聞える日と聞えぬ日があつてのオ。きんのは朝から耳ん中で蠅が一匹ぶんぶんいつてやがつて、いつかう聞えんだつた。」
と、お爺さんは答へるのだつた。
 お爺さんは息子さんに、町までつれていつて鐘に一目あはせてくれ、と頼んだが、息子さんは、仕事をしなきやならないからもうごめんだ、といつて、お爺さんののつた乳母車をおして、門を出ていつた。
 僕たちは、しばらく、塀の外をきゆろきゆろと鳴つてゆく乳母車の音をきいてゐた。
僕はお爺さんの心を思ひやつて、深く同情せずにはゐられなかつた。
…つづく…
(『校定 新美南吉全集 第二巻』大日本図書株式会社 1980年)
今朝の父の一枚です(^^)/

✤3月末~4月頃
【視】お花見
 ソメイヨシノの花見は全国津々浦々で盛り上がるが、吉野はヤマザクラ、京都・醍醐寺(だいごじ)はシダレザクラと花見にもさまざまな桜の種類が。

 春がやってきて、幻想的な花の風景に会えると思うと、ついそわそわしてしまう人も多いのではないでしょうか。
 墨堤(ぼくてい<隅田川の両岸>)に上野、千鳥ヶ淵(ちどりがふち)に井の頭(いのかしら)公園。
東京ではどのお花見スポットも、ソメイヨシノのピンク色の花で埋め尽くされます。
 びっしりと群がるようにして咲く花たち。
一斉に散っていくはかなさ。
桜の幹の深い黒と、ピンク色の花のコントラストがまた、美しい。
 「花見」に対して、私はそんなイメージを持っていました。
東京生まれ東京育ちの私にとって、サクラといえばソメイヨシノなのです。
…つづく…
(『年中行事を五感で味わう』山下柚実 岩波ジュニア新書 2009年)