2023年3月9日木曜日

一日こないと

今朝も暖かい!
遠くからでも淡いピンク色が見える
昨日から咲いているのかな?
アンズの花が咲き出しました。
ミモザ(ギンヨウアカシア)も咲いていて春が一気にやってきたような…

広範囲で気温上昇 最高気温5月並みか 西日本中心大気不安定も」(NHK)
今日から「おしゃべりな古典教室」で放送されているのが「方丈記」。
聞き逃し配信で聞くことができます。
小学3年生だった木ノ下裕一さんが阪神淡路大震災で
ボランティア活動した時のエピソードが素敵でした。

第4章 人間を取り巻く環境
 火山噴火と地震


 気象災害だけではない。
江戸時代には火山活動の被害も多かった。
理科年表』には34の火山で、175回の噴火のあったことが記録されている。
 まず、天明3年(1783)4月に始まった信州・上州国境の浅間山の噴火をみよう。
初めは、いわゆる「浅間焼け」で噴き出した大量の軽石や火山灰が、周辺の宿場や農村に被害をもたらした。
さらに7月の大爆発で、火砕流と火山泥流がふもとの鎌原(かんばら)村を襲い、村ごと埋め尽くしてしまった。
この時に噴出した溶岩流が形成したのが、いま鬼押出(おにおしだ)しと呼ばれている地形である。
浅間山の噴火は関東一帯に降灰をもたらし、江戸は「天闇(くら)く夜の如」き様子であったという。
それに加えて噴出物は、微細なエアロゾルとなって偏西風に乗り、世界中の空に拡がった。
このとき、長時間にわたり大気中に留まった噴出物によって日射が妨げられたことは、当時の日本の寒冷化をいっそう進めることになった。
その結果、天明飢饉の一因ともなったのである。
(『文明としての江戸システム 日本歴史19』鬼頭宏 講談社学術文庫 2010年)
 江戸時代に起こった火山噴火の中でも、寛政4年(1792)の雲仙普賢岳(うんぜんふげんだけ)の噴火は最大級の被害をもたらした。
平成2~7年(1990~95)の大噴火の際と同様、この寛政の噴火でも、大量の溶岩流が発生し、それが被害を大きくした。
前年からのたび重なる地震によって山崩れが起きていたところに、4月1日、マグニチュード6.4もの強烈な地震が襲い、火山泥流が有明海に流れ込んだのである。
これによる噴火津波は、対岸の肥後領にも大きな被害を及ぼした。
死者は島原側で1万人、肥後側で5千人にのぼったという。
流出家屋はそれぞれ3千3百戸と2千6百戸、被災田畑は4平方キロメートルと22平方キロメートル、損失船数は6百隻と千百隻であった。
この噴火災害のすさまじさは、「島原大変(しまばらたいへん)肥後迷惑(ひごめいわく)」ということばとともに今も語り伝えられている。
 一方、地震についてみてみると、宝永4年(1707)の地震の時には東海道・伊勢湾・紀伊半島を中心に五畿七道が被災し、死者は2万人以上に及んだとされる。
この時はまた富士山も大噴火を起こし、その灰が雪のように降り積もったことは、新井白石の『折(おり)たく柴(しば)の記(き)』にも記したとおりである。
 下って、安政期には大規模地震が集中した。
とりわけ安政元年(1854)11月4日、5日と、たてつづけに襲った地震は大きかった。
前者は安政東海地震と呼ばれ、被害は関東から近畿へと広がり、死者2千~3千人を出した。
後者は安政南海地震と呼ばれ、近畿・南海道を中心に東海から九州までの広域で、死者数千人にものぼる大きな被害をもたらした。
 エネルギー規模は以上の三つの地震に及ばないものの、大きな被害を出した地震も多い。
たとえば安政2年(1855)10が2日の江戸地震では、下町を中心にあちこちで火事が発生し、死者は7千~1万人といわれる。
 この安政江戸地震の莫大な被害に直面した幕府は、伝統的な救助方法として御救(おすくい)小屋を設置して被災者を収容し、野宿者には握り飯の炊き出しをおこない、江戸市民に御救米を支給した。
富裕な町人・寺院・武家らも、物品や貨幣による施行(せぎょう)をおこなっている。
これらの行為は、災いの一方で世間に利益をもたらし「人々に世直りをかりそめにも感得せしめたもの」であったという(北原糸子『安政大地震と民衆』三一書房、1983年)。
大飢饉が社会構造に打撃的な影響を与えたのに対して、突発的な地震は瞬時に多くの損害をもたらしたものの、被害は死亡者・負傷者、構造物の崩壊など可視的な範囲に留まった。
社会の変革を迫るような、直接的・攻撃的動きは生まなかったのである。
 安政江戸地震については、幕末になって庶民の間にも瓦版(かわらばん)や種々の見聞記を通して全国各地に伝えられた。
瓦版は地震発生の二日後の10月4日に「地震火事方角づけ」というものが売られていたという。
地震で崩壊したり、火災で炎上した場所を示したものであった。
これらの瓦版は、出稼ぎ者の国元への報告にもなったし、江戸在住者が互いに安否を知る情報として役立ったであろう。
しばらく時間をおいて、より詳細なルポルタージュ、『安政見聞誌』(安政3年4月刊行と推定)やその類書である『安政見聞録』(安政3年6月刊行)が出版された。
前者は、仮名垣魯文(かながきろぶん)と二世一筆庵英寿(いっぴつあんえいじゅ)の作であるが、発禁処分を受けている。
もっともその理由は、内容が問題にされたわけではなく、検閲を受けないで出版した「無改」が理由であったという。
 災害の社会的要因

 地震と火山噴火は、日本列島が太平洋プレートがユーラシアプレートの下に潜り込む、新期造山帯に属しているという地質学的な条件がある以上、日本社会の宿命であった。
梅雨と台風が洪水をもたらすことも、モンスーン地帯に位置するという気象学的条件からくる宿命である。
しかしそれはあくまでも自然現象であり、災害ではない。
これまでみてきたような江戸時代の災害には、社会のあり方に起因する面があることを忘れてはならない。
 たとえば、人口増加と耕地開発により生活圏が拡大したことは大きい。
水害にあいやすい低地や、反対に山崩れの危険がある山地へも人々は進出した。
それだけ自然災害をうける機会はふえたわけである。
つまり、2節でみたような「列島改造」が、江戸の社会を発展させるとともに弊害ももたらしてきたのである。
 また、次節でみるように、都市化が進み、人口が密集するのにともない、地震や火事などの被害が大きくなる。
開発と都市化による災害規模の拡大という点は、近代社会とも共通する問題といえよう。
 さらに、江戸社会の政治制度と諸藩の政策もまた、災害による被害を大きくする要因があった。
寛政の改革をおこなった松平定信(まつだいらさだのぶ)がのちに著した回顧録『宇下人言(うげのひとごと)』は、天明飢饉について触れている。

  こぞ(天明四年)仙台にて餓死したる人、四十万にみてり。津軽も二三十万人死せり。その余右のごとし。
  予が領国は死せるものなしといへり。されと餓死せざれども、食物あしくて死せるものはありけんかと思へば、いまも物くるし。

 天明3年(1783)の凶作では仙台藩や津軽藩では、数十万の死者を出す大惨事になった。
しかし定信の白河藩では一人の餓死者も出さなかったというのである。
 このほかの箇所の記述も含めて、この回顧録から推察されるのは、凶作には同じ地方であっても地形などの違いから、地域差があったということ、日頃の備えが飢餓の有無を左右したということである。
とくに留意したいのは、隣接地域の飢餓に対して救援措置が取られなかった点である。
そこには、幕藩制によって統治領域が分断されていたことの弊害がみられるのである。
(『文明としての江戸システム 日本歴史19』鬼頭宏 講談社学術文庫 2010年)