暖かいというよりも暑かった…
出ているよと教えてもらって探したら見つけました(^^)v
「飛び出す胞子 ツクシの秘密」(ミクロワールド)1945年3月9日から10日にかけて「東京大空襲」(中学)がありました。
第4章 炎の夜・3月10日
私が見たもの
私たち一家は、家を捨てて避難することになった。
長年住みなれたわが家だから、なんとかして守りぬきたかったし、それに空襲下にみだりに荷物を持ち出したり逃げたりした場合には、法的に罰を受けるということを知らないわけではなかったが、父がいうとおり、だれがどう見ても消せるような火ではなかった。
ぐずぐずしていればむし焼きか、黒こげになるだけだ。
一台のリヤカーに、生活必需品と家具の一部を山盛りくくりつけた。
とうてい乗せきれるものではない。
それに、なにをどう選んでという時間のゆとりもなかったから、手あたりしだいだった。
(『東京が燃えた日 戦争と中学生』早乙女勝元 岩波ジュニア新書 1979年) 「さ、行くぞ」
父がカジ棒をにぎり、そのあとを母と私とが押して、大荷物をしょった姉が横にしたがい、路地から改正道路へと走り出たが、そこからあと私たちがどのような道すじをたどってどう逃げのびたかは、8年ほど前の拙著『東京大空襲―昭和20年3月10日の記録』(岩波新書)に、くわしく書いた。
重複をさけて、ここでは、12歳の私の目にうつった〝あのとき〟の光景と印象だけをしるすにとどめたいと思う。
不思議なことだが、私はおなじ現場で行動をともにした母や姉よりも、より鮮明な記憶を今に残している。
おそらく大人たちは、生きれば生きたでどう生活するかで懸命だったのだ。
その生活の重荷をしょっていなかった私は、少年の目で、一眼レフでとらえたカラー写真のように、3月10日のさまざまな印象を、心に焼きつけることになったのである。 その一。
私たちがリヤカーごと改正道路(水戸街道)に出ると、通りは避難する人びとでごったがえしていた。
自分たちだけ逃げおくれたかと心配だったが、そうではなかったのを知って安心した。
いろいろな人がいた。
ふとんを頭からひっかぶって、小さな子どもの手を引いていく人もいれば、大八車(だいはちぐるま)に漬物だるまで乗せて、その積み荷がくずれて烈風にさらわれる人もおり、自転車にリヤカーに乳母車に、トランクに柳行李(やなぎごおり)にリュックサックに、道はばいっぱいの家財道具と荷物が、火炎に照らされて急速に流れいく。
みな、一様に走っていた。
時に悲鳴があちこちではじけたが、そのほかは強風にふき飛ばされてしまうのか、ほとんど耳に残らなかった。
人びとを追いたてるようにして、北風が黒い塊のようにどっと襲ってくると、だれの手から離れたのか、鍋、釜、バケツ、鉄カブトなどがすさまじい勢いで路上をカラカラと回転していった。
とっさにひろおうと手をのばしたが、一個のバケツはたちまち人波にすいこまれて消えてしまった。 その二。
焼けただれた上空を群れとぶ敵機は、これがかつて高度1万メートルを白魚のよう美しくやってきたとおなじB29か、と疑うばかりにでかく、しかも残虐そのものだった。
頭上にのしかかるほど大きく見えたのは超低空のためだが、翼も胴体もぎらぎらと真紅にあやしく映(は)えていたのは、地上の火災を乱反射してだろう。
それが火炎と黒煙の裂け目からいきなり目の前に登場し、かたわらの電柱すれすれに突っこんできた。
弾倉が開くのは、たいていその時である。
両の翼をいっぱいにはって、ぐゎーんと機首をそりあげていくとき、防風ガラスの操縦席と、前下部機関砲塔までくっきりと見えた。
あっと思った瞬間に、何十台何百台のジャリトラックが、いっせいに荷をぶちまけたような怪音。
また本能的に目を上げると、朱色に染まったB29は、牛の霜降り肉にもにた赤黒い火炎の中へ消えていた。
これが連続波状的にくりかえされ、つぎつぎにあらたな敵機が、逃げまどう群衆とまだ黒ずんで残っている家並みを目ざして、執拗(しつよう)に襲いかかってくるのだ。
私の目には、焦熱地獄(しょうねつじごく)に照り返されたB29の姿が、血のしたたるような不気味さでうつり、とうてい人間わざとは思えなかった。 その三。
火炎のとどろきの中からサイレンが狂気のようにひびいて、一台の消防自動車がやってきた。
タイヤが地につかぬほどの勢いだった。
「どけどけ!」
消防隊の怒号がとび散って、大八車もリヤカーも道のわきにへばりついた瞬間、二つのライトを光らせた自動車は、私の肩すれすれのところを突きぬけていった。
とたんに、前を走っていただれかが倒れた。
バンパーにでもはね飛ばされたか。
その人は起きあがって、またよろよろと走っていった。
「消防車は、火を消してくれるのかね」
だれかがいった。
すると、答があった。
「なにも人をはねて行かんでも。急いでいくにしちゃ、いくところが多すぎてね」
そういったのは父か。父かどうかは、はっきりしない。 その四。
改正道路を避難する群衆の中に、一列にならんで、一本のロープにすがって行く一団があった。
命綱(いのちづな)である。
ロープの先端をにぎって、赤子を背におぶい、鉄カブトの顔を前かがみにして走っていくのは、かなり長身の男だった。
黒っぽい刺子(さしこ)つきの外套をまとい、その後ろに女、子どもたちが続く。
みな掛け声かけて、一匹のムカデのように走っていく。
総勢十二、三人くらいだろう。
私たちのリヤカーの横を、前になったりうしろになったりしながら、おなじ方角へとむかっていた。
なるほど、これならば、だれか一人だけはぐれるということもないから、生きるも死ぬも一緒だろう。
しかし、背に両手に、それぞれ大荷物を背負い、手にしているのは、心配だった。
から身なら気持を一つに、一匹のムカデにもなれようが、先頭がつまずきでもしたら将棋倒しになりそうな。
現に女の子の片手の荷がほどけて、風呂敷包みを引きずりながら走っていく。 その五。
通りのまんなかに、なにやら黒くてよく光るものがほうり出してある。
茶だんすかと思ったら、アップライトのピアノだった。
黒塗りの蓋(ふた)もペダルも、きらきらと光っていたから新品か、さもなければかなりのぜいたく品だろう。
だれが、どこから持ち出してきたのか知らないが、一人で動かせるはずがない。
どうやって、ここまで運んできたのだろう。
いざというときにピアノを救い出そうとした発想にもおどろくが、その人は、家が焼けてしまったら、ピアノ一つかかえて、どうするつもりだったのか。
今でも疑問に思うが、私たちは、そこに気をとてめているゆとりはなかった。 その六。
すさまじい火の粉だった。
リヤカーのうしろにしがみついていくだけでせいいっぱいだったから、のんびりと空を振りあおぐゆとりもなかったが、そのリヤカーが曳舟川(ひきふねがわ)を越えたときに、鶴土手橋の上から、水面に映るすさまじい火の粉の流れを見た。
川幅いっぱいに、砂金を撒(ま)いたように、火の粉が渡っていく。
私たちの背後からどうどうと押しよせてきて、私たちよりも速く、前方の暗がりへと流れてゆく。
火の粉も火炎に追われてきたのか、それとも火炎の手先となって、私たちの逃げ場所を先にふさぐつもりなのか。
「おっそろしい風だね。風に火がつくみたいな」
母が、絶望的な口調でいう。
「もうついているわよ。火の粉が、あんなに空を……」
「ああ、まるで、ふいごのようじゃないか」
「あの火が、人や荷物にひっついたら大変よ、かあちゃん」
姉の不安はあたっていた。
最初は中天高く、天の川のように流れていた火の粉が、すぐ頭上を高く低く舞いはじめたのだ。 その七。
やがてまもなく、目も口もうかつに開けていられぬ状態になった。
大小無数の火の粉が、きりきりと回転しながら、うなりを上げて突きささってっくる。
それを軍手ではたき落し、足で蹴ちらしながら走るよろほかにない。
なかでもおそろしいのは、真っ赤に灼(や)けたトタン板だった。
金属的なうなりとともに、目の中にささりこんでくる。
はっと気づいて首をすくめれば、ぐさり、かたわらの立木の幹につきささった。
これを、首すじにでも受けたらたまらない。
真っ赤に焼けた凶器だ。
凶器はつぎつぎと、ツバメみたいに風を切ってくるのだった。
直撃弾は落下音でおおよその見当がつくが、焼けトタンの不意討ちくらい、おそろしいものはない。 その八。
火炎が家から家を突きぬけてゆく速度と音響は、この世のものとは思えぬほどの速さで、ものすごかった。
火は空中に燃え上がるのではなくて、地上を水平にはしってゆく。
火炎が窓からふき出て、つぎの家に跳躍したと思ったときには、ガラガラと柱がくずれ、天井と屋根とが燃えながら崩れ落ちる。
向い側の銭湯の裏口からなだれこんだ火は、その全部の窓から赤い舌をのぞかせ、一本煙突が身もだえするようにゆれて見えた瞬間には、屋根がかたむき、おびただしい瓦(かわら)がなだれのように四散した。
突風は、その瓦さえも空中高く舞いあげる。
と、たちまち、右隣りの家の物干台が、ぐらぐらと関節がはずれ、一本ずつの火柱となって、烈風の中を泳いでいく。
ふと見上げた空は、それら巨大な火の粉の急流だった。 その九。
突如一機のB29が、赤紫の火炎の裂け目からあらわれた。
とみるまに、なにやら、無数の光のかけらが……
「ふせろ!」
だれかが、さけんだ。
その声より早く、私は本能的に身をちぢめた。
あ、落ちてくる!
と、ただそれだけを思った。
落下音の中心点から、夢中で走って逃れた。
地上にふせて防禦姿勢をとるほどのゆとりはなかった。
かろうじて、目を閉じただけだった。
短い炸裂音(さくれつおん)とともに、閉じた瞼(まぶた)に光箭(こうせん)がつらぬいた。
すぐ反射的に目を開いた。
秒、という時間だったろう。
ほんのまばたき一つするほどの間に、あたりの光景は一変していた。 その一〇。
視界いっぱいに、光のかけらが……。
火炎が垂直に天と地を結んでいるのは、目と鼻の先の電柱が、猛然と火を噴(ふ)いて いるのだと知れた。
電柱にも、焼夷弾の一発が突きささったのだ。
焼夷弾は加速度をつけて落下してくるから、ななめに風を切ってくる。
鉄の豪雨が降りそそいだのだ。
しかし、火炎の柱は、電柱だけではなかった。
だれか、歩道のきわに火の塊となって、両手両足を振りながらコマのようにまわっている。
断末魔(だんまつま)の人は、火をふりきろうと必死にもがいて暴れる。
回転しているように見える。
めらめらシュウシュウというすさまじい響きは、焼夷弾の飛沫(しぶき)を全面にあびて燃焼するそれだった。
奇跡的に助かった幼女が、燃える人の横に棒立ちになっている。
赤い色の防空頭巾をかぶっていた。
四、五歳くらいに見えたが、それ以上のことはわからない。
見たといっても、ほんの一瞬間で、さえぎられてしまった。
黒煙が地上ひくくはいずって流れ、そこここに赤い火炎が生きもののようにうごめき、のたうちまわっている。
(『東京が燃えた日 戦争と中学生』早乙女勝元 岩波ジュニア新書 1979年)今朝の父の一枚です(^^)/
シジュウカラが朝ご飯を探しています。
今朝の散歩で声が聞えてきたのけど、姿を確認できなかったのが
はじめに
スズメのチュンチュン、ハシブトガラスのカーカー、キジバトのデデポーポー、トビのピーヒョロロ、そしてウグイスのホーホケキョ。
だれもが毎日、なにげなく鳥の声を耳にしていると思います。
実は、鳥ほどよく鳴く生き物はいないのです。
鳥たちは、なぜ鳴いているのでしょうか?
私たち人間は、言葉を使ってコミュニケーションをとります。
「こんにちは」「今、どこ?」
「そっちへ行くと危ないよ」「近寄るなよ!」
「大好き!」「結婚しようよ」
同じように、鳥たちも鳴き声でおたがいに気持ちを表したり、コミュニケーションをとったりしているのです。
この本では、たくさんいる鳥のなかから、ウグイスの「ホーホケキョ」というおなじみの鳴き声をとり上げました。
意味や効果、声の出し方、いつから鳴いていつ鳴きやむのか、地域によるちがいは……。
さまざまな角度から科学的に見ることで、ウグイスの習性だけではなく、鳥という生き物の生き方まで広く紹介していきます。
ウグイスを選んだのは「ホーホケキョ」という声がとても身近で、ほとんどの人が聞いたことのある鳴き声だからです。
日本中どこにでもいて、長い間さえずる鳥なので、声を聞く機会が多いのです。
だからこそウグイスは古くから日本の文化や芸術に影響を与えてきました。
日本人が「ホーホケキョ」をどう聞き、どう親しんだかを考えると、日本人の自然観や感性についてわかっておもしろいと思います。
この本を読んでから外から聞こえる鳥の声に耳を傾けると、今までとはちがう耳で、鳥たちの生活の様子が感じられるはずです。
鳥の声を知ることで見える世界が変わり、いろいろなことに興味をもつきっかけとなってくれたら、うれしく思います。
(『鳥はなぜ鳴く? ―ホーホケキョの科学―』松田道生・著、中村文・絵 理論社 2019年)午後から心臓リハビリでした。
待っている間に読んでいたのが『四季の地球科学―日本列島の時空を歩く』
読んでいて、だいぶ前になりますが父が津波と間違えたことを書いたことがあります。
田舎で砂浜にいると、膝位の波が押し寄せてきて、波に引っぱられそうになったことや
ブタ小屋のブタが沖に流されそうになったのを目撃したそうです。
それは津波ではなく
大潮、小潮
…前略…
ところで、潮汐(ちょうせき)や津波によらないで、海面の高さが変動する現象があります。
海洋副振動という現象で、九州や奄美諸島でよく発生し、「アビキ」と呼ばれています。
周期は数十分程度で、振幅が1メートルを超えることもあります。
これは、津波だと津波注意報が出るほどの高さで、浸水や係留索が切れるなどの被害が発生することもあるそうです。
(『四季の地球科学―日本列島の時空を歩く』尾池和夫 岩波新書 2012年)
〝「あびき」って知っていますか?〟(福岡管区気象台)