2023年3月25日土曜日

花冷えになるのかな?

冷たい風が吹いていて季節が逆戻りしたような花冷えのような朝でした。
そんな中でもライラック(リラ)の花がポツンと咲いていました。
北海道では5月下旬ころに寒さが戻ることをリラ冷えというそうです。

北海道の「リラ冷え」、本州の「花冷え」と同じ?〟(NHK放送文化研究所)
受胎告知日(3月25日)

 …前略…

 ナザレのおとめマリアが、天使ガブリエルから、救い主の母になると告げられたことを記念する東西教会の祭日。
12月25日のクリスマスからちょうど九ヵ月さかのぼった日に設定されている。
神のお告げとか聖マリアへのお告げの日ともとも呼ばれ、正教会では十二大祭のひとつ生神女福音祭として祝う。
かつてカトリックでは聖マリアの御告(おつげ)の大祝日、聖公会では處女(おとめ)マリア蒙告日(もうこくじつ<お告げを蒙(こうむ)る日>)と呼んでいた。
中華圏では預報救主降生節、童貞女馬利亞聞報日、聖馬利亞聞報日などともいう。
福音書では、ルカ伝およびマタイ伝のみに記述が見られる。
(『キリスト教の歳時記 知っておきたい教会の文化』八木谷涼子 講談社学術文庫 2016年)
 ルカ伝第1章によると、マリアの前に天使ガブリエルが現れて、こう言った。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」
 身ごもって男の子を産むと告げられたマリアは、ヨセフといういいなずけをもつ身だったが、まだ男性を知らなかった。
とまどう彼女にガブリエルは告げる。
「聖霊があなたに降(くだ)り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生れる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」
 マリアは応える。
「私は主のはしためです、お言葉どおり、この身に成りますように」
 こうして、ただの人間だったマリアが神への完全な信頼と謙遜を示したことにより、イエスが誕生することになる。
この受胎告知(お告げのマリア)の場面は、フラ・アンジェリコやレオナルド・ダ・ヴィンチなど、名だたる芸術家の作品の題材となっている。
なお、このときエリサベトが身ごもっていたのが洗礼者ヨハネで、三ヵ月後の6月24日にヨハネの誕生を記念する。
 東方ではじめてこの祝日が守られたのは6世紀のことで、西方では8世紀まにで全地域で祝われるようになった。
日曜日にかかった場合は翌日に、また聖週間から復活の主日の週の2週間にかかった場合は、復活節第二主日の翌月曜日に祝うことになっている。
 レバノンでは法定休日。
イングランド、北アイルランドでは四季支払日。
前日の3月24日を、大天使聖ガブリエルの祝日とする教会もある。
(『キリスト教の歳時記 知っておきたい教会の文化』八木谷涼子 講談社学術文庫 2016年)
ベトナム人元技能実習生に逆転無罪判決 死産児遺棄の罪 最高裁」(NHK 3月25日)
ほんとうに良かったです!
最高裁で血の通った判決がでたと思いました。

熊本県の監理団体の関係者は、
「…国は、実習生をめぐる問題を根本的に見直さないと、海外の実習生から見放されることとなり、人手不足の業種は今後、立ちゆかなくなる可能性があることを意識すべきだと思う」
と語っていますが、日本で働くことの魅力がなくなっていると思う。
歴史を振り返ってみると
3月25日 大正15年(1926) 大審院、朴烈(ぼくれつ)・金子文子(かねこふみこ)に死刑宣告(4月5日、無期懲役に減刑。7月23日、金子自殺。7月29日、怪写真事件起る。朴烈事件)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

金子文子」(国立国会図書館)
無産階級の方向転換
 朝鮮人虐殺死体事件


 左翼運動は、こうした右翼からの攻撃や官憲の弾圧になやみながらも、新しい発展の可能性を見いだしていた。
そして、とくにこの時期に朝鮮人労働者との連帯の問題がとりあげられていたことは、注目に値する。
 そのきっかけとなったのは、信濃川(しなのがわ)の上流からつぎつぎに朝鮮人の虐殺死体が流れてくるという奇怪な事件であった。
日本の新聞では、大正11年7月29日付の『読売新聞』に報じられているが、それらの死体は、信濃川上流に信越電力株式会社が建設中の水力発電所工事の労働者とみられた。
この工事現場では1200名の労働者が使われていたが、その半数と朝鮮人といわれた。
鉱山や建設工事に監獄部屋とよばれた宿泊施設をつくり、労働者を拘束して奴隷的に働かせ、怠けたり逃げたりすると残忍なリンチを加えるというやり方は、世論の批判で減りつつあったが、こうした山奥などではまだのこっていた。
怪死体は、こうした監獄部屋の犠牲になった朝鮮人たちであった。
(『日本の歴史23 大正デモクラシー』今井清一 中公文庫 2006年改版)
 第1次大戦以後、内地に流入する朝鮮人労働者は激増していた。
産米増殖運動がすすめられるにつれて小作農がふえ、その苦しさにたえかねて職をもとめに内地へやってきたのである。
だがこの事件は、朝鮮人労働者が、人種的差別のもとに最下層の労働者にくみこまれ、非人間的な取扱いをうけていることを象徴的にしめしていた。
 朴烈らの朝鮮人は、さっそく9月7日に東京神田美土代町(みとしろちょう)のキリスト教青年会館で「信濃川虐殺問題大演説会」を開き、抗議の声をあげた。
この演説会は、入場料十銭をとったにもかかわらず、日本人500人、朝鮮人500人の聴衆が集まったが、演説は警官から「弁士中止」をくり返されたあげく、すぐに解散させられてしまった。
『前衛』もこの事件をとりあげて「日鮮労働者の団結」を訴え、「日本の労働運動が、鮮人労働者と固く手を握って、搾取者に対する共同の戦線を確立せぬ限りは、日本の資本家は鮮人労働者を利用して、労働運動の戦線を攪乱(かくらん)しようとするに相違ない」、朝鮮人労働者はわれわれの戦友であり、「鮮人労働者の一人に加えられた差別的の待遇と不法の迫害とは、吾々の全階級に加えられた侮辱と迫害とを意味している」と論じた。
 同じ大正11年12月1日には、大阪で朝鮮人労働者同盟会の創立大会が開かれ、西尾末広も出席していた。
総同盟も朝鮮人労働者の問題に目をむけはじめ、翌12年4月17日の中央委員会では「朝鮮人労働運動の調査及提携」、さらに8月25日、26日の中央委員会では、「植民地人民の無産階級運動の促進に努力する」という決議をおこなうまでになっていた。
 この方向は日本の労働運動にとって画期的なことであり、植民地支配の維持と拡大を望む支配階級全体にとって、もっともおそるべき萌芽であったにちがいない。
しかしこの貴重な芽は、すぐあとでおこってくる関東大震災を利用した逆襲によってつみとられてしまうのである。
(『日本の歴史23 大正デモクラシー』今井清一 中公文庫 2006年改版)
ごんごろ鐘」つづき

 ごんごろ鐘をおろすのは、庭師の安さんが、大きい庭石を動かすときに使ふ丸太や滑車(せみ)を使つてやつた。
若い人達が手伝つた。
(な)れないことだからだいぶん時間がかかつた。
 ごんごろ鐘はひとまづ鐘楼の下に新筵(にいむしろ)をしいて、そこにおろされた。
いつも下からばかり見てゐた鐘が、かうして横から見られるやうになると、何か別のもののやうな変な感じがした。
緑青(ろくしやう)がいつぱいついてゐる上に、頂の方には埃がつもつてゐるので、かなりきたなかつた。
庵主さんと、よく尼寺の世話をするお竹婆さんとが、縄をまるめてごしごしと洗つた。
(『校定 新美南吉全集 第二巻』大日本図書株式会社 1980年)
 すると今まではつきりしなかつた鐘の銘も、だいぶんはつきりして来た。
吉彦さんがちよつと読んで見て、
「こりや、お経だな。」
といつた。それからまた、
「安永何とか書いてあるぜ。こりや安永年間にできたもんだ。」
といつた。すると、どもりの勘太爺さんが、
「そ、そうだ。う、う、おれの親父(おやぢ)が、う、う、生れたとしにできた、げな。お、お、親父は安永の、う、う、うまれだ。」
とかみつくやうにいつた。
 紋次郎君とこの婆さんが、
「三河のごんごろといふ鐘師がつくつたと書いてねえかン。」
ときいた。
「そんなことは書いてねえ、助九郎といふ名が書いてある。」
と、吉彦さんが答へると、婆さんは何かぶつくさいつてひつこんだ。
 和太郎さんが牛車をひいて来たとき、きふに庵主さんが、鐘供養(かねくやう)をしたいといひ出した。
大人たちは、あまり時間がないし、もうみんなじふぶん別れを惜しんだのだから、鐘供養はしなくてもいいだらう、といつた。
しかし若い尼さんは、眼鏡をかけた顔に真剣な表情をうかべて、「いいえ、自分の体を溶かして、爆弾となつてしまふ鐘ですから、どうしても供養してやりたうござんす。」といつた。
 大人たちは、やれやれ、といつた顔つきをした。
みんな、庵主さんがしやうのない頑固者であることを知つてゐたからだ。
しかし庵主さんのいふことも道理であつた。
 鐘供養といふのは、どんなことをするのかと思つてゐたら、ごんごろ鐘の前に線香を立てて庵主さんがお経をあげることであつた。
庵主さんは、よそゆきの茶色のけさを着て、鐘のまへに立つと、手にもつてゐる小さな鉦をちーんとたたいて、お経を読みはじめた。
はじめはみんな黙つてきいてゐたが、少したいくつになつたので、お経を知つてゐる大人達は、庵主さんといつしよに唱へ出した。
何だか空気がしめつぽくなつた。
まるでお葬ひのやうな気がした。
年寄りたちはみなしわくちやの手を合はせた。
 鐘供養がすんで、庭師の安さんたちが、またごんごろ鐘を吊りあげると、その下へ和太郎さんが牛車をひきこんで、うまいぐあひに、牛車の上にのせた。
その時、黄色い蝶が一つごんごろ鐘をめぐつて、土塀の外へ消えていつた。
…つづく… 
(『校定 新美南吉全集 第二巻』大日本図書株式会社 1980年)