貴重な晴れ間でこれから天気は下り坂とか…先日紹介したでNHK俳句3月号「特集 先生の俳句」(岸本尚毅)に太宰治の「天狗」が紹介されていました。
天狗
暑い時に、ふいと思ひ出すのは猿蓑(さるみの)中にある「夏の月」である。
市中は物のにほひや夏の月 凡兆
いい句である。感覚の表現が正確である。
私は漁師まちを思ひ出す。
人によつては、神田神保町あたりを思ひ浮べたり、あるひは八丁堀の夜店などを思ひ出したり、それはさまざまであらうが、何を思ひ浮べたつてよい。
自分の過去の或る夏の一夜が、ありありとよみがへつて来るから不思議である。
(『太宰治全集 第十巻』筑摩書房 昭和52年)
猿蓑は、凡兆ひとり舞台だなんていふ人さへあるくらゐだが、まさか、それほどでもあるまいけれど、猿蓑の於いては凡兆の佳句が二つ三つ在るといふ事だけは、たしかなやうである。
「市中は物のにほひや夏の月」これくらゐの佳句を一生のうちに三つも作つたら、それだけで、その人は俳諧の名人として、歴史に残るかも知れない。
佳句といふものは少い。
こころみに夏の月の巻をしらべてみても、へんな句が、ずゐぶん多い。 市中は物のにほひや夏の月
芭蕉がそれにつづけて、
あつしあつしと門々(かどかど)の声
これが既に、へんである。所謂、つき過ぎてゐる。
前句の説明に堕してゐて、くどい。蛇足的な説明である。
たとへば、こんなものだ。
古池や蛙とびこむ水の音
音の聞えてなほ静かなり これ程ひどくもないけれども、とにかく蛇足的註釈に過ぎないといふ点では同罪である。
御師匠も、まづい附けかたをしたものだ。
つき過ぎてもいかん、ただ面影にして附くべし、なんていつも弟子たちに教へてゐる癖に御師匠自身も、こんな大失敗をやらかす。
附きも附いたり、べた附きだ。
凡兆の名句に、師匠が歴然と敗北してゐる。
手も足も出ないといふ情況だ。
あつしあつしと門々の声。
前句で既に、わかり切つてゐる事だ。
芸の無い事、おびただしい。それにつづけて、
二番草取りも果さず穂に出(いで)て
去来だ。苦笑を禁じ得ない。
さぞや苦労して作り出した句であらう。
去来は真面目な人である。しやれた人ではない。
けれども、野暮な人は、とにかく、しやれた事をしてみたがるものである。
器用、奇智にあこがれるのである。
野暮な人は、野暮のままの句を作るべきだ。
その時には、器用、奇智などの輩のとても及ばぬ立派な句が出来るものだ。
湖の水まさりけり五月雨さぞや苦労して作り出した句であらう。
去来は真面目な人である。しやれた人ではない。
けれども、野暮な人は、とにかく、しやれた事をしてみたがるものである。
器用、奇智にあこがれるのである。
野暮な人は、野暮のままの句を作るべきだ。
その時には、器用、奇智などの輩のとても及ばぬ立派な句が出来るものだ。
去来の傑作である。
このやうに真面目に、おつとりと作ると実にいいのだが、器用ぶつたりなんかして妙な工夫なんかすると、目もあてられぬ。
さんたんたるものである。
去来は、その悲惨に気がつかず、かへつてしたり顔などをしてゐるのだから、いよいよ手がつけられなくなる。
ただ、ただ、可愛いといふよりは他に無い。
芭蕉も、あきらめて、去来を一ばん愛した。
二番草取りも果さず穂に出て。
面白くない句だ。なんといふ事もない。
これでもずゐぶん工夫した句にちがひない。
ちよつとした趣向でせう?
取りも果さず、この言ひ廻しには苦労しました。
微妙なところですからね。
でも、まあ、これで、どうやら、ナンテ。
ただ、ただ、苦笑の他は無い。
何度も読んでゐるうちに、なんだか、恥づかしくなつて来る。
去来さん、どうかその「趣向」だけは、やめて下さい。 灰打(うち)たたくうるめ一枚
凡兆が、それに続ける。わるくない。
農夫の姿が眼前に浮かぶ。
けれども、少し気取りすぎて、きざなところがある。
ハイカラすぎる。芭蕉が続けて、
此筋は銀(かね)も見知らず不自由さよ
少し濁つてゐる。ごまかしてゐる。
私はこの句を、農夫の愚痴の呟きと解してゐる。
普通は、この句を、「田舎の人たちは銀も見知らずさぞ不自由な暮しであらう」といふ工合ひによその人が、田舎の人の暮しを傍観して述懐したもののやうに解してゐるやうだが、それだつたら、実に、つまらない句だ。
「此筋」も、いやみつたらしいし、「お金が無いから不自由だらう」といふ感想は、あまりにも当然すぎた話で、ほとんど無意味に近い。
「此筋」といふ言葉使ひには、多少、方言が加味されてゐるやうな気がする。
お百姓の言葉だ。
うるめの灰を打たたきながら「此筋は銀も見知らず不自由さよ」と、ちよつと自嘲を含めた愚痴をもらしてみたところではなからうか。
「此筋」といふのは、「此道筋と云はんが如し」と幸田博士も言つて居られたやうであるが、それならば、「此筋」は「おらのはう」といふやうな地理的な言葉になるが、私には、それよりも「おらたち」あるひは、「この程」「当節」といふやうな漠然たる軽い言葉のやうに思はれてならない。
いづれにせよ、いい句ではない。主観客観の別が、あきらかでない。
「雨がザアザアやかましく降つてゐたが私には気がつかなかつた」といふやうな馬鹿な文章に似てゐるところがある。
はつきり客観の句だとすると、あまりにもあたりまへ過ぎて呆れるばかりだし、村人の呟きとすると、少し生彩も出て来るけれど、するとまた前句に附き過ぎる。
このへん芭蕉も、凡兆にやられて、ちよつと厭気がさして来たのか、どうも気乗りがしないやうだ。
芭蕉は連句に於いて、わがままをする事がしばしばある。
まるで、投げてしまふ事がある。
浮かぬ気持になるのであらう。
それも知らずに、ただもう面白がつて下手な趣向をこらしてゐるのは去来である。去来は、それにつづけて、
ただどひやうしに長き脇指(わきざし)
見事なものだ。滅茶苦茶だ。
去来は、しすましたり、と内心ひとり、ほくほくだらうが、他の人は驚いたらう。
まさに奇想天外、暗闇から牛である。仕末に困る。
芭蕉も凡兆も、あとをつづけるのが、もう、いやになつたらう。
それとも知らず、去来ひとりは得意である。
草取りから一転して、長き脇指があらはれた。
着想の妙、仰天するばかりだ。
ぶちこはしである。破天荒である。
この一句があらはれたばかりに、あと、ダメになつた。
つづけ様が無いのである。
去来ひとりは意気天をつかんばかりの勢ひである。
これは、師の芭蕉の罪でもある。
あいまいに、思はせぶりの句を作るので、それに続ける去来も、いきほひ、こんな事になつてしまふのだ。
芭蕉には、少し意地悪いところもあるやうな気がして来る。
去来を、いぢめてゐる。
からかつてゐるやうにさへ見える。
此筋は銀も見知らず不自由さよ。
この句を渡されて、去来先生、大いにまごつき、けれども、うむと真面目にうなづき、ただどひやうしに長き脇指。
その間の両者の心理、目に見えるやうな気がする。
とにかく、この長脇指が出たので滅茶苦茶になつた。凡兆は笑ひを嚙み殺しながら、
草むらに蛙こはがる夕まぐれ
と附けた。あきらかに駄句である。
猿蓑の凡兆の句には一つの駄句もない、すべて佳句である、と言つてゐる人もあるが、そんな事は無い。
やつぱり、駄句のはうが多い。
佳句が、そんなに多かつたら、芭蕉も凡兆の弟子になつたであらう。
芭蕉だつて、名句が十あるかどうか、あやしいものだ。
俳句は、楽焼や墨流しに似てゐるところがあつて、人意のままにならぬところがあるものだ。
失敗作が百あつて、やつと一つの成功作が出来る。
出来たら、それもいいはうで、一つも出来ぬはうが多いと思ふ。
なにせ、十七文字なのだから。
草むらに蛙こはがる夕まぐれ。
下品ではないが安直すぎた。
ほんのおつき合ひ。間に合わせだ。 蕗の芽とりに行燈ゆりけす
芭蕉がそれに続けた。
これも、ほんのおつき合ひ。
長き脇指に、そつぽを向いて勝手に作つてゐる。
かうでもしなければ、作り様が無かつたらう。
とにかく、長き脇指には驚愕した。
「行燈ゆりけす」といふ描写は流石である。
長き脇指を静かに消してしまつた。まづ、どうにか長き脇指の始末がついて、ほつとした途端に、去来先生、またまた第三の巨弾を放つた。曰く、
道心のおこりは花のつぼむ時
立派なものだ。もつともな句である。
しかし、ちつとも面白くない。
先日、或る中年のまじめな男が、私に自作の俳句を見せて、その中に「月清し、いたづら者の鏡かな」といふのがあつて、それには「法の心」といふ前書が附いてゐた。
実に、どうにも名句である。
私は一語の感想をも、さしはさむ事が出来なかつた。
立派な句には、ただ恐れ入るばかりである。凡兆も流石に不機嫌になつた。
冷酷な表情になつて、
能登の七尾の冬は住憂き
と附けた。
まつたく去来を相手にせず、ぴしやりと心の扉を閉ざしてしまつた。
多少怒つてゐる。
カチンと堅い句だ。石ころみたいな句である。旋律なく修辞のみ。
魚の骨しはぶるまでの老を見て
芭蕉がそれに続ける。
いよいよ黒つぽくなつた。
一座の空気が陰鬱にさへなつた。
芭蕉も不機嫌、理屈つぽくさへなつて来た。
どうも気持がはずまない。
あきらかに去来の「道心のおこりは」の罪である。
去来も、つまらない事をしたものだ。
さてそれから、二十五句ほど続いて「夏の月の巻」が終るのだが、佳句は少い。 ちやうど約束の枚数に達したから、後に句に就いては書かないが、考へてみると私も、ずゐぶん思ひあがつた乱暴な事を書いたものである。
芭蕉、凡兆、去来、すべて俳句の名人として歴史に残つてゐる人たちではないか。
それを、夏の一夜の気まぐれに、何かと失礼に、からかつたりして、その罪は軽くない、急におぢけづいて、この一文に題して曰く、「天狗」。
夏の暑さに気がふれて、筆者は天狗になつてゐるのだ。ゆるし給へ。
(『太宰治全集 第十巻』筑摩書房 昭和52年)
『芭蕉七部集』から一部、読み仮名をつけています。
「ただどひやうしに長き脇指」は
「たゞとひやうしに長き脇指(わきざし) 来」となっています。
○とひやうし―突拍子。
(『芭蕉七部集』中村俊定 校注 岩波文庫 1966年)今朝の父の一枚です(^^)/
シジュウカラ♀が羽づくろいをしています。
イチャイチャと羽づくろいする仲のよさ
…前略…
なお相互羽づくろいは、つがいの絆(きずな)を深めることのみならず、寄生虫を防ぐ目的もあります。
頭や首など、自分では羽づくろいが難しい場所を、パートーナーに羽づくろいしてもらうことで、寄生虫をとってもらっているようです。
実際に相互羽づくろいは、頭や首などに集中して行われます。
つまりただイチャイチャしているわけではないようです。
相手が健康でいられるよう気遣うことこそ、つがいの絆を真に深めるのかもしれません。
しかしメジロのつがいは、人から見てもちょっと恥ずかしくなるぐらいアツアツです。
(『身近な「鳥」の生きざま事典』一日一種著 SBクリエイティブ 2021年)