2023年3月2日木曜日

通り雨のように…

天気予報は曇りでしたが、外に出るとなんか怪しいなと
50mmレンズでリハビリ散歩に出かけました。
公園に着くと通り雨のように降り出しました…
 時々、青空が見えるややこしい天気でした。
カンヒザクラを見ると花が開きそう…
スズメと一緒にカワラヒワがいると思ったのだけど黒いスズメのようでした。
汚れているのかな?(昨夜、雨が降った…)
羽毛が変異したのかな?

非常に珍しい黒いシジュウカラを発見」(つくばサイエンスニュース 2017年10月31日)
という記事はあるけど…
3月2日 徳治2年(1307.4.4) 関東大地震(一代要記)。
    安政2年(1855.4.18) 江戸に大火、小網町から出火し浅草まで延焼(維新史料綱要)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

幕末、ペリー来航や日米通商条約を結んだ頃…
江戸幕府が倒れたのは、地震や飢餓なども影響しているかもしれませんね。
第4章 「徳川システム」の疲労
 安政東海・南海地震
 

 嘉永6年(1853)6月3日、ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に来航、外交・通商を求める大統領の親書を手渡した。
ここから、幕末維新期の動乱が始まる。
 同じ年の2月2日、小田原地震が発生。M6.7」。
潰家1088軒、半潰2304軒、死者24人の被害が出た。
山崩れ341か所。箱根山中の東海道は崩れて、三日間通行が途絶えた。
(『江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』倉地克直 中公新書 2016年)
 翌嘉永7年、再来日したペリーとの間に「日米和親条約」が結ばれる。
幕府も諸藩も「海防」に追われるようになる。
同年6月15日、伊賀上野(いがうえの)地震。M7.0~7.5.
伊賀・伊勢・近江を中心に、潰家5787軒、半潰9138軒、死者1308人。
東海・北陸から中国・四国まで広い範囲で揺れを感じている。
 同じ嘉永7年11月4日午前10時ころ、駿河湾から熊野灘までの海底を震源域とする巨大地震が発生した。
その約30時間後の5日午後4時ころ、今度は紀伊水道から四国沖を震源域とする巨大地震が続いて起きた。
駿河トラフと南海トラフで連動して起きたプレート境界地震で、いずれもM8.4と推定されている。
地震後、関東から九州まで広い範囲で大津波が押し寄せた。
 4日の地震では、東海道筋の城下町や宿場町が大きな被害を受けた。
山間部では各所で山崩れが起き、富士川では白鳥山(しらとりやま)の崩落で流れがせき止められ、その決壊によって河口部で大洪水となった。
熊野地方の海岸では10メートルを超える大津波が押し寄せた。
 5日の地震では、瀬戸内海沿いの町々でも家屋の倒壊や城郭の損壊が相次ぎ、紀伊半島や四国はやはり10メートルを超える大津波に襲われた。
津波は瀬戸内海や豊後水道にも及んでいる。
 この地震では、宝永地震が想起され、その教訓が生かされて被害をくい止めたところも少なくなかった。
紀伊長島浦では、宝永津波で500余人の流死があったが、今回は480軒余が流失したものの、流死人は23人にとどまった。
土佐の萩谷(はぎだに)や須崎(すさき)でも昔の言い伝えや記録があったため、それに思い至って我先に山手へ逃げ登って、怪我人もなく無事であったという。
阿波浅川浦(あさかわうら)では宝永津波後に供養のためにの地蔵尊石像が作られ、経験が伝えられていた。
そのため村人たちは用心して被害はなかったという。
この両度の経験を伝えるために浅川浦では改めて石碑を建立した。
今回は被害がなかったためだろうか、供養の名号などもない、肥後の船津村のような純粋な「教訓碑」であった。
 言い伝えだけでは覚束(おぼつか)ない。
噂程度に思って油断していたために、流死した人も少なくなかった。
紀伊国湯浅(ゆあさ)村では、そうした教訓を伝えるために新たに石碑を建てることにした。
志摩(しま)国南張(なんばり)村の庄屋市兵衛は、記録の有無が被害の大小を分けるとして、他の村にならって経験を記録に残すことにした。
こうして各地に多数の記録類が残された〔『人々の営みと近世の自然 4』「津波の記憶」倉地克直〕。
 紀伊半島や大坂周辺では、四か月ほど前の伊賀上野地震に言及する記録が多い。
そのときは内陸の活断層による地震であった。
津波は起きていない。
そのことを思い出して、今回津波が来るとは予想しなかった人も少なくなかった。
そうした人が逃げ遅れて、被害にあったのだとする記録がある。
山に登った人が落石で死亡し、舟で沖に逃れて助かった人がいたという言い伝えを信じて、山に逃げず舟で沖に出て亡くなったひともいたという。
経験主義の陥穽(かんせい)と言ってよい。
経験を正しく伝え、的確に行動することは、一筋縄ではいかないだろう。
さまざまな事態に対する対応を、繰り返し繰り返し確認することが必要だ。
 東海地震では伊豆下田(しもだ)に停泊していたロシア船ディアナ号が被災した。
ディアナ号には条約交渉にあたっていたプチャーチンが乗っていた。
ディアナ号は修理のために回航中に沈没する。
プチャーチンの要請により戸田浦(へだうら)で代船が建造される。
これいは多くの日本人大工が参加し、西洋船建造の技術を学んだ。
完成した船は「ヘダ号」と名付けられる。
災害を乗り越えて、日本とロシアの国交樹立にふさわしい共同事業となった。
 打ち続く災害に、嘉永7年11月27日、「安政」と改元された。
そのため、この年に起きた東海・南海地震も、一般にはこの「安政」の年号を付けて呼ばれている。
(『江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』倉地克直 中公新書 2016年)
今朝の父の一枚です(^^)/
キジバトは、夫婦仲がいいのですよ(*´▽`*)

鳥の夫婦関係 上田恵介
 鳥類に一夫一妻が多い理由
 相手選びの主導権はメスにある


 オスとメスの間で「育児負担を平等に分担できる」ということと「平等に分担する」ということは、別問題である。
もしこのとき、オスがヒナの世話をメスに押しつけて、メスだけに育児負担がかかってきたらどうなるだろうか。
ここでオスとメスの間に駆け引きが生じる。
 オスは精子をつくるほうの性だが、メスは卵を作るほうの性である。
精子と卵とどちらが「投資量」が大きいか(つまり身体的に大変か)というと、卵をつくる性のほうが大きい。
 オスは多くのメスとつがって、精子をばらまけばいいが、メスは無制限に卵をつくり続けることはできない。
そこでメスは必然的に相手選びに慎重にならざるを得ない――これが結婚相手を選ぶ主導権がメスにあることの理由である。
となると当然、メスがオスを選ぶときには、ぐうたらなオスよりも育児負担を積極的に分担する面倒見のよいオスを選ぶだろう。
 こうしてメスがオスの「父親としての質」をターゲットにして選ぶとき、面倒見のいいお父さんがより多くの子孫を残せることになる。
つまり面倒見のよさが進化してくる。
これが、鳥において一夫一妻をさらに進化させた要因である。
(『日本野鳥の会のとっておきの野鳥の授業』日本野鳥の会編、上田 恵介監修、山と渓谷社 2021年)

去年の出生数は79万9728人 初めて80万人下回る 厚労省」(NHK 2月28日)