せっかく咲き出したサクラもうつむいてしまっています。 菜種梅雨(なたねづゆ)
菜の花が咲く時期に降りつづく長雨。
大陸からの移動性高気圧が日本列島の北に寄って進むと、列島付近に前線ができる。
その前線が停滞すると天気がぐずつき、「菜種梅雨」となる。
安永4年(1775)刊の越谷吾山(こしがやござん)『物類称呼(ぶつるいしょうこ)』に伊勢国(いせのくに)鳥羽あるいは伊豆国(いずのくに)の大風をいう船詞(ふなことば)として「三四月南東の風吹(かぜふく)をなだねづゆといふ」とある。
同様に「四五月吹南東の風をたけのこづゆといふ」とある。
これらの月は陰暦である。
元来風を意味した語が雨を指すようになった例は、ほかに「茅花(つばな)流し」「木の芽流し」などがある。
唄はねば夜なべさびしや菜種梅雨 森川暁水
(『雨のことば辞典』倉嶋厚・原田稔編著 講談社学術文庫 2014年)3月26日 明治43年(1910) 安重根、旅順監獄で処刑。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)
日韓併合
韓国農民の窮乏
日本がこのように韓国の支配・領有に執心してきたのは、なぜであろうか。
一つにはいうまでもなく軍事的要求による。
ロシアの南下を阻止し、日本の安全を確保するためには、朝鮮を日本の支配下におくことが不可欠と考えられた。
だが、もう一つの要因も注目されなければならない。
それは経済的な要求である。
欧米諸国にくらべて、はるかにおくれて発展した日本の資本主義は、海外市場を欧米諸国に抑えられ、地理的には日本に有利な中国市場においてさえ、欧米資本に対抗することは困難であった。
そのような状況のなかで、ようやく手に入れたのが朝鮮市場だったわけである。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男 中公文庫 改版2006年) だが、残念なことには朝鮮の市場はきわめて狭かった。
当時朝鮮はなお封建的な経済関係が支配的で、自給自足的な経済から抜け出していないうえに、国民の生活はきわめて貧しかった。
日露戦争後の韓国の状況は、つぎのように描かれている。
「韓国民の生活は自作自給を主とし、当時の社会生活上の必要品にして自作の出来ぬものだけを已むを得ず他給作に仰ぎ、その他作他給品も出来るだけ国内に於てしたが、その製造も凡(およ)そ家内工業で、工場も機械も分業もなかった。各地に小規模ながら種々の品物の製造業が存在して、まだ頭の道具から靴まで日本の大工業に打ち亡ぼされはしなかった」(『居留民の昔物語』) したがって、日本資本主義が朝鮮に求めたものは、長期的には、この自給自足の体制を崩して日本商品の市場を作り出すことであったが、当面の課題としては、農業への投資以外になかった。
明治37年6月の「対韓方針に関する決定」のなかで、政府はその方針をこう定めている。
「韓国ニ於ケル本邦人ノ企業中最モ有望ナルモノハ農事ナリ。由来韓国ハ農業国ニシテ専ラ食料及原料品ヲ我国ニ供給シ、我邦ヨリハ工芸品ヲ彼レニ供給シクレリ。思フニ今後と雖モ両国ノ経済的関係ハ此原則ノ上ニ発達セザルベカラズ。且ツ韓国ハ土地ノ面積ニ比シ人口少ナク優ニ多数ノ本邦移民ヲ容レ得ベキヲ以テ、若シ我農民多ク韓国内地ニ入リ込ミ得ルニ至ラバ、一方ニ於テ我超過セル人口ノ為ニ移植地ヲ得、他方ニ於テ我不足セル食糧ノ供給ヲ増シ、所謂一挙両得トナルベシ」 当時瑞穂(みずほ)の国の日本も、産業革命の発展によって、ようやく食糧の不足を告げるようになっていたので、朝鮮は米の供給地として重要視されるにいたったのである。
この農業生産を発展させ、またそのために農業投資を活潑にするうえに、重大な障害が存在した。
それは土地所有の関係が不明確なことである。
所有権が明確でなければ、土地の売買も自由におこなわれないし、投資も困難である。
そこで合併直後、新しくできた総督府は臨時土地調査局を設けて、近代的な土地所有権の確定に着手したのである。 ところがこれは、韓国農民から土地を奪う結果となった。
というのは、朝鮮の封建的社会のもとでは、土地は大部分、国王ないし国王から分与された貴族・官僚らのものとされていたが、農民は土地を占有し、その耕作権をもっていた。
それがこの土地調査の過程で、貴族・官僚らに土地所有が認められ、農民の権利は無視されてしまったのである。
しかも国王の所有地は国有地となって、その一部はさらに貴族・官僚や日本人企業家に払い下げられたから、農民はわずかに、弱い小作人として地主から土地を借りて耕作しなければならなくなった。 しかもそうなるといっそう悪いことには、従来は30パーセント程度であった小作料が、40から50パーセントと増加し、農民の生活を急速に悪化させていったのである。
農民の不満は増大する一方であった。
「不幸なる鮮民(朝鮮民衆)は総督政治に跪拝(きはい)して、この不法なる官没僚没の田土の回収を哀訴し、地方民のこの問題のため京城に来去する者、その数実に夥(おびただ)しく、当時寺内伯が変通自在の武断政治を以て、根本的に是等の社会問題を解決し、横領奪占の莫大なる土地は、之を所有者に還付し、王族両班(ヤンパン)が一種の権力を以て兼併したる土地は、之を人民に解放して新政の主義を発揮せば、人民は翕然(きゅうぜん)として新政治に帰服したらん、然れど寺内伯は漫然として之を顧みず、却て従来の悪政を幫助し悪政を実行したる両班を優待したのは、実に庶民の意外とせし所なり」(青柳南冥<あおやなぎなんめい>『朝鮮統治論』)
このような状況を背景とし、韓国人民の怨みを一身に背負って、初代韓国統監伊藤博文はハルビン駅頭に倒れた。
そして伊藤を殺した安重根(あんじゅうこん)は、救国の英雄としてその後ひそかに尊敬され、今日その銅像がソウルに建てられている。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男 中公文庫 改版2006年)「ごんごろ鐘」つづき
和太郎さんが牛を車につけてゐるとき、みんなはまたいろいろなことをいつた。
「この鐘がなしになると、これから報恩講(ほうおんこう)のときなんか、人を集めるのに困るわなア。」
といつたのは、いつも真面目なことしか言はない種(たね)さんだ。
「なあに、学校生徒を呼んで来て、ラッパを吹かせりやええてや。トテチテタアをきいたら、みんな、ほれ報恩講がはじまると思つて出かけりやええ。」
と答へたのは、ひよつとこづらをして見せることの上手な松さん。
「ほんな馬鹿な。ラッパで爺さん婆さんを集めるなどと、ほんな馬鹿な。」
と、種さんはしかたがないやうに笑つた。
(『校定 新美南吉全集 第二巻』大日本図書株式会社 1980年)
「これでごんごろ鐘もきつと爆弾になるづらが、あんぐわい、四郎五郎さんとこの正男さんの手から敵の軍艦にぶちこまれることになるかもしれんな。」
と吉彦さんがいつた。
四郎五郎さんの家の正男さんは、海の荒鷲の一人で、いま南の空に活躍していらつしやるのだ。
「うん、さうよなあ。だが、正男の奴も、ごんごろ鐘でできた爆弾たあ知るめえ。爆弾はものをいはねえでのオ。」
と無口でがんじような四郎五郎さんは、煙草をすひながらぽつりぽつり答へた。
「だが、これだけの鐘なら爆弾が三つはできるだらうな。」と吉彦さんがいつた。
四郎五郎さんの家の正男さんは、海の荒鷲の一人で、いま南の空に活躍していらつしやるのだ。
「うん、さうよなあ。だが、正男の奴も、ごんごろ鐘でできた爆弾たあ知るめえ。爆弾はものをいはねえでのオ。」
と無口でがんじような四郎五郎さんは、煙草をすひながらぽつりぽつり答へた。
と誰かが答へた。
「さうよなあ、十はできるだら。」
と誰かが答へた。
「いや三つぐれえのもんだら。」
と、はじめの人がいつた。
「いいや、十はできるな。」
と、あとの人が主張した。
僕はきいてゐてをかしくなつた。
爆弾にも五十キロのもあれば五百キロのもあるといふやうに、いろいろあることを、この人たちは知らないらしい。
しかし僕にも五十キロの爆弾ならいくつできるか、五百キロのならいくつできるか、といふことはわからなかつた。 いよいよごんごろ鐘は出発した。
老人達は、また仏の御名を唱へながら、鐘にむかつて合掌した。
鐘には吉彦さんがひとりついて、町の国民学校の校庭までゆくことになつてゐた。
そこには、近くの村々からあつめられた屑鉄の山があるといふことだつた。
僕たち村の子供は、見送るつもりでしばらく鐘のうしろについていつた。
来さん坂もすぎたが、誰一人帰らうとしなかつた。
小松山のそばまで来たが、まだ誰も帰るやうすを見せなかつた。
帰るどころか、みんなの顔には、町まで送つてゆかう、といふ決意があらはれてゐた。 しかし僕たちは小さい子供はつれてゆくわけにはいかなかつた。
そこで松男君の提案(ていあん)で、新四年以下の者はしんたのむねから村へ帰り、新五年以上の者が、町までついてゆくことにきまつた。
しんたのむねで、十五人ばかりの小さな者がうしろに残った。
ところが、そこでちよつとした争ひが起つた。
新四年だから、帰らねばならないはずの比良夫(ひらを)君が、帰らうとしなかつたからだ。
五年以上の者が、帰れ帰れ、といふと、比良夫君はいふのだつた。
「僕あ、今四年だけれど、一年のときいつぺんすべつとる(落第してゐる)で、年は五年とおんなじだ。」 なるほど、それも一つのりくつである。
しかし五年以上の者は、そんなりくつは通さなかつた。
とうとう腕づくで解決をつけることになつた。
松尾君が比良夫君に引つ組んだ。
そして足掛けで倒さうとしたが、比良夫君は相撲の選手だから、逆に腰をひねつて松男君を投げ出してしまつた。
こんどは用吉君が、得意の手で相手の首をしめにかかつたが、反対に自分の首をしめつけられ、ゆでだこのやうになつてしまつた。 そんなことをしてゐる間に、鐘をのせた牛車はもうしんたのむねをおりてしまつてゐた。
五年以上の者は、気がせいてたまらなかつた。
ぐづぐづしてゐると、つひに鐘にいつてしまはれるおそれがあつた。
そこで、比良夫君のことなんかほつといて、みんな鐘めがけて走つた。
総勢十五人ほどであつた。
鐘に追ひついてみると、ちやんと比良夫君がうしろについて来てゐた。
みんなは少しいまいましく思つたが、考へてみると、それだけ比良夫君の熱心がつよいことになるわけだから、みんなは比良夫君を許してやることにした。 川の堤に出たとき、紋次郎君が猫柳の枝を折つて来て鐘にささげた。
ささげたといつても、鐘のそばにおいただけである。
すると、みんなは、われもわれもと、猫柳をはじめ、桃や、松や、たんぽぽや、れんげさうや、なかにはペンペン草までとつて来て鐘にささげた。
鐘はそれらの花や葉でうづまつてしまつた。
かうして僕たちは村でただひとつのごんごろ鐘を送つていつた。
…つづく…
(『校定 新美南吉全集 第二巻』大日本図書株式会社 1980年)今朝の父の一枚です(^^)/
雨降(ふり)ければ
草履(ざうり)の尻折(をり)てかへらん山桜 (江戸蛇之鮓)
『句選年考』の引く『庭の巻集』(亀毛編、寛保2年刊)に、「上野花見に雨にあうて吟じたるむかしの句也」とある。
江戸上野の花見に行って、雨に降られたのだ。
『芭蕉句集講義』に、「機外氏書を寄せて曰、長道をすると草履の尻が長く伸出る、斯うなると歩き難い計りでなく、ハネがあがり砂や埃が揚るから、草履の尻を上の方へ折り返し、カゝトで押へて歩行く事がある。これは地方の人のやる事で、婦人などは格別に此法を用ゐて居る」とあるので、「草履の尻折て」ということがはっきり分かる。
…中略…
談林調のおかしみである。
上野の桜の品種は、当時はおおかた山桜であったのか。
あるいは、上野東叡山の桜だから、山の桜という意味で山桜と言ったのか。
『増山井(ぞうやまのい)』は芭蕉が座右に置いた季寄(きよせ)だが、「山桜も庭桜も其山に咲、庭に咲をいふを、名木のやうにしたつるは悪きと也」とある。
(『芭蕉全発句』山本健吉 講談社学術文庫 2012年)