歩いているとツバメが…
昨日は、ぼんやりしていたのでカメラを構える間もなく飛んでいった。
「ツバメ観察全国ネットワーク」今朝の朝ドラ「舞いあがれ!」で2004年4月、パリの夜空を飛ぶ飛行機の音をきっかけに
八木のおっちゃんのように舞ちゃんの声が蘇ってきましたね。
随筆の書出しが「舞ちゃん。」
随筆を書くことによって新たな歌が詠めるようになるんだろうなぁ
これ以上、予想を書くのはやめときます(^_-)
『トビウオが飛ぶとき 「舞いあがれ!」アンソロジー』(桑原亮子 KADOKAWA)
5月に発売されるそうです。
〝俵万智が語る、『舞いあがれ!』妄想短歌への反響 “貴司”赤楚衛二にアドバイスするなら?〟(Real Sound)ツバメだけでなく花々もぼんやりしていると見逃してしまいそうです…
桜の花がヒラヒラ舞いだしました。
フジの蕾を見ると今にも咲き出しそうでした。
【第四四段】
木の花は、
…中略…
藤(ふぢ)の花。撓(しな)ひ、長く、色良く咲きたる、いと、めでたし。
…後略…
訳
木の花は、……
藤の花も素晴らしい。花房が長くて、色がはっきりとよく咲いているのが、とても素晴らしい。
…
評
『春曙抄(しゅんしょしょう)』は、この段から巻三に入る。樹木の花を列挙して誉める段である。
ほとんどが、馴染みの花の名前であるが、多少、あまり取り上げられない木も、交っている。
和歌や物語などの文学上のことや、季節の行事との結びつきから、取り上げられているものもあり、植物的な関心にとどまらない多彩さがある。
なお、ここに書かれているのは、春から夏の季節に花が咲く、梅から樗(おうち)までである。
(『枕草子 上』清少納言著、島内裕子校訂・訳 ちくま学芸文庫 2017年)
昨日まで転記していた「ごんごろ鐘」
【解題】
本文は『おぢいさんのランプ』(有光社、1942年10月10日)を底本として、現存する自筆原稿を校合して作成した。
原稿末尾に「一七・三・二六」と制作日付があり、この日付から判断すると、巽から童話集出版の話があった後に書かれた作品といえる。
この作品の成立には、光蓮寺の鐘の供出がヒントになったと思われるが、さらに「父から聞いた話」を1941年12月16日の日記に次のように記している。
父から聞いた話
光蓮寺の鐘は、深谷の方の、或る砂地の谷間で鋳られた。その谷は今でも鐘鋳(カネイリ)谷と呼ばれてゐる。
父も年寄からきいただけださうだが、その人々は(若かつたが)たたら(大きな鞴)を踏ませて貰ひに行つた。
たゝらは大きいので足でふんだ。どういふシカケか、両方から交りばんこに踏んだ。するとそれで火がおこり、るつぼの中の金属がとけてゆになつた。二日間位かゝつたらしい。
それを、地の中に砂でつくつた型があつて、その中に流しこんだ。三日位そのまゝにしておく。すると冷えてしまふ。
さういふ砂は内海の海岸でとれるといふ弟の話であつた。
日記中に鋳造の模様を記しているが、『半田町史』(愛知県知多郡半田町編輯・発行・1926)に「文化年代に至り第十世周道法師の時、本堂を建立し併て梵鐘を鋳造す、今の光蓮寺の本堂是なり。」「明治十四年第十四世法城法師梵鐘を改鋳せしが」とあり、日記に書かれている鋳造は1881年の改鋳を指している。
(『校定 新美南吉全集 第二巻』大日本図書株式会社 1980年)…中略…
戦後に出版された作品集(『ごんぎつね』筑摩書房・1951年9月30日)に「ごんごろ鐘」が収められた際、巽の加筆があった。
その理由を巽は次のように述べる。
『おじいさんのランプ』初版を持っている方や、研究家に断っておきたい。この文の最初の一行「これは、太平洋戦争のときのお話である。」は、戦後になって私がつけ加えた。それから、最後の四百字ばかりをけずって、「今はもうない、鐘のひびきがした。」も私が加えた。戦後はもう禁句的な文字になっていたし、「古いものは、むくりむくりと新しいものに生れかわって」も「おじいさんのランプ」とおなじプロットだ。お寺の鐘が、新しい弾丸になられてはたまらない。私の好きな作品の一つだが、この方が鐘の余韻も出るように思う。(大日本図書版童話全集第二巻)
この加筆は牧書店版全集に収録する際にも原文に戻されなかった(加筆については異同参照)ため、作品評価に議論を生じる原因となった。
本文作成に際して底本の明らかな間違いを原稿と校合して校訂した(校訂参照)。
(『校定 新美南吉全集 第二巻』大日本図書株式会社 1980年)「企画全体を担ったのが巽聖歌である」(「日本の子どもの本100選 戦前編 大阪国際児童文学館)
巽聖歌が初版を出版するときに新美南吉に言わずに、戦後、加筆訂正することについて疑問を感じます。
転記していると村人の「ごんごろ鐘」への思いや哀しみが伝わってきました。
解題に〝原稿末尾に「一七・三・二六」と制作日付〟とあります。
真珠湾攻撃が昭和16年12月8日です。
もうすでに物資不足になっていたのです。
物資動員お寺の釣鐘(つりがね)にお召しがあったのは、昭和17年の5月のことで、「金属回収令」による<強制譲渡命令>が発動し、「寺院の仏具、梵鐘等」の強制供出が命じられたのである。
前年末に日本が「太平洋戦争」に突入した当座は、軍事的にも優勢を保ち、資源に富んだ南方の地域の占領も、思いのほか早く進んだ上に、軍に<徴用>された船舶の中にも、一般の物資の補給や輸送用にもどされてくるものもあったほどだ。
しかし、この緒戦の「戦果」が国民ばかりか軍や政府を油断させ、「シンガポール陥落」のときには、調子にのって民間用の石油を「特配」したり、南方のゴムで作ったボールを「少国民」にプレゼントしたりしたが、その後、戦局は一変し、日本の物的資源はたちまち窮状に悩みはじめる。
まさに島国のかなしさ、とうとう〝貧(ひん)すれば貪(どん)する〟のたとえどおり、ついにお寺の釣鐘にまでたよることになった。
(『戦中用語集』三國一朗 岩波新書 1985年) もちろん一般家庭にも、「まず積極的に供出していただきたいもの」として門柱・門扉・広告板・溝蓋(みぞぶた)・手摺・欄干など、「自発的に供出したいただきたいもの」として鈴蘭燈(すずらんとう)・傘立・石炭用バケツ・置物・菓子器などが指定された。
これを一般には「くろがねの動員令」と呼んだものである。 劇作家・岡鬼太郎が「情報局国民演劇」という名目、<国策>への協力をテーマとする戯曲の執筆をなかば強制的に要請されたのはそのときで、幸か不幸か岡自身が鐘の声を平素から愛する人だったことから「梵鐘(ぼんしょう)」という一幕物が書き上がり、18年11月公演の前進座の舞台にかかることになった。
どこかの田舎の寺の鐘楼守りをしている孤独な老婆(珍しく中村翫右衛門<かんえもん>が演じた)が、村長(河原崎長十郎)の熱心な説得にほだされ、ついに長く固辞していた「供出」に応じるという筋立てであった。 しかし、作者の岡氏は、前進座11月公演の「梵鐘」の舞台を見ることなく、10月29日、胃潰瘍で亡くなった。
11月5日に新橋演舞場で「梵鐘」を見た永井荷風は、次のように日記に書いている。
「告別式の前日余吊間に赴きし時令嗣(れいし)鹿之助君先考の新作につきて語りて曰く、父は生前鐘声をきくことを好みてゐたりしが金属類拱出の令下りて国内復(ふたた)びこれを聞くこと能(あた)はざるを悲しみ、一日鹿之助君に向ひ欧州にては戦時にも寺院の鐘は鳴るや如何と問はれしことありき。父が生前この新作ありしは胸中深く感ずる所ありしが為ならんと」(『断腸亭日乗』五、岩波書店、昭和56年)
(『戦中用語集』三國一朗 岩波新書 1985年)今朝の父の一枚です(^^)/
シジュウカラがシダレザクラを訪問していました。
花見でなく花味かな?
シジュウカラが探しているのは虫だと思うけど(^_-)
「【視】お花見」つづき
新鮮な驚きでした。
これまで見てきた花見の風景とはまったく違う景色が、そこに広がっていたからです。
吉野山は急峻(きゅうしゅん)ではなく、丸みを帯びた優しい曲線が幾重にも重なりあっています。
その山肌に、ヤマザクラの群れが見えます(口絵参照)。
ヤマザクラの花はふわりとして、まるで柔らかな雲のよう。
吉野山ひとむら見ゆる白雲は咲き遅れたる桜なるべし 西行
西行の歌は、正確な描写です。
桜の群れの一つ「下千本」は、四月初旬に満開を迎え、その後、「中千本」「上千本」「奥千本」と、いわば桜前線が吉野山を上っていく。
一気に咲き、一気に散る東京の桜とはずいぶん違います。
場所によって開花にずれがあり、ソメイヨシノほど一時的に集中して咲くわけではないのです。
「散ってしまうから早くお花見しなければ」と、せわしい気分にならなくて済む。
咲いている時期が長いので、こちらの都合にあわせて自由な気持ちで花を愉しむことができる。
そんな吉野山の花見の朗らかさ、軽やかさが、まず気に入りました。
…つづく…
(『年中行事を五感で味わう』山下柚実 岩波ジュニア新書 2009年)