今朝も青空が広がっていました。
天気予報を見ていると午後から天気は下り坂のようです。
花粉情報も「非常に多い」から「多い」になっていました。
スギの木は天気予報を見なくてもこれからの天気を予想している。
天気予報が外れたとぶつぶつ言う人は見習った方がいいのではないかな(^_-)今日は、七十二候の「菜虫化蝶(なむしちょうとなる)」
蝶が飛んでいるのに出会ったけど写せませんでしたが、
ミツバチ(ニホンミツバチかな?)が花粉を集めていました。
アブとミツバチの違いは
「ミツバチのとくちょう」(小学3年)
「だんご職人 ミツバチの秘密」(ミクロワールド)今朝のニュースで紹介されていたのが
〝「おはしさん ありがとう」高知八幡宮で箸供養祭〟(高知NHK 3月15日)
日本の食事のマナーは、外国に行くと…
第二章 味噌の香り 副食と調味料の文化史
●茶碗を口に運ぶ理由
食器では、碗(わん<椀>)の形態に注目したい。
われわれは、飯碗と汁碗の2種類の、ほぼ同じかたちの「わん」を使っている。
以前は、箱膳のなかにも納められていたし、囲炉裏端にも並んでいた。
そして、現在でも日常的に用いている。
そのかたちは、半径と高さ(寸法)がほぼ同じで、その寸法は、一般的に7センチ前後である。
いいかえれば、直径十数センチの半球型である。
われわれは、これをごくあたりまえに思っているが(あるいは、無意識に用いているが)、世界の諸民族の日常食器をみわたしてみると、いかにも特異なかたちの食器なのである。
(『日本人は何を食べてきたか 食の民俗学』神崎宣武 大月書店 1987年) たとえば、同じように米飯を食べる韓国や中国(粉食形態の内陸部は除く)にも類似の飯碗がなくはない。
韓国では金属器(古くは錫<すず>、現在はステンレス)の、中国では磁器の飯碗が普及している。
しかし、よく比較してみると、それらはひとまわり小ぶりで深い。
そして、宴席にかぎって使われている。
古く日常の食器は、さらにかたちにちがいがでるのである。
韓国では、より大ぶりな、日本でいうと丼鉢(どんぶり)のような陶器や磁器の飯碗が存在した。
また、中国では、浅い皿状の碗、日本でいうと丼鉢のふたのような磁器の飯碗が存在した。
いずれも、そのかたちにおいて、日本でわれわれが慣れ親しんでいる飯碗とは大きなへだたりがある。
そして、韓国や中国には、原則として(民衆のふだんの食事の意)、めいめいの汁碗は存在しない。
ふつうは、大きな鉢や土鍋(どなべ)に汁が入れられており、それを囲んで、めいめいは匙(さじ)を用いて直接口まで汁を運ぶのである。
だから、匙の存在意義は大きい。 さて、われわれが用いている飯碗や汁碗は、いうまでもなく、掌にすっぽりと納まるかたちなのである。
ということは、もちろん、手に持って口元まで運ぶことを目的にしてそのかたちがまとめられているのである。
これを、あたりまえ、と簡単に思い過してはならない。
食器を口元まで運ぶという行為は、広く世界をみわたしたとき、まことに特異なことなのである。
飲料を除くと、奇異なこと、といってよい。
韓国でも中国でも、飯碗を手には持たない。
韓国では、碗を片手で食卓に押しつけておいて、匙を用いてめしを口に運ぶ。
そこでは、碗を手に持つことは、行儀が悪いこととされている。
一方、中国では、箸(はし)を用いる。
そのとき、碗を持って動かすこともあるが、作法としては韓国と同じで、箸でめしを口まで運ぶ。
あるいは、口を碗の近くまでもってゆく。 われわれは、飯碗や汁椀を手に持って口元まで運ぶ。
それを行儀と心得ている。
その奇異なる作法は、どこからきたのか――。
それは、われわれ日本人の時代や地方を均して全体的に主食が雑炊(ぞうすい)や糅飯(かてめし)だったことを思えば、容易に納得がいくであろう。
雑炊はもちろん箸でつまむことはできないし、糅飯も冷めてしまうとボロボロしてつまみにくい。
この場合、われわれは、なぜか匙を伝えていない。
だから必然的に、碗を口元まで運び、箸でかきこむような食べ方をせざるをえないのである。
すると、碗は、食器であると同時に運搬用具ともなるのである。 ただ米飯を盛るのであれば、あえて半球型の器も必要としないし、それを口元まで持ち運ぶことも必要としない。
というのは、日本でとれる米は、モチ米でなくても旧来から粘り気の強い品種(俗にジャポニカといわれる短粒米)が大半で、そのめしは、何も碗に盛らなくても、そうそうこぼれ落ちる心配はないからだ。
事実、中世(とくに、平安末期から鎌倉時代)に描かれた絵巻物をみると、平たい皿状の器に山盛りに盛って食べている食事風景が、たびたび出てくる。
それは、強飯(こわいい<モチ米を蒸したもの>)と想定できるが、姫飯(ひめいい<ウルチ米のめし。つまり、今日でいうごはん)であっても一向に差しつかえない。
神饌(しんせん)や仏飯(ぶっぱん)のめしが皿状の器に高盛りされている現在の事例が示すとおりである・
したがって、もう一方に粥(かゆ)や雑炊(ぞうすい)、あるいは糅飯があって、そこで、口元まで運ぶ器が必要になって広まった、とするのが妥当であろう。 さて、口元まで運んだ飯碗は、唇や歯にも触れる。
われわれは、飯碗や汁碗の縁を嚙むようになめているのである。
それが、食器の分野での磁器の普及にも関連する。
磁器は、ガラスと同様、磁器や木器に比べて口に触れたときの感触がよい。
だから、食器を口にあてなあらめしを食べるわれわれにとって、たいへん好ましいわけである。
日本で磁器がはじめて焼かれたのは有田(佐賀県)の窯場で、江戸時代初頭(元和2年・1616年、と伝わる)のことであった。
その有田系の技術が瀬戸(愛知県)や清水(きよみず<京都府>)、本郷(福島県)など各地の窯場に伝わるのだが、本格的に各地で磁器が焼かれて全国的に流布するようになったのは、幕末から明治時代にかけてのことである。
とくに、明治期に鉄道が開通するにつれて、磁器は日常食器として、山間僻地にまで急速に普及することになった。 そして、磁器の普及によって、旧来の陶器や木器類は、日常食器の分野では、その用途がせばまることになった。
わずかに、陶器はその重厚さが多分に尊ばれて料理屋などの食器の一部に、漆器(しっき)はその熱の伝導が鈍い機能性が尊ばれて汁椀の分野に残ることになった。
あるいは、漆器は、古代におけるその普及からして仏具・仏器との関連が深く認められ、もとより高級な食器でもあり、磁器が出現したのちも仏祝儀の会席に伝えられることになった。
もちろん、こうした食器の変遷は、ひとつ触感だけをとって考えるべきではない。
堅牢度や経済性も大きな判定点となり、それをあわせて位置づけるべきであろう。
が、ともあれ、わが国における磁器の食器としての商品価値はまことに高いものがある。
それは、磁器が圧倒的に主流になっていることでも明らかなのである。
…後略…
(『日本人は何を食べてきたか 食の民俗学』神崎宣武 大月書店 1987年) 「瘤取り」つづき
ニハカニ クラク ナリマシタ
カゼガ ゴウゴウ フイテキテ
アメモ ザアザア フリマシタ
春の夕立ちは、珍しい。
しかし、剣山ほどの高い山に於いては、このやうな天候の異変も、しばしばあると思はなければなるまい。
山は雨のために白く煙り、雉、山鳥があちこちから、ぱつぱつと飛ぶ立つて矢のやうに早く、雨を避けようとして林の中に逃げ込む。
お爺さんは、あわてず、にこにこして、
「この瘤が、雨に打たれてヒンヤリするのも悪くないわい。」
と言ひ、なほもしばらく岩の上にあぐらをかいたまま、雨の景色を眺めてゐたが、雨はいよいよ強くなり、いつかうに止みさうにも見えないので、
「こりや、どうも。ヒンヤリしすぎて寒くなつた。」と言つて立ち上り、大きいくしやみを一つして、それから拾ひ集めた柴を背負ひ、こそこそと林の中に這入つて行く。
林の中は、雨宿りの鳥獣で大混雑である。
(『太宰治全集第七巻』太宰治 筑摩書房 昭和51年)「はい、ごめんよ。ちよつと、ごめんよ。」
とお爺さんは、猿や兎や山鳩に、いちいち上機嫌で挨拶して林の奥に進み、山桜の大木の根もとが広い虚(うろ)になつてゐるのに潜り込んで、
「やあ、これはいい座敷だ。どうです、みなさんも、」と兎たちに呼びかけ、「この座敷には偉いお婆さんも聖人もゐませんから、どうか、遠慮なく、どうぞ。」などと、ひどくはしやいで、そのうちに、すうすう小さい鼾をかいて寝てしまつた。
酒飲みといふものは酔つてつまらぬ事も言ふけれど、しかし、たいていは、このやうに罪の無いものである。
ユウダチ ヤムノヲ マツウチニ
ツカレガ デタカ オヂイサン
イツカ グツスリ ネムリマス
オヤマハ ハレテ クモモナク
アカルイ ツキヨニ ナリマシタ
この月は、春の下弦の月である。
浅みどり、とでもいふのか、水のやうな空に、その月が浮び、林の中にも月影が、松葉のやうに一ぱいこぼれ落ちてゐる。
しかし、お爺さんは、まだすやすや眠つてゐる。
蝙蝠が、はたはたと木の虚(うろ)から飛んで出た。
お爺さんは、ふと眼をさまし、もう夜になつてゐるので驚き、
「これは、いけない。」
と言ひ、すぐ目の前に浮ぶのは、あのまじめなお婆さんの顔と、おごそかな聖人の顔で、ああ、これは、とんだ事になつた、あの人たちは未だ私を叱つた事は無いけれども、しかし、どうも、こんなにおそく帰つたのでは、どうも気まづい事になりさうだ、えい、お酒はもう無いか、と瓢を振れば、底に幽かにピチヤピチヤといふ音がする。「あるわい。」と、にはかに勢ひづいて、一滴のこさず飲みほして、ほろり酔ひ、「や、月が出てゐる。春宵一刻、――」などと、つまらぬ事を呟きながら木の虚(うろ)から這ひ出ると、
オヤ ナンデセウ サワグコヱ
ミレバ フシギダ ユメデシヨカ
といふ事になるのである。
…つづく…
(『太宰治全集第七巻』太宰治 筑摩書房 昭和51年)今朝の父の一枚です(^^)/
漂鳥の夏と冬
そのヒヨドリが、いつのまにか姿が見えなくなったのに気がついたのは、4月もなかばのことでした。
そして6月になって、友人たちと高尾山(たかおさん<東京都八王子市>)に行き、ヒヨドリと再会することができたのです。
そうです。夏は山の林、冬は平地の庭や公園にすむ漂鳥だということを自分の目で確かめたのでした。
それから10年ほど後のことです。
私はまだ大学生でした。
鳥好きの仲間の一人から、「うちの近くにヒヨドリの巣があるけど見にこないかい」と誘われました。
まさかヒヨドリが平地で繁殖するなんてと半信半疑で見に行ったのです。
そこは植木屋の苗木畑でした。
巣は、イヌツゲの地面から約2メートルの高さの枝につくってありました。
大きさは両手の親指と人差し指で輪をつくったぐらいの小さな巣です。
巣は荷造り用の白いビニールひもや枯れ草でできています。
中には赤裸のひなが4羽いました。
…つづく…
(『自然観察12ヵ月』海野和男編著 岩波ジュニア新書 1983年)