青空が見えていたけど、薄雲が広がりヒンヤリとした朝でした。普段、見ている風景でも心が動くと
巻頭名句鑑賞 池田澄子選
みな椿(つばき)落ち真中に椿の木 今瀬剛一(いませごういち)
当たり前の景。びっくりしました。まさにそうです。
この景は誰でも見ている筈(はず)です。
余りの当然の景ゆえ、通り過ぎてしまうのです。
ハッとしました。
私も多分何回も見ています。
この句によって、何回も見ていた筈の椿の落花のその真ん中に立っている厚い葉の緑の木が、見えてなりません。
『週末(しゅうまつ)』
(『NHK 俳句 2023年3月号』NHK出版)明日は二十四節気の
春 三節気
啓蟄◆けいちつ
土の中で冬ごもりをしていた虫たちが、そろそろ活動を開始するころ。
「啓」は開く、「蟄」は冬眠している虫を意味しています。
「虫」という漢字は、もともと蝮(まむし)の姿をかたどった象形文字。
昔は昆虫に限らず、蛇や蛙、蜥蜴(とかげ)など、小さな生き物はすべて虫と呼ばれていました。
このころの雷は、「虫出し雷」といわれます。
ちょうど初雷が鳴りやすい時季。
昔の人々は、虫たちがこの雷に驚いて外に這い出してくるものだと考えていました。
(『イラストで楽しむ日本の七十二候』アフロ著、森松輝夫絵 中径出版 2013年) 地蟲出づふさぎの蟲に後れつつ 相生垣瓜人(あいおいがきかじん)
土中にすむ虫を総称して地虫という。
虫は蟲(むし)の略体で、虫+虫+虫と多くの虫の意。
上田五千石には「啓蟄に引く虫偏の字のゐるはゐるは」のユーモラスな句がある。
うようよいるというイメージだが、それら冬ごもりの虫が地上にはい出る節季を啓蟄という。
ところで掲出句の話題でもう一つは<ふさぎの蟲>だ。
ふさぎこんでいることを虫のせいにする表現で、気分がすぐれないことをいう。
世の中はさまざま煩雑(はんざつ)になりすぎて、社会の構造変化に伴うストレスの増大で<ふさぎの蟲>が這いまわっている。
生前は瓜人仙境と親しまれた俳人の作。
1898~1985 兵庫県高砂生まれ。百合山羽公と二人で「海坂(うなさか)」主宰。
句集『微茫集』『明治草』など。
(『きょうの一句 名句・秀句365日』 村上護 新潮文庫 平成17年)「蟲」に関連して(*´▽`*)
一章 鬼の誕生
1 鬼と女とは人に見えぬぞよき
「虫めづる姫君」の慨歎
「鬼と女とは人に見えぬぞよき」(「虫めづる姫君」)という、すばらしい警句が、あるとき按察使(あぜち)大納言の女(むすめ)、合理主義者で、変わり者として有名な<虫めづる姫君>の口をついて出たということは、警句として二重のおもしろさを感じさせる。
「虫めづる姫君」という興味深い短篇は、平安末期の作と想定される『堤中納言物語』のなかの一篇である。
(『鬼の研究』 馬場あき子 ちくま文庫 1988年)<蝶めづる姫君>の隣りに住む按察使大納言の女は、みにくい毛虫が蝶になる過程を楽しみ、蛇の胴のつやめく優雅さに、命ある色の美しさをみつめる。
姫君は、人間社会のひずみに生まれたゆがんだ意識や、先入観が作りなす不自然な習俗に、さげすみのまなざしを送りつつ暮しているが、さすがに当時の女のならいにまったく背反(そむ)きはてることもできず、したがって親たちとも、面とむかって応答するという大胆な方法などはとらず、例の、抒情的にしていささか不愉快な垂れ布や几帳のかげに身を置いて物案じをするのであった。
その合理的進歩性においてやや常識をはみ出し、世間からの変人扱いにたいしても激しく拮抗せざるを得なかったこの姫君が、ある日しみじみと、「鬼と女とは人に見えぬぞよき」と「案じ給」うた、その物思いとは、いったいどのようなものであったろう。『堤中納言物語』の作者は、なお不詳というべきであるが、この「虫めづる姫君」という短篇をみるとき、そこにあるものは美意識の倒錯という以上に、価値観の破壊と転換への積極的な自問の姿である。
人びとから嫌悪される毛虫や蛇のうごめきに、あまねき生きものの真率にして苦しげないのちのさまをみつめ、蝶となる未来を秘めた変身可能の生命力に、醜悪な現象を超える妖しい力を感受していた美意識とは、まさしく爛熟しつつある王朝体制の片隅に生き耐えている無用者の美観というべきである。
世の良俗美習に随順することを拒んだ美意識、反世間的、反道徳的世界に憎まれつつ育つ美の概念、少なくとも「虫めづる姫君」の一篇は、そういう心によって描かれた短篇ともいえる。 ささやかな官職を何くわぬ顔で奉じている一人の男が、ある夜ひめやかに「鬼と女とは人に見えぬぞよき」と案じつつ、静かに執筆の墨をおろしている姿を思い浮かべるのは、まことに愉快である。
こうした男こそ、かくれ鬼のひとりであり、人に見えぬを良俗とする女の物づつみにことよせて、危い反日常思想の一端をほのめかせつつほほえんでいる姿がかいまみられる。 中国では、世をしのぶ隠士の通称を<鬼谷>という。
「虫めづる姫君」をものした隠士鬼谷先生も、この反世間的日常をいだく姫君とともに、世の醇風美俗の破りがたさにシニカルな微苦笑を禁じ得なかったことであろう。
「鬼と女とは人に見えぬぞよき」と書きのこした作者の心を汲んでか、人びともまたこの鬼谷の隠士の本身をあえて詮索することをしなかったにちがいない。
前述して、このことばに二重の警句性を感ずると述べたのは、一つには価値観の変革を自問する<虫めづる>姫君が、さすがに「人に見えぬ」という女の掟を破り得なかったところに、<羞恥>の伝統の堅牢さを見る思いがするからであり、さらには、良俗に反して生きるという、背水の地に立つ姫君の防衛本能が、無名の鬼として生きるものの韜晦本能と重なるからで、女と鬼との反世間的抵抗は二重うつしとなって、その生きがたさを頒かち合っているのである。
(『鬼の研究』 馬場あき子 ちくま文庫 1988年)今朝の父の一枚です(^^)/
シメが止まっているのは電線ではありませんが…
2 鳥、電線に止まる
スズメは中央、カラスは上の端
…前略…
一方、カラスが高いところを利用しているのは、カラスが総じて、町中の高いところを利用しているからと考えられます。
体が大きいため必要とする餌量も多く、広い範囲を行動する必要があります。
また、人との距離もとろうとしますし、巣も、地上から10m以上のところに作ります。
そのため、足場となる電線も高いところになるのではないでしょうか。
カラスが電線の端に止まる理由は2つ考えられます。
1つは、体の大きなカラスにとって、電線の真ん中に止まる際に自重で揺れやすいだろうということです。
もう一つには、遠くを見渡すためには、端のほうが都合がよいと考えられます。
電柱は交差点に多くありますから、両方の通りのを見るためには、おのずと電柱の近くの電線に止まることになり、それが結果に反映されたのではないでしょうか。
…つづく…
(『電柱鳥類学 スズメはどこに止まってる?』三上修 岩波科学ライブラリ― 2020年)