2023年3月30日木曜日

一日で…

3月もあと一日
昨日、蕾が膨らんでいると思っていたフジ
一日で花が咲き出しました。
天和4年 貞享元年 甲子(1684年) 41歳

 世にさかる花にも念佛(ねんぶつ)申しけり (蕉翁句集)

(『芭蕉俳句集』中村俊定校注 岩波文庫 1970年)

この句をどう読まれますか?
貞享元年(天和4年)

 世にさかる花にも念仏申(ねんぶつもう)しけり  (蕉翁句集)

『蕉翁句集』(土芳編)にこの年の句としている。
花の盛りのとき、人々が花に浮れ歩く時にも、鉦(かね)を叩き念仏申して通りかかる人があったりする。
その対照に興じたもの。
ものの盛りに滅びを思う無常観が根底にはあろうが、観念がややあらわで、句柄が痩せている。
『蕉翁句解、過去種』(一筆鷗沙、安永5年稿)に言うように、千本大念仏は花の盛りのころだし、『ひさご』にも「千部読(よむ)花の盛の一身田(いしんでん)」(珍硯)の付句がある。
(『芭蕉全発句』山本健吉 講談社学術文庫 2012年)
以前、転記したのですが…

  世にさかる花にも念仏申しけり  松尾芭蕉

 今を盛りと咲きこぼれる桜を見て、どう感じるかは人それぞれだ。
けれど芭蕉の俳句だから気になってくる。
桜を勧賞すると同時に、人生の観照となっているところが眼目である。
無常というのは常がないこと、『平家物語』の冒頭でも諸行無常、盛者(じょうしゃ)必衰の理(ことわり)を説くのは有名である。
 満開の桜を見ながら、美しければ美しいほど完璧(かんぺき)な一切存在の真実のすがたを観(み)た思いになったのだろう。
八百万(やおよろず)の神々を生み出したのは日本人である。
念仏とは心に仏や功徳(くどく)を観じ、口に仏名を唱えること。
桜に対して神とか仏を想念することは突飛でも何でもなく、これが時代の雰囲気である。
芭蕉俳句の背景に、心を支える宗教があった。
  1644~1694 伊賀上野生まれ。
  俳諧を詩として大成、俳聖ともよばれる。『おくのほそ道』など。
(『きょうの一句 名句・秀句365日』村上護 新潮文庫 平成17年)
読み比べると面白いですね。

NHK 俳句 2023年3月号」の「先生の俳句」(岸本尚毅)に
芭蕉の弟子として有名な去来(きょらい)という俳人の人物像を、太宰の『天狗』と芥川龍之介の『枯野抄』とで読み比べてみてはいかがでしょうか。
とあったので太宰治の「天狗」を転記しました。
今度は芥川龍之介の『枯野抄』を何回かに分けて転記したいと思います。
  枯野抄

  丈草(じょうそう)、去来(きょらい)を召し、昨夜目のあはざるまま、ふと案じ入りて、呑舟(どんしゅう)に書かせたり、おのおの詠(えい)じたまへ
   旅に病むで夢は枯野(かれの)をかけめぐる  ――花屋日記――

 元禄七(げんろく)年十月十二日の午後である。
一しきり赤々と朝焼けた空は、また昨日のように時雨(しぐ)れるかと、大阪商人(おおさかあきんど)の寝起(ねおき)の眼(め)を、遠い瓦屋根(かわらやね)の向うに誘ったが、幸(さいわい)、葉をふるった柳(やなぎ)の梢(こずえ)を、煙らせるほどの雨もなく、やがて曇りながらもうす明(あかる)い、もの静(しずか)な冬の昼になった。
立ちならんだ町屋(まちや)の間を、流れるともなく流れる川の水さえ、今日はぼんやりと光沢(つや)を消して、その水に浮く葱(ねぶか)の屑(くず)も、気のせいか青い色が冷たくない。
まして岸を往く往来の人々は、丸頭巾(まるずきん)をかぶったのも、革足袋(かわたび)をはいたのも、皆凩(こがらし)の吹く世の中を忘れたように、うっそりとして歩いて行く。
暖簾(のれん)の色、車の行きかい、人形芝居の遠い三味線(さみせん)の音(ね)――すべてがうす明るい、もの静かな冬の昼を、橋の擬宝珠(ぎぼうしゅ)に置く町の埃(ほこり)も、動かさない位、ひっそりと守っている……
(『或日の大石内蔵之助・枯野抄』芥川竜之介 岩波文庫 1991年)
 この時、御堂前南久太郎町(みなみのきゅうたろうちょう)、花屋仁左衛門(はなやにざえもん)の裏座敷では、当時俳諧(はいかい)の大宗匠と仰がれた芭蕉庵松尾桃青(ばしょうあんまつおとうせい)が、四方から集って来た門下の人々に介抱されながら、五十一歳を一期(いちご)として、「埋火(うずみび)のあたたまりの冷(さ)むるが如く、」静かに息を引きとろうとしていた。
時刻は凡(およ)そ、申(さる)の中刻(ちゅうこく)にも近かろうか。
――隔ての襖(ふすま)をとり払った、だだっ広い座敷の中には、枕頭(ちんとう)に炷(た)きさした香(こう)の煙が、一すじ昇って、天下の冬を庭さきに堰(せ)いた、新しい障子の色も、ここばかりは暗くかげりながら、身にしみるように冷々(ひやひや)する。
その障子の方を枕にして、寂然(じゃくねん)と横(よこた)わった芭蕉のまわりには、先(まず)、医者の木節(もくせつ)が、夜具の下から手を入れて、間遠い脈を守りながら、浮かない眉(まゆ)をひそめていた。
その後に居すくまって、さっきから小声の称名(しょうみょう)を絶たないのは、今度伊賀(いが)から伴(とも)に立って来た、老僕の治郎兵衛(じろべえ)に違いない。
と思うとまた、木節の隣には、誰(だれ)の眼にもそれと知れる、大兵肥満(だいひょうひまん)の晋子其角(しんしきかく)が、紬(つむぎ)の角通(かくどお)しの懐(ふところ)を鷹揚(おうよう)にふくらませて、憲法小紋(けんぽうこもん)の肩をそば立てた、ものごしの凛凛(りり)しい去来(きょらい)と一しょに、じっと師匠の容態を窺(うかが)っている。
それから其角の後には、法師じみた丈草が、手くびに菩提樹(ぼだいじゆ)の珠数(じゅず)をかけて、端然と控えていたが、隣の座を占めた乙州(おとくに)の、絶えず鼻を啜(すす)っているのは、もうこみ上げて来る悲しさに、堪えられなくなったからであろう。
その容子(ようす)をじろじろ眺めながら、古法衣(ふるごろも)の袖(そで)をかきつくろって、無愛想な頤(おとがい)をそらせている、背の低い僧形(そうぎょう)は惟然坊(いぜんぼう)で、これは色の浅黒い、剛愎(ごうふく)そうな支考(しこう)と肩をならべて、木節の向うに坐っていた。
あとは唯(ただ)、何人かの弟子たちが皆息もしないように静まり返って、あるいは右、あるいは左と、師匠の床を囲みながら、限りない死別の名ごりを惜しんでいる。
が、その中でたった一人、座敷の隅に蹲(うずくま)って、ぴったり畳にひれ伏したまま、慟哭(どうこく)の声を洩(もら)していたのは、正秀(まさひで)ではないかと思われる。
しかしこれさえ、座敷の中のうすら寒い沈黙に抑(おさ)えられて、枕頭の香のかすかな匂(におい)を、擾(みだ)すほどの声も立てない。
…つづく…
(『或日の大石内蔵之助・枯野抄』芥川竜之介 岩波文庫 1991年)
今朝の父の一枚です(^^)/
アオジが振り向いて…

【視】お花見」つづき

 花そのものも、じっと目を凝らすと、ソメイヨシノとの違いがはっきりと見えてきます。
 ソメイヨシノはまず花が咲き、花が散ると緑の新芽が出ます。
ですから花だけが目立って豪華絢爛(ごうかけんらん)、重なりあう花々は密集していてちょっと圧迫感を感じるほど。
 それに対して、ヤマザクラの花はそれほど密集して咲きません。
すっきりと淡泊(たんぱく)です。
花と葉が一緒に出る点も違います。
一言で言えば、自然で素朴なたたずまい。
ヤマザクラの新葉は赤みを帯び、花の白と赤い葉とのコントラストは独特の爽(さわ)やかさ、風情を持っていました。
葉は赤や茶だけでなく薄い緑色もあり、その表情は多様です。
満開のヤマザクラのすぐ横に、まったく花の開いていないヤマザクラがあったりします。
 「見せる」ために花を強調して作られた、ソメイヨシノという人工的な園芸品種と、日本の野生種で自然のままに咲くヤマザクラの違いでしょうか。
 吉野山は修験道の開祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)によって修験道が根付いた土地であり、人々はご神木の桜を吉野の山々に捧(ささ)げ続けてきました。
その結果、これほど奥行き感のある桜の風景が作り上げられたのです。
…つづく…
(『年中行事を五感で味わう』山下柚実 岩波ジュニア新書 2009年)