今にも降り出しそうな曇り空で風も吹いていて寒かったです。
それでも昨日まで暑いくらいだったからかソメイヨシノが咲いていました。
大阪はまだかな?
「京都市でサクラ開花 過去2番目に早い」(京都NHK)花粉症もひどくなると
「花粉症の私 りんごが食べられなくなりました」(NHK 3月16日)
花粉症は、体の中に入り込んだ花粉に対して免疫が反応することで引き起こされるアレルギーです。
大久保公裕日本医科大学教授によりますと、
果物や野菜の中には、花粉とよく似た構造の物質を持つものがあり、
食べたときに、免疫細胞が花粉と勘違いしてアレルギー症状を起こしてしまうことがあるそうです。
「交差反応」と呼ばれています。
母は、キウイフルーツを食べると喉がかゆくなると言っていました。
「『ラテックス-フルーツ症候群』ってどんな病気?」(日本ラテックスアレルギー研究会)「瘤取り」つづき
見よ。
林の奥の草原に、この世のものとも思へぬ不可思議の光景が展開されてゐるのである。
鬼、といふものは、どんなものだか、私は知らない。
見た事が無いからである。
幼少の頃から、その絵姿には、うんざりするくらゐたくさんお目にかかつて来たが、その実物に面接するの光栄には未だ浴してゐないのである。
鬼にも、いろいろの種類があるらしい。
殺人鬼、吸血鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶところから見ても、これはとにかく醜悪の性格を有する生き物らしいと思つてゐると、また一方に於いては、文壇の鬼才何某先生の傑作、などといふ文句が新刊書案内欄に出てゐたりするので、まごついてしまふ。
まさか、その何某先生が鬼のやうな醜悪の才能を持つてゐるといふ事実を曝露し、以て世人に警告を発するつもりで、その案内欄に鬼才などといふ怪しむべき奇妙な言葉を使用したのでもあるまい。
(『太宰治全集第七巻』太宰治 筑摩書房 昭和51年)甚だしきに到つては、文学の鬼、などといふ、ぶしつけな、ひどい言葉を何某先生に捧げたりしてゐて、これではいくら何でも、その何某先生も御立腹なさるだらうと思ふと、また、さうでもないらしく、その何某先生は、そんな失礼千万の醜悪な綽名をつけられても、まんざらでないらしく、御自身ひそかに奇怪な称号を許容してゐるらしいといふ噂などを聞いて、迂愚の私は、いよいよ戸惑ふばかりである。
あの、虎の皮のふんどしをした赤つらの、さうしてぶさいくな鉄の棒みたいなものを持った鬼が、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。
鬼才だの、文学の鬼だのといふ難解な言葉は、あまり使用しないはうがいいのではあるまいか、とかねてから愚案してゐた次第であるが、しかし、それは私の見聞の狭いゆゑであつて、鬼にも、いろいろの種類があるのかも知れない。
このへんで、日本百科辞典でも、ちよつと覗いてみると、私もたちまち老幼婦女子の尊敬の的たる博学の士に一変して、(世の物識りといふものは、たいていそんなものである)しさいらしい顔をして、鬼に就いて縷々千万言を開陳できるのでもあらうが、生憎と私は壕の中にしやがんで、さうして膝の上には、子供の絵本が一冊ひろげられてあるきりなのである。
私は、ただこの絵本の絵に依つて、論断せざるを得ないのである。 見よ。
林の奥の、やや広い草原に、異形の物が十数人、と言ふのか、十数匹と言ふのか、とにかく、まぎれもない虎の皮のふんどしをした、あの、赤い巨大の生き物が、円陣を作つて坐り、月下の宴のさいちゆうである。
お爺さんは、はじめは、ぎよつとしたが、しかし、お酒飲みといふものは、お酒を飲んでゐない時には意気地が無くてからきし駄目でも、酔つてゐる時には、かへつて衆にすぐれて度胸のいいところなど、見せてくれるものである。
お爺さんは、いまは、ほろ酔ひである。
かの厳粛なるお婆さんも、また品行方正の聖人をも、なに恐れんやといふやうなかなりの勇者になつてゐるのである。
眼前の異様の風景に接して、腰を抜かすなどといふ醜態を示す事は無かつた。虚(うろ)から出た四つ這ひの形のままで、前方の怪しい酒宴のさまを熟視し、
「気持よささうに、酔つてゐる。」とつぶやき、さうして何だか、胸の奥底から、妙なよろこばしさが湧いて出て来た。
お酒飲みといふものは、よそのものたちが酔つてゐるのを見ても、一種のよろこばしさを覚えるものらしい。
所謂利己主義者ではないのであらう。
つまり、隣家の仕合せに対して乾盃を挙げるといふやうな博愛心に似たものを持つてゐるのかも知れない。
自分も酔ひたいが、隣人もまた、共に楽しく酔つてくれたら、そのよろこびは倍加するもののやうである。
お爺さんだつて、知つてゐる。
眼前の、その、人とも動物ともつかぬ赤い巨大の生き物が、鬼といふおそろしい種族のもであるとふ事は、直覚してゐる。
虎の皮のふんどし一つに依つても、それは間違ひの無い事だ。
しかし、その鬼どもは、いま機嫌よく酔つてゐる。
お爺さんも酔つてゐる。
これは、どうしても、親和の感の起らざるを得ないところだ。
お爺さんは、四つ這ひの形のままで、なほもよく月下の異様の酒宴を眺める。
鬼、と言つても、この眼前の鬼どもは、殺人鬼、吸血鬼などの如く、佞悪(ねいあく)の性質を有してゐる種族のものでは無く、顔こそ赤くおそろしげではあるが、ひどく陽気で無邪気な鬼のやうだ、とお爺さんは見てとつた。
お爺さんのこの判定は、だいたいに於いて的中してゐた。
つまり、この鬼どもは、剣山の隠者とでも称すべき頗る温和な性格の鬼なのである。
地獄の鬼などとは、まるつきり種族が違つてゐるのである。
だいいち、鉄棒などといふ物騒なものを持つてゐない。
これすなはち、害心を有してゐない証拠と言つてよい。
しかし、隠者とは言つても、かの竹林の賢者たちのやうに、ありあまる知識をもてあまして、竹林に逃げ込んだといふやうなものでは無くて、この剣山の隠者の心は甚だ愚である。
仙といふ字は山の人と書かれてゐるから、何でもかまはぬ、山の奥に住んでゐる人を仙人と称してよろしいといふ、ひどく簡明な学説を聞いた事があるけれども、かりにその学説に従ふなら、この剣山の隠者たちも、その心いかに愚なりと雖も、仙の尊称を贈呈して然るべきものかも知れない。
とにかく、いま月下の宴に打興じてゐるこの一群の赤く巨大の生き物は、鬼と呼ぶよりは、隠者または仙人と呼称するはうが妥当のやうなしろものなのである。その心の愚なる事は既に言つたが、その酒宴の有様を見るに、ただ意味も無く奇声を発し、膝をたたいて大笑ひ、または立ち上つて矢鱈にはねまはり、または巨大のからだを丸くして円陣の端から端まで、ごろごろところがつて行き、それが踊りのつもりらしいのだから、その智能の程度は察するにあまりあり、芸の無い事おびただしい。
この一事を以てしても、鬼才とか、文学の鬼とかいふ言葉は、まるで無意味なものだといふことを証明できるやうに思はれる。
こんな愚かな芸無しどもが、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。
お爺さんも、この低能の踊りには呆れた。
ひとりでくすくす笑ひ、
「なんてまあ、下手な踊りだ。ひとつ、私の手踊りでも見せてあげませうかい。」とつぶやく。
…つづく…
(『太宰治全集第七巻』太宰治 筑摩書房 昭和51年)今朝の父の一枚です(^^)/
昨日までスモモの花はポツポツと咲いていたのに
今朝は一気に満開になったなぁとビックリしていました。
帰るときに見るとヒヨドリが群がっていました。
ヒヨドリは、スモモに限らず…
「漂鳥の夏と冬」つづき
ちょうどこのころからヒヨドリが漂鳥から留鳥(りゅうちょう)に変わりはじめたのです。
それでも数はそんなに多くはありませんでした。
それが今では、いつでも見られる野鳥になってしまいました。
ヒヨドリの生態が変わっていったのです。
冬の間、都会の公園や住宅地には野鳥が多くやってきます。
シベリアなどから渡って来る冬鳥、山の林で繁殖して秋になって山から降りて来る漂鳥がいるからです。
夏鳥はツバメぐらいなものです。
だから冬になるとにぎやかになるのです。
林にすむ野鳥の多くは、ひなを育てるとき、栄養価の高い幼虫をえさにします。
ところが冬の間は、自分の体力が維持できさえすればよいのですから、木の実や草の種子で十分です。
都会には、このような食べものが豊富にあるので、冬鳥たちは生活することができるわけです。
(『自然観察12ヵ月』海野和男編著 岩波ジュニア新書 1983年)午後から心臓リハビリでした。
今日で終了です。
再開できるのは六カ月後になると思います。
2020年、21年の時は、新型コロナ感染拡大の影響で途中で中止になりました。
今回は、五カ月間、心臓リハビリを行なうことができました。
マスクをしてのリハビリなので負荷を少し落としてしていました。