2023年3月19日日曜日

暖かな日曜日

昨日は、雨で寒かったですが
今朝は、青空が広がり暖かな日曜日とあって大勢の来園者。
こちらではすでに咲いていますが、大阪城西の丸庭園の標準木も

大阪で「サクラの開花」発表 おととしと並び最も早い開花〟(関西NHK)
絶滅したはずの植物 約30年ぶりに発見」(関西NHK)

タヌキノショクダイ」(東京大学総合研究博物館)と愛敬のある名前
一方、海外では「妖精のランプ」と呼ばれているそうです。

「妖精のランプ」は消えてなかった 命名した植物学者の思いが現実に〟(朝日新聞 2月28日)
 「瘤取り」つづき

   ヲドリノ スキナ オヂイサン
   スグニ トビダシ ヲドツタラ
   コブガ フラフラ ユレルノデ
   トテモ ヲカシイ オモシロイ

 お爺さんには、ほろ酔ひの勇気がある。
なほその上、鬼どもに対し、親和の情を抱いてゐるのであるから、何の恐れるところもなく、円陣のまんなかに飛び込んで、お爺さんはご自慢の阿波踊りを踊つて、
   むすめ島田で年寄りやかつらぢや
   赤い襷に迷ふも無理やない
   嫁も笠きて行かぬか来い来い
 とかいふ阿波の俗謡をいい声で歌ふ。
鬼ども、喜んだのなんの、キヤツキヤツケタケタと奇妙な声を発し、よだれやら涙やらを流して笑ひころげる。
お爺さんは調子に乗つて、
   大谷通れば石ばかり
   笹山通れば笹ばかり
 とさらに一段と声をはり上げて歌ひつづけ、いよいよ軽妙に踊り抜く。
(『太宰治全集第七巻』太宰治 筑摩書房 昭和51年)
   オニドモ タイソウ ヨロコンデ
   ツキヨニヤ カナラズ ヤツテキテ
   ヲドリヲ ヲドツテ ミセテクレ
   ソノ ヤクソクニ オシルシニ
   ダイジナ モノヲ アヅカラウ

 と言ひ出し、鬼たち互ひにひそひそ小声で相談し合ひ、どうもあの頰ぺたの瘤はてかてか光つて、なみなみならぬ宝物のやうに見えるではないか、あれをあづかつて置いたら、きつとまたやつて来るに違ひない、と愚昧なる推量をして、矢庭に瘤をむしり取る。
無智ではあるが、やはり永く山奥に住んでゐるおかげで、何か仙術みたいなものを覚え込んでゐたのかも知れない。
何の造作も無く綺麗に瘤をむしり取つた。
 お爺さんは驚き、
「や、それは困ります。私の孫ですよ。」と言へば、鬼たち、得意さうにわつと歓声を挙げる。
   アサデス ツユノ ヒカルミチ
   コブヲ トラレタ オヂイサン
   ツマラナサウニ ホホヲ ナデ
   オヤマヲ オリテ ユキマシタ

 瘤は孤独のお爺さんにとつて、唯一の話相手だつたのだから、その瘤を取られて、お爺さんは少し淋しい。
しかしまた、軽くなつた頰が朝風に撫でられるのも、悪い気持のものではない。
結局まあ、損も得も無く、一長一短といふやうところか、久しぶりに思ふぞんぶん歌つたり踊つたりしただけが得(とく)、といふ事になるかな? など、のんきな事を考へながら山を降りて来たら、途中で、野良へ出かける息子の聖人とばつたり出逢ふ。
「おはやうござります。」と聖人は、頬被りをとつて荘重に朝の挨拶をする。
「いやあ。」とお爺さんは、ただまごついてゐる。
それだけで左右に別れる。
お爺さんの瘤が一夜のうちに消失してゐるのを見てとつて、さすがの聖人も、内心すこし驚いたのであるが、しかし、父母の容貌に就いてとやかく批評がましい事を言ふのは、聖人の道にそむくと思ひ、気付かぬ振りして黙つて別れたのである。
 家に帰るとお婆さんは、
「お帰りなさいまし。」と落ちついて言ひ、昨夜はどうしましたとか何とかいふ事はいつさい問はず、「おみおつけが冷たくなりまして、」と低くつぶやいて、お爺さんの朝食の支度をする。
「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」とお爺さんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。
お婆さんにお給仕されてごはんを食べながら、お爺さんは、昨夜の不思議な出来事を知らせてやりたくて仕様が無い。
しかし、お婆さんの儼然(げんぜん)たる態度に圧倒されて、言葉が喉のあたりにひつからまつて何も言へない。
うつむいて、わびしくごはんを食べてゐる。
「瘤が、しなびたやうですね。」お婆さんは、ぽつんと言つた。
「うむ。」もう何も言ひたくなかつた。
「破れて、水が出たのでせう。」とお婆さんは事も無げに言つて、澄ましてゐる。
「うむ。」
「また、水がたまつて腫れるんでせうね。」
「さうだらう。」
 結局、このお爺さんの一家に於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである。
ところが、このお爺さんの近所に、もうひとり、左の頬にジヤマツケな瘤を持つてるお爺さんがゐたのである。
さうして、このお爺さんこそ、その左の頬の瘤を、本当に、ジヤマツケなものとして憎み、とかくこの瘤が私の出世のさまたげ、この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ嘲笑せられて来た事か、と日に幾度か鏡を覗いて溜息を吐き、頬髯を長く伸ばしてその瘤を髯の中に埋没させて見えなくしてしまはうとたくらんだが、悲しい哉、瘤の頂きが白髯の四海波の間から初日出のやうにあざやかにあらはれ、かへつて天下の奇観を呈するやうになつたのである。
もともとこのお爺さんの人品骨柄は、いやしく無い。
体躯は堂々、鼻も大きく眼光も鋭い。
言語動作は重々しく、思慮分別も十分の如くに見える。
服装だつて、どうしてなかなか立派で、それに何やら学問もあるさうで、また、財産も、あのお酒飲みのお爺さんなどとは較べものにならぬくらゐどつさりあるとかいふ話で、近所の人たちも皆このお爺さんに一目(いちもく)置いて、「旦那」あるひは「先生」などといふ尊称を奉り、何もかも結構、立派なお方であつたが、どうもその左の頬のジヤマツケな瘤のために、旦那は日夜、鬱々として楽しまない。
このお爺さんのおかみさんは、ひどく若い。
三十六歳である。
そんなに美人でもないが色白くぽつちやりして、少し蓮葉なくらゐいつも陽気に笑つてはしやいでゐる。
十二、三の娘がひとりあつて、これはなかなかの美少女であるが、性質はいくらか生意気の傾向がある。
でも、この母と娘は気が合つて、いつも何かと笑ひ騒ぎ、そのために、この家庭は、お旦那の苦虫を嚙みつぶしたやうな表情にもかかはらず、まづ明るい印象を人に与へる。
「お母さん、お父さんの瘤は、どうしてそんなに赤いのかしら。蛸の頭みたいね。」と生意気な娘は、無遠慮に素直な感想を述べる。
母は叱りもせず、ほほほと笑ひ、
「さうね。でも、木魚(もくぎょ)を頬ぺたに吊してゐるやうにも見えるわね。」
「うるさい!」と旦那は怒り、ぎよろりと妻子を睨んですくつと立ち上り、奥の薄暗い部屋に退却して、そつと鏡を覗き、がつかりして、
「これは、駄目だ。」と呟く。

 いつそもう、小刀で切つて落さうか、死んだつていい、とまで思ひつめた時に、近所のあの酒飲みのお爺さんの瘤が、このごろふつと無くなつたといふ噂を小耳にはさむ。
暮夜ひそかに、お旦那は、酒飲み爺さんの草屋を訪れ、さうしてあの、月下の不思議な宴の話を明かしてもらつた。
   キイテ タイソウ ヨロコンデ
   「ヨシヨシ ワタシモ コノコブヲ
   ゼヒトモ トツテ モラヒマセウ」

 と勇み立つ。
さいはひその夜も月が出てゐた。
お旦那は、出陣の武士の如く、眼光炯々(けいけい)、口をへの字型にぎゆつと引き結び、いかにしても今宵は、天晴れの舞ひを一さし舞ひ、その鬼どもを感服せしめ、もし万一、感服せずば、この鉄扇にて皆殺しにしてやらう、たかが酒くらひの愚かな鬼でも、何程の事があらうや、と鬼に踊りを見せに行くのだか、鬼退治に行くのだが、何が何やら、ひどい意気込みで鉄扇右手に、肩いからして剣山の奥深く踏み入る。
このやうに、所謂「傑作意識」にこりかたまつた人の行ふ芸事は、とかくまづく出来上るものである。
このお爺さんの踊りも、あまりにどうも意気込みがひどすぎて、遂に完全の失敗に終つた。
お爺さんは、鬼どもの酒宴の円陣のまんなかに恭々粛々と歩を運び、
「ふつつかながら。」と会釈し、鉄扇はらりと開き、屹つと月を見上げて、大樹の如く凝然と動かず。
しばらく経つて、とんと軽く足踏みして、おもむろに呻き出すは、
「是は阿波の鳴門に一夏(いちげ)を送る僧にて候。さても此浦は平家の一門果て給ひたる所なれば痛はしく存じ、毎夜此磯辺に出でて御経を読み奉り候。磯山に、暫し岩根のまつ程に、暫し岩根のまつ程に、誰が夜舟とは白波に、楫音ばかり鳴門の、浦静かなる今宵かな、浦静かなる今宵かな。きのふ過ぎ、けふと暮れ、明日またかくこそ有るべけれ。」
そろりとわづかに動いて、またも屹つと月を見上げて端凝(たんぎょう)たり。
   オニドモ ヘイコウ
   ジユンジユンニ タツテ ニゲマス
   ヤマオクヘ

「待つて下さい!」とお旦那は悲痛な声を挙げて鬼の後を追ひ、「いま逃げられては、たまりません。」
「逃げろ、逃げろ。鐘馗かも知れねえ。」
「いいえ、鐘馗ではございません。」とお旦那も、ここは必死で追ひすがり、「お願ひがございます。この瘤を、どうか、どうかとつて下さいまし。」
「何、瘤?」鬼はうろたへてゐるので聞き違ひ、「なんだ、さうか。あれは、こなひだの爺さんからあづかつてゐる大事な品だが、しかし、お前さんがそんなに欲しいならやつてもいい。とにかく、あの踊りは勘弁してくれ。せつかくの酔ひが醒める。たのむ、放してくれ。これからまた、別なところへ行つて飲み直さなくちやいけねえ。たのむから放せ。おい、誰か、この変な人に、こなひだの瘤をかへしてやつてくれ。欲しいんださうだ。」
   オニハ コナヒダ アヅカツタ
   コブヲ ツケマス ミギノ ホホ
   オヤオヤ トウトウ コブ フタツ
   ブランブラント オモタイナ
   ハヅカシサウニ オヂイサン
   ムラヘ カヘツテ ユキマシタ

 実に、気の毒な結末になつものだ。
お伽噺に於いては、たいてい、悪い事をした人が悪い報いを受けるといふ結末になるものだが、しかし、このお爺さんは別に悪事を働いといふわけではない。
緊張のあまり、踊りがへんてこな形になつたといふだけの事ではないか。
それかと言つて、このお爺さんの家庭にも、これといふ悪人はゐなかつた。
また、あのお酒飲みのお爺さんも、また、その家族も、または、剣山に住む鬼どもだつて、少しも悪い事はしてゐない。
つまり、この物語には所謂「不正」の事件は、一つも無かつたのに、それでも不幸な人が出てしまつたのである。
それゆゑ、この瘤取り物語から、日常倫理の教訓を抽出しようとすると、たいへんややこしい事になつて来るのである。
それでは一体、何のつもりでお前はこの物語を書いたのだ、と短気な読者が、もし私に詰寄つて質問したなら、私はそれに対してかうでも答へて置くより他はなからう。 
 性格の悲喜劇といふものです。
人間生活の底には、いつも、この問題が流れてゐます。
月報7 「お伽草紙」執筆の頃 小山 清

 昭和20年3月10日に、東京の下町にB29の襲撃があり、その時、下谷龍泉寺町で私は罹災した。
四五日たつてから、私は三鷹の太宰さんの許をたづねた。
太宰さんは笑ひながら「いたましき罹災者か。」と云つて、私をむかへた。
私はこの際三鷹に引越してきたいと思ひ、この近所に貸間はないだらうかと太宰さんに訊いた。
その頃、私は三河島のある軍需会社に徴用されてゐた。
三鷹にきては少し遠くなるが、通勤できないといふ距離でもなかつた。
いゝあんばいに、太宰さんの向ひ隣りの家で、玄関わきの小部屋を私に貸してくれた。
太宰さんは私に向ひ、「一緒に勉強しよう。」と云つた。
太宰さんは「お伽草紙」の仕事にとりかかつてゐて、引越してきた私は、太宰さんの机上に「前書き」と「瘤取り」の書出しの部分が二三枚書きかけてあるのを見た。
 三月末に、奥さんとお子さん達は甲府の奥さんの里に疎開して、私は間借り先から太宰さんの家に移つた。
四月二日未明に、家の近所一帯が爆撃にあつた。
時限爆弾なるものをはじめて使用した空襲であつた。
偶々、その頃横浜にゐた田中英光がその前の晩に来合はせて泊込んでゐて、三人は防空壕に避難したが、壕の土が崩れてきて半身埋まり、危く命拾ひをした。
爆撃のため家が半壊したので、太宰さんと私は四五日、吉祥寺の亀井勝一郎氏の許に厄介になつた。
私は太宰さんに、三鷹に家には私が残るから、奥さんの里に行つたらどうかと提案してみた。
太宰さんはほつとした面持で、「きみも時々遊びにくればいゝね。」と云つた。
太宰さんは気が弱く、自分からさういふことを云ひ出せる人ではなかつた。
「お伽草紙」の草稿は、私が下谷から移つてきた時のまゝのやうであつた。
田中英光がその書きかけを読んで、「巧いなあ。」と感嘆したのを私は覚えてゐる。
 甲府へ行く太宰さんを送つてゆき、ついでに私も一週間ばかり遊んできた。
毎夜のやうに空襲があつた東京に比べると、甲府は嘘のやうにのんびりしてゐた。
サーカスの興行があつたらしく、そのポスターが町のところどころに掲げてあるのが目についた。
甲府市外の青柳といふ処で床屋をしてゐる「いろは歌留多」の作者熊王徳平氏をたづねたり、また、その頃甲府市外の甲運村に疎開してゐた井伏鱒二氏と三人で、武田神社のお祭りの日(四月十二日)に、太宰さんの奥さんがこしらへてくれた弁当を持つて、花見に行つたりした。
花見に行つた翌日私は三鷹へ帰つたが、四五日して、太宰さんから、そろそろ仕事をはじめてゐるといふ便りがあつた。
 その後、私は時々甲府へ遊びに行つた。
「瘤取り」を書きあげ、「浦島さん」にとりかゝつたのは五月のやうで、上旬に、「仕事は、どうも、タバコが無いので、能率があがりません。でも、きのふから浦島さんに取りかゝつてゐます。やつぱり仕事だけですね。ただ考へてゐたんでは、不安やら後悔やらで、たまりません。そちらも、そうか、ヒツソリお仕事を。」といふ便りがあり、下旬には、「私もだんだん落ちついて、いまでは毎日五枚づつ順調にすすみ、さうして夜は、お酒も飲まず神妙に読書してゐます。」といふ便りがあつた。
 六月上旬に、私がたづねた時には既に「浦島さん」は書きあがつてあつて、「カチカチ山」も稿半ばであつた。
机上にあつた「浦島さん」の草稿に、私が何気なしに手をのばしかけたら、太宰さんは邪慳にその手をはらひのけて、「この作品は一人か二人の人に理解してもらへればいゝのだ。」ときびしい表情をして云つた。
この頃は甲府も、B29がビラを撒いて行つたりして、物情騒然としてきてゐた。
 (筑摩書房版『太宰治全集』月報7 昭和31年4月)

(『太宰治全集第七巻』太宰治 筑摩書房 昭和51年)
今朝の父の一枚です(^^)/

 イチャイチャと羽づくろいする仲のよさ

 鳥の羽づくろいは、ふつう自分自身で行うものですが、信頼関係のあるつがい同士では、お互いに羽づくろい(相互羽づくろい)する様子が見られます。
 メジロのつがいはとても仲よしで、よく相互羽づくろいする光景が見られます。
ピッタリくっついて、交互に気持ちよさそうに羽づくろいしてもらう様子は微笑ましいものです。
 この相互羽づくろいは鳥類全般に見られますが、身近な鳥類ではメジロのほか、キジバト、ハシブトガラスなどで観察しやすい行動です。
…つづく…
(『身近な「鳥」の生きざま事典』一日一種著 SBクリエイティブ 2021年)