今朝も青空が広がっていました。
昨日は、昼間暑いくらいでしたが、夕方になるとヒンヤリ…
今日も、朝夕と昼間の温度差が大きいようです。
シダレザクラがポツポツと花を咲かせていました。
大阪の開花宣言はまだですが
〝「東京でサクラ開花」気象庁発表 2020・2021年と並び最も早く〟(NHK 3月14日) おわりに
大地の動きから何を学ぶか、どう準備するか
…前略…
第4章でも紹介したように地学には「過去は未来を解く鍵」という名言があります。
つまり、歴史を振り返ると、過去に起きた現象からたくさんの有益な情報が得られることを意味します。
そして現在の状態を正しく理解し、さらに未来を予測することまでが可能となるのです。
この結果、現在の不安定な状況は、9世紀の日本列島とよく似ていることに気づきました。
すなわち約1100年前の平安時代の日本では、地震と噴火がとくに多かったという記録が数多く残っているのです。
そして「3.11」のもたらした事件は、9世紀以来というほぼ1000年ぶりの「大地変動の時代」がはじまったことを意味します。
言いかえれば今後せまりくる「天災」とどう向きあうかが、日本に暮らす全員に重要なテーマとなってしまったのです。
(『地震はなぜ起きる?』鎌田浩毅 岩波ジュニアスタートブックス 2021年)平安時代に起きたのが
3月14日 延暦19年(800.4.11) 富士山噴火、4月18日まで続く(紀略6月6日条)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)
Ⅱ 大地動乱の深化と桓武の遺産
有史初の富士山大噴火
世紀の変わり目の800年(延暦19)、富士の大噴火が起きた。
噴火は、3月14日から始まって、4月18日まで、ほぼ一カ月のあいだ続いた。
噴煙のために昼も薄暗く、夜は噴火の光が天を照らし、雷のような鳴動が響きわたり、火山灰が雨のように降って、ふもとの川が紅色に染まったという。
雷のような鳴動とは、火山性の地震と雷電であろうから、ここでも噴火・地震・雷のセットの三位一体で火山噴火が印象されていたことがわかる。
(『歴史のなかの大地動乱 奈良・平安の地震と天皇』保谷道久 岩波新書 2012年) この時の噴出物は火山灰が中心であったが、噴火は翌々年、802年(延暦21)1月にも起こり、今度は、「砂礫(されき)」がアラレのように降ったという。
その規模は大きく、「焼砕石」、つまり火砕流と火山礫が、富士北辺を通る「足柄路」をふさいでしまった。
そのため同年5月なって、「筥荷(はこね)途」が開かれたという、ここで「足柄路」「筥荷途」と、ミチをあらわす漢字が使い分けられているのは重要で、新たに開かれた「筥荷途」が「途」といわれているのは、それがまだ応急のものだったことを示している。
噴火がおさまってのち、急いで道作りにかかったが、そういう「途」の開通にも約四カ月がかかったのである。 火山学の小山真人によれば、富士噴火の歴史においては、溶岩型と火砕流・噴石型の2類型があるという。
後にみる富士五湖を作った864年(貞観6)の噴火は溶岩型だが、この800年・802年の噴火は、江戸時代の小田原に大被害をあたえた富士大噴火と同様に、火砕流・噴石型ということになる。
ただ、都良香(みやこのよしか)という9世紀の文人官僚が記した『富士山記』によれば、この時、最初の噴火から二ヵ月ほど後に「山東脚下」に「神造(しんぞう)」の「小山」ができていたという。
それ故に、この時に噴火にも若干のマグマの噴出があった可能性も残されている。
ともかく、この時にできた「新山」を、人々が「神造」の山と考えたというのは、大隅に大穴持命(おおなむちのみこと)が「神造嶋」を作ったという第Ⅰ章で述べた例とあわせて興味深いところである。 富士は、東国から東北にかけて広がる火山フロントのうち、京都にもっとも近い大火山であり、南に伊豆諸島の火山、北に浅間山、草津白根山、赤城・榛名山をしたがえ、日光白根山、燧ヶ岳(ひうちがたけ)、那須岳から磐梯・吾妻・安達太良・蔵王・鳴子火山群、そして鳥海山・十和田と続く火山群の先頭をなす火山である。
実は、富士は、すでに781年(天応1)に小規模な噴火を起こし、灰が雨のように降って、風下の木の葉を広汎にしおらせている。
また富士の噴煙は、時代によって見えたり見えなくなったりするが、この頃は日常的に富士の噴煙をみることができた。
しかし、富士の激しい噴火は、この列島に文明が伝わって以来、初めてのことであった。
この噴火は、人々に、日本列島の全域が火山島であることをあらためて認識させ、また富士の大神が列島の神々の中でも、もっとも威力のある神であるということを教えたであろう。 もとより国家にとっての問題はもっと切迫したものである。
たとえば、二度目の噴火にさいして駿河・相模両国の国司が行なった「卜筮(ぼくぜい)」は、この噴火は「旱疫」=旱魃と疫病の兆(きざ)しであるとしている。
この占いを知った、桓武天皇は、富士山に対して「鎮謝(ちんしゃ)」をし、災いを払おうとしたという。
前述のように、阿蘇の神霊池の干上がりも直前のことであったから、列島の東西を代表する火山が旱魃と疫病を予言したということは、当時の人々にとってなまなかなことではなかった。
それは9世紀社会を襲うきびしい災害の予言となったのである。
(『歴史のなかの大地動乱 奈良・平安の地震と天皇』保谷道久 岩波新書 2012年) 「瘤取り」つづき
また、このお爺さんには息子がひとりあつて、もうすでに四十ちかくになつてゐるが、これがまた世に珍しいくらゐの品行方正、酒も飲まず煙草も吸はず、どころか、笑はず怒らず、よろこばず、ただ黙々と野良仕事、近所近辺の人々もこれを畏敬せざるはなく、阿波聖人の名が高く、妻をめとらず髯を剃らず、ほとんど木石ではないかと疑はれるくらゐ、結局、このお爺さんの家庭は、実に立派な家庭、と言はざるを得ない種類のものであった。
(『太宰治全集第七巻』太宰治 筑摩書房 昭和51年) けれども、お爺さんは、何だか浮かぬ気持である。
さうして、家族の者たちに遠慮しながらも、どうしてもお酒を飲まざるを得ないやうな気持になるのである。
しかし、うちで飲んでは、いつそう浮かぬ気持になるばかりであつた。
お婆さんも、また息子の阿波聖人も、お爺さんがお酒を飲んだつて、別にそれを叱りはしない。
お爺さんが、ちびちび晩酌をやつてゐる傍で、黙つてごはんを食べてゐる。 「時に、なんだね、」とお爺さんは少し酔つて来ると話相手が欲しくなり、つまらぬ事を言ひ出す。
「いよいよ、春になつたね。燕も来た。」
言はなくなつていい事である。
お婆さんも息子も、黙つてゐる。
「春宵一刻、価千金、か。」と、また、言はなくてもいい事を呟いてみる。
「ごちそうさまでござりました。」と阿波聖人は、ごはんをすまして、お膳に向ひうやうやしく一礼して立つ。
「そろそろ、私もごはんにしよう。」とお爺さんは、悲しげに盃を伏せる。
うちでお酒を飲むと、たいていそんな工合ひである。 アルヒ アサカラ ヨイテンキ
ヤマヘ ユキマス シバカリニ
このお爺さんの楽しみは、お天気のよい日、腰に一瓢をさげて、剣山にのぼり、たきぎを拾ひ集める事である。
いい加減、たきぎ拾ひに疲れると、岩上に大あぐらをかき、えへん! と偉さうに咳ばらひを一つして、
「よい眺めぢやなう。」
と言ひ、それから、おもむろに腰の瓢のお酒を飲む。
実に、楽しさうな顔をしてゐる。
うちにゐる時とは別人の観がある。
ただ変らないのは、右の頰の大きい瘤くらゐのものである。この瘤は、いまから二十年ほど前、お爺さんが五十の坂を越した年の秋、右の頰がへんに暖かくなつて、むずかゆく、そのうちに頰が少しづつふくらみ、撫でさすつてゐると、いよいよ大きくなつて、お爺さんは淋しさうに笑ひ、
「こりや、いい孫が出来た。」と言つたが、息子の聖人は頗るまじめに、
「頰から子供が生れる事はござりません。」と興覚めた事を言ひ、また、お婆さんも、
「いのちにかかはるものではないでせうね。」と、にこりともせず一言、尋ねただけで、それ以上、その瘤に対して何の関心も示してくれない。
かへつて、近所の人が、同情して、どういふわけでそんな瘤が出来たのでせうね、痛みませんか、さぞやジヤマツケでせうね、などとお見舞ひの言葉を述べる。
しかし、お爺さんは、笑つてかぶりを振る。
ジヤマツケどころか、お爺さんは、いまは、この瘤を本当に、自分の可愛い孫のやうに思ひ、自分の孤独を慰めてくれる唯一の相手として、朝起きて顔を洗ふ時にも、特別にていねいにこの瘤に清水をかけて洗ひ清めてゐるのである。
けふのやうに、山でひとりで、お酒を飲んで御機嫌の時には、この瘤は殊にも、お爺さんには無くてかなはぬ恰好の話相手である。
お爺さんは岩の上に大あぐらをかき、瓢のお酒を飲みながら、頰の瘤を撫で、
「なあに、こはい事なんか無いさ。遠慮には及びませぬて。人間すべからく酔ふべしぢや。まじめにも、程度がありますよ。阿波聖人とは恐れいる。お見それ申しましたよ。偉いんだつてねえ。」など、誰やらの悪口を瘤に囁き、さうして、えへん! と高く咳ばらひするのである。
…つづく…
(『太宰治全集第七巻』太宰治 筑摩書房 昭和51年)
今朝の父の一枚です(^^)/
途中で合流してコーヒータイムの時に、ヒヨドリがメジロを追い払うので怒っていました。
鳥の名前を覚えるのに図鑑やインタネットで調べるのですが、
最初は、うまく見つけることができませんでした。
図鑑でしらべる
すぐに図書館に行き、『鳥類の図鑑』を借りてきて調べました。
最初の1ページから、一羽一羽を今見た鳥とくらべたのです。
図鑑を最初から最後まで、3回も調べたでしょうか、それでもピーヨ鳥は見当たりません。
「ひょっとして新種では?」と何度も思ったものでした。
野鳥ではなく、飼い鳥が逃げ出したのかなとも考えました。
ところが、4回目ではじめて、「この鳥はヒヨドリなのではないか?」と思うようになりました。
説明文を読んで、ヒヨドリは波型に飛ぶと書いてあったからです。
図鑑の絵は似てはいても、本物はもっと黒っぽい灰色でしたし、もっと大きな鳥にも思われました。
図鑑では頭のうしろがぼさぼさに立っているけれども、そんなふうには見えなかったし、などとヒヨドリに決めかねていました。
しかし、一度ヒヨドリではないかと思いはじめると、今度は頬の栗色、斑紋のある灰色の体、長めの尾などが一致し、さらにピーヨピーヨと鳴くという説明文から、確証を深めていったのです。
そして自分で勝手につけたピーヨ鳥とヒヨドリが、似ていることにあらためて驚かされたものでした。
今考えれば、ヒヨドリは鳴き声から名づけられたとも言われているので、この一致はさほどふしぎなことではないのかもしれません。
…つづく…
(『自然観察12ヵ月』海野和男編著 岩波ジュニア新書 1983年)