2023年3月13日月曜日

やはり彼岸までは…

雨のあともあってか寒かったです。 
暑さ寒さも彼岸までというけど…
父が今夜は湯たんぽを入れないと眠れないなぁと呟いていました。
昨夜の情熱大陸「佐々木朗希
高校野球地方大会決勝で監督が連投させなかったことがニュースになったときに
監督の決断がすごいと思いました。
今回の取材で実家跡を震災以来、初めてたずねたそうです。
少しずつ街並みも変わってきて、前に進んでいる。僕もしっかり向き合って前に進みたい
野球少年のようにダルビッシュ有選手に教えを乞う姿を見ていると
これからもさらに活躍するだろうと確信しました。
寒いのにと思ったけど…
1時間くらいして帰るときに見るといました。

陸で生きる巻き貝 カタツムリ」(ミクロワールド)
 第2章 大化改新と白村江の敗戦
  白村江
(はくすきのえ)の戦い

 その年(660年)の暮、斉明女帝は難波(なにわ)宮に移って出兵の準備を整(ととの)え、翌661年正月、中大兄(なかのおおえ)・大海人(おおあま)らとともに難波を出発し、各地で兵士を徴発しながら筑紫(つくし)へ向かう。
律令国家の機構が成立し、交通や文書行政のシステムが機能し始めるのには、まだ半世紀以上の時間が必要であった。
この時代には女帝みずからが、吉備(きび<いまの岡山県>)に立ち寄って中国地方の豪族に、伊予(いよ<愛媛県>)に立ち寄って四国地方の豪族呼びかけ、兵士を動員しなければならなかった。

  熟田津(にきたつ)に 船乗(ふなの)りせむと 月待(つきま)てば 潮(しお)もかなひぬ 今(いま)は漕(こ)ぎ出(い)でな

という『万葉集』の有名な歌は、このとき石湯(いわゆ<道後(どうご)温泉>)で歌われた。
(『日本の歴史2 飛鳥・奈良時代』吉田孝 岩波ジュニア新書332 1999年)
 8月、救援軍がやっと編成され、余豊璋(よほうしょう)を百済に護送(ごそう)する。
翌(662)年5月、豊璋の即位式が行なわれ、王を仰(あお)いだ百済復興軍は勢いづき、各地で激戦が続いた。
しかし王の余豊璋と将軍の鬼室福信(きしつふくしん)が対立し、翌663年6月、豊璋は福信を殺してしまう。
 このころから形勢は大きく変化し、唐・新羅の軍は錦江を下り、百済復興軍が立て籠(こ)もる河口の周留(する)城に迫った。
急の知らせを受けて、倭の水軍は錦江の河口(白村江<はくすきのえ>)へ向かった。
 8月17日、唐・新羅軍の周留城を囲み、唐の水軍170艘(そう)は白村江で倭の水軍を待ち受けた。
倭の水軍は、海に近い下流に結集する。
27日、倭の水軍と唐の水軍が戦闘の火蓋(ひぶた)を切り、翌28日、決戦となるが、またたく間(ま)に倭軍は大敗する。

  四(よ)たび戦って捷(か)ち、その舟四百艘を焚(や)く。煙と焔(ほのお)、天に漲(みなぎ)り、海水みな赤し。

と中国の歴史書に記す。
溺死(できし)するものが多く、船の方向を変えて逃げる余裕もなかったという。
 余豊璋は高句麗へ逃亡し、9月7日、周留(する)城は陥落(かんらく)した。
倭の兵士のうち、逃げのびた者は朝鮮南部に集結し、亡命を希望する百済の将軍・兵士とともに、9月25日、帰国の途についた。
(『日本の歴史2 飛鳥・奈良時代』吉田孝 岩波ジュニア新書332 1999年)
  防人(さきもり)

 我(わ)が妻(つま)は いたく恋(こ)ひらし 飲(の)む水(みづ)に 影(かご)さへ見(み)えて よに忘(わす)られず (巻20・4322)

 《歌意》
我が妻はひどく私を恋うているらしい。飲む水に影まで映って、全く忘れられない。
(『万葉集鑑賞事典』神野志隆光編 講談社学術文庫 2010年)
 《鑑賞》
 天平勝宝7(755)年2月、筑紫の遣わされる東国の防人たちの歌は、各国の引率者(部領使<ことりづかい>)を介して兵部少輔大伴家持の下に集められ、巻20に収載された。
当該歌は遠江国麁玉郡(あらたまのこおり<静岡県浜松市浜北区付近>)の主帳丁(しゅちょうてい)、若倭部身麻呂(わかやまとべのみまろ)の作。
防人歌ははおぼ集団内の序列(それは令制以前の国造軍の遺制らしい)に従って配列されていると見られるが、「主帳丁」は「国造丁」「助丁」に次ぐ身分である。
「恋ひらし」は「恋ふらし」、「かご」は「かげ」の東国訛り。
「忘られず」も中央では「忘らえず」と言うところ。
水鏡に妻の面影が見えることから、妻が恋うているらしいと推測するのは、夢に相手が現れるのを相手が自分を思っているためだとしたり(巻17・3977など)、馬が進まないのを家が恋うているのだと言ったり(巻7・1192など)するのと同想である。
しかし妻の顔が忘れられないのは、やはり自分自身家が恋しいのであって、妻が恋うているせいにしているのは、面白くかつ悲しい。
家持は防人たちに同情して、後の自作で、「鶏(とり)が鳴(な)く 東男(あづまをとこ)の 妻別(つまわか)れ 悲(かな)しくありけむ 年(とし)の緒長(をなが)み」(4333)と歌っている。
 韓衣(からころむ) 裾(すそ)に取(と)り付(つ)き 泣(な)く子(こ)らを 置(お)きてそ来(き)ぬや 母(おも)なしにして (巻20・4401)

 《歌意》
韓衣の裾に取り付いて泣く子供を置いて来たことよ。母親もいないのに。
  《鑑賞》
 信濃国小県郡(ちいさかたのこおり<長野県上田市付近>)の「国造」(他国の「国造丁」に同じか)他田舎人(おさたのとねり)大島(おおしま)の歌。
信濃国は、引率の部領使が病気のために上京しなかったと左注にあり、「国造」の彼が防人たちを引率してきたらしい。
「からころむ」は「韓衣(からころも)」の東国訛り。
異国風の衣の意であるが、それを着用しているのは、出発の際の特別な服装かもしれない。
「おも」も、中央で使われることもあるけれども、東国関係の歌に多い語である。
最近、妻を失ったのか、母のいない幼子を残して旅立つた悲痛な思いを歌っている。
こうした血の繋がった者への愛情を歌うことが、防人歌には多い。
ただしそこには、家族愛を歌う山上憶良に傾倒していた家持の志向が、いくばくかは反映していると思われる。
家持は各国の防人歌の数を記したあと、「拙劣」なものは収載しないと4394歌左注に述べており、編集に携わったのは確実であるが、作歌の場に積極的に関わっていた可能性も指摘されている。
 家(いは)ろには 葦火焚(あしふた)けども 住(す)み良(よ)けを 筑紫(つくし)に至(いた)りて 恋(こふ)しけ思(も)はも (巻20・4419)

 《歌意》
家では葦火を焚いても住み良いのを、筑紫についたら恋しく思うだろう。
 《鑑賞》
 武蔵国橘樹郡(たちばなのこおり<神奈川県川崎市・横浜市>)の上丁、物部真根(もののべのまね)の歌。
「葦火」は、「難波人(なにはひと) 葦火焚(あしびた)く屋(や)の すしてあれど 己(おの)が妻(つま)こそ 常(とこ)めづらしき」(難波人が葦火を焚く家のように煤けているが、自分の妻はいつもかわいい)(巻11・2651)などともある。
葦は薪の手に入りにく時に致し方なく使う、煤の多い燃料らしい。
それを焚くような貧しく粗末な家でも、旅先では住み良いところだったと恋しく思うだろうと言うのである。
それは、「家」と旅を対比する、羇旅歌(きりょか)の類型の中にある。
ただし武蔵国の歌は、妻の歌を多く含んでいるので、この歌も作歌の場は武蔵にあったのかも知れない。
この歌は東国訛りが著しい。
防人歌の中でも武蔵国の歌にその傾向が強いように見受けられるが、実際に訛りがきつかったのか、筆録者(部領使か)の態度によるものかは定かでない。
(『万葉集鑑賞事典』神野志隆光編 講談社学術文庫 2010年)
交尾しているのかな?

カタツムリは雌雄同体なんだそうです。
カタツムリの生殖」(東京農工大学 科学なんでも相談室 2014年9月23日)
今朝の父の一枚です(^^)/
いつもトサミズキとヒュウガミズキの区別を迷うのですが…

トサミズキ(マンサク科 トサミズキ属)
 高知県の蛇紋岩地帯や石灰岩地などに自生し、高さ2~4メートルになる。
葉は互生し、長さ5~10センチの倒卵状円形で、基部は心形。
ふちには波状の鋸歯(きょし)がある。
葉の裏や葉柄、花軸、萼、蒴果(さくか)には毛が多い。
3~4月、葉に先立って穂状花序を垂らし、淡黄色の花を7~8個開く。
花弁は5個で長さは7ミリのへら形。
雄しべは5個で花弁より短い。
葯は帯紅色。
蒴果は熟すと2裂し、狭楕円形で光沢のある黒い種子を4個だす。

ヒュウガミズキ(マンサク科 トサミズキ属)
高さは2~3メートル。
葉は長さ2~5センチの卵形で裏面は有毛。
3~4月、長さ約2センチの短い穂状花序に黄色の花が1~3個咲く。
花弁は5個で長さ8~9ミリの倒卵状楕円形。
雄しべは花弁より少し短い。
葯は黄赤色。
蒴果はトサミズキより小さい。
(『日本の樹木(旧版)』林 弥栄編 山と渓谷社 1985年)