2021年3月13日土曜日

雨が止まなかった…

夜中にメールで「竜巻注意報」が届いたのでかなり降ったみたいです。
雨が止んだと思って出かけたら、また降り出しました。
丘の展望台(?)から東の方を見るといつも見える山(生駒方面)が見えなかった。

桜に『600度の法則』13日未明は激しい雨のおそれ」(えりの気象日記 3月12日)
 3月8日の記事で『四季の博物誌』より「つくし」を転記した時に参考文献を見ると
『ツクシのかんさつ 科学のアルバム54』が紹介されていました。
残念ながら品切れになっています。
図書館で借りて読むと、ツクシには、たくさんの秘密があることを知りました。

 ツクシの背くらべ

 ツクシは春のおとずれをつげる第一報です。
春風にふかれて頭をふる姿は、天にむかってなにかをかいているふでのようです。
 ツクシの成長はとても早く、かれ草の上に頭をだすと、十日ぐらいでのびきってしまいます。
ふつうは10センチくらいまでのびますが、かれ草が厚くおおっていたりすると、30センチになることがあります。
 ツクシには、アサガオのような大きな葉がみあたりません。
大きな葉もないのに、どうして成長することができるのでしょう。
(『ツクシのかんさつ 科学のアルバム54』鈴木公治 あかね書房 1988年)
 ツクシの頭の変化
 
 のびはじめのツクシの頭は、六角形のタイルをしきつめたようになっています。
でもツクシがのびるにしたがって、その頭が変化していきます。
 びっしりしきつめたタイルのようだったところに、すきまができてゆるみ、タイルの部分はかさをひろげたようにもちあがってきます。
かさの下には、ふくろがついていることに気がつきましたか。
(『ツクシのかんさつ 科学のアルバム54』鈴木公治 あかね書房 1988年)

機会があれば転記したいと思います。
以下のサイトで動画を見ることができます。
飛び出す胞子 ツクシの秘密」(ミクロワールド)
 大阪歴史博物館のTwitterに

【きょうは何の日?】
3月13日 < 大阪大空襲 > 1945年(昭和20)のこと。
太平洋戦争末期、大阪を襲った8度の大規模爆撃の最初。
この日深夜から翌未明にかけて、米軍機B29の編隊が来襲し、大量の焼夷弾を投下。
市街中心部は焼き尽くされ、全焼家屋13万4千戸、死者・行方不明者4600余名に上った。(ふ)


岩波書店のTwitterには、

今日は原民喜の没後70年。
代表作『夏の花』は、亡き妻の初盆を迎える1945年8月を静かに描いた作品。
突然頭上を襲った一撃。
「ふと己れが生きていることと、その意味が、はっと私を弾いた。このことを書きのこさねばならない」。
吉祥寺・西荻窪間の線路上に身を横たえ自死。


岩波書店刊の原民喜の本
寺田寅彦の「天災と国防」に
人類が進歩するに従って愛国心も大和魂(やまとだましい)もやはり進化すべきではないかと思う
と、大和魂という言葉出てきました。
大和魂も大和心も最初に使ったのは女性たちですが、今では意味が大きく変わっています。
本来の意味ならオリンピックも大和魂があれば中止を決定していると思います。

やまとだましひ【大和魂】
実務を処理する能力。

やまとごころ【大和心】
①(漢詩文の才に対して)実務処理の能力。
(『岩波 古語辞典(旧版)』大野晋他編 岩波書店 1974年)

大和魂、大和心について小林秀雄が若者たちに語っている講義記録があります。
  講義 文学の雑感

 僕はこの頃ずっと本居宣長のことを書いていますので、それに関する感想をお話します。
随分長い事かかっていると言われますが、本居さんは『古事記伝』を書くのに35年もかかっているのです。
余り早く書いては恥しいくらいのものです。
(『学生との対話』講義 小林秀雄、編者 国民文化研究会・新潮社 新潮文庫 平成29年)
  言うまでもなくこの人は大変な学者であったが、学者といっても、今の学者の観念とは全然違うということがなかなか分からないのです。
あの人は七十近くになってやっと『古事記伝』を書き上げましたが、一生のうちに本は出ませんでした。
出版の仕事が間に合わなかったのです。
本が出たのは、あの人が死んでからあとです。
今の学者は原稿を売り、印税を取っています。
昔の学者は本を出すために金をためたのです。
本居さんは小児科の医者で生計を立てていたのですが、いつでも身辺に竹筒を置いて、薬代や治療代の一部を少しずつ竹筒の中に入れてためていた。
『古事記伝』を出版するための費用です。
今日の学者とは大変な違いではありませんか。
  諸君は本居さんのものなどお読みにならないかも知れないが、「敷島(しきしま)の大和心を人問はば朝日に匂(にほ)ふ山桜花(やまざくらばな)」という歌くらいはご存じでしょう。
この有名な歌には、少しもむつかしいところはないようですが、調べるとなかなかむずかしい歌なのです。
(ま)ず第一、山桜を諸君ご存じですか。知らないでしょう。
山桜とはどういう趣の桜か知らないで、この歌の味わいは分かるはずはないではないか。
宣長さんは大変桜が好きだった人で、若い頃から庭に桜を植えていたが、「死んだら自分の墓には山桜を植えてくれ」と遺言を書いています。
その山桜も一流のやつを植えてくれと言って、遺言状には山桜の絵まで描いています。
花が咲いて、赤い葉が出ています。
山桜というもは、必ず花と葉が一緒に出るのです。
諸君はこのごろ染井吉野(そめいよしの)という種類の桜しか見ていないから、桜は花が先に咲いて、あとから緑の葉っぱが出ると思っているでしょう。
あれは桜でも一番低級な桜なのです。
今日の日本の桜の80パーセントは染井吉野だそうです。
これは明治になって広まった桜の新種なのです。
なぜああいう種類がはやったかというと、最も植木屋が育てやすかったからだそうで、植木屋を後援したのが文部省だった。
小学校の校庭にはどこにも桜がありますが、まあ、あれは文部省と植木屋が結託して植えたようなもので、だから小学校の生徒はみなああいう俗悪な花が桜だと教えられて了(しま)うわけだ。
宣長さんが「山桜花」と言ったって分からないわけです。
 「匂う」という言葉もむずかしい言葉だ。
これは日本人でなければ使えないような言葉と言っていいと思います。
「匂う」はもともと「色が染まる」ということです。
「草枕(くさまくら)たび行く人も触れば匂ひぬべくも咲ける萩(はぎ)かも」という歌が万葉集にあります。
旅行く人が旅寝すると萩の色が袖(そで)に染まる、それを「萩が匂う」というのです。
それから「照り輝く」という意味にもなるし、無論「香(か)に匂う」という、今の人が言う香り、匂いの意味にもなるのです。
触覚にも言うし、視覚にも言うし、艶(つや)っぽい、元気のある盛んなありさまも「匂う」と言う。
だから、山桜の花に朝日がさした時には、いかにも「匂う」という感じになるのです。
花の姿や言葉の意味が正確に分らないと、この歌の味わいは分りません。
 宣長さんは遺言状の中で、お墓の格好をはじめ何から何まで詳しく指定しています。
何もかも質素に質素にと指定していますが、山桜だけは本当に見事なものを植えてくれと書いています。
今、お墓参りをしてみると、後の人が勝手に作ったものですが、立派な石垣などをめぐらし、周りにいろいろ碑などを立てている。
しかし肝心(かんじん)の桜の世話などしてはいないという様子です。
実に心ない業(わざ)だと思いました。
 ある桜の大家が神戸にいる。
もう大変な御老年で隠居暮しをされているが、私はこの人から桜のいろいろ面白い話を伺った事がある。
この人は一生桜の事ばかりやって来た。
親からの莫大(ばくだい)な財産を桜の為(ため)に使いはたしたという人です。
この方のお父さんの遺言は、自分は金を遺(のこ)したのだから、お前は金を使え。
金など決してもうけるな。
自分の一番好きな事で、人の為になる事をやって、金をみんな使ってしまえという事だったそうです。
この人は遺言通り、自分の一番好きな桜の研究とその普及の為に一生をささげたと言うのです。
染井吉野というような、低級な桜ではなく、ほんとに一流の山桜を日本に普及させたいと一生努力したが、やはり桜に対する人の愛情というものが根本であって、現代はその根本そのものが失われているのだから駄目であった。
何もかも失敗であったと言うのです。
 失敗談はいくらでもあったが、その一つ、奈良から橿原(かしはら)神宮まで、道にずっと山桜を植えるという運動を、知事が発起人になって起こしたことがある。
そのための非常に優秀な桜をこの人は全部無償で提供した。
ところが田圃(たんぼ)が日蔭(ひかげ)になるというので、県からその補償金をとれという反対運動を或(あ)る政党が主宰して起した。
その人は毎日弁当を持って、百姓を説得して歩いた。
何十年か後のこの参道の桜の満開を想像してみよ、諸君はみな酒をたずさえて花見に行くだろう、日蔭の事なんか、そうなったら諸君は許してくれるに決まっている。
とうとう説得が成功して、桜は全部植えられたのです。
すべてがこの人の献身的努力だったのです。
ところが、それからすぐに戦争になった。
桜はみんな切られて了った。
たき木になってしまったのです。
「今では一本も残って居(お)りません。本当にくやしいことでした」と言っていました。
 財産として最後に残ったのは、桜の苗園でした。
ところが、その土地の横を新幹線が通ることになって、盛り土の泥が必要になり、買上げの問題が起りました。
その土地の泥は、桜に最もよく適した泥で、何十年もかかって、やっと見つけたのだそうです。
竹やぶだった所を買って、竹を全部抜いて苗園にしたのだそうです。
だから政府の指定の換地の泥では駄目なのです。
その人は「あれと同じような泥があったら、私は喜んで換えますよ。それでなければいやだ」と言った。
「そんな土地に桜を植えて、あなたは何をしていいらっしゃるのか」と訊(き)かれたので、「わたしは桜の欲しい人にやっているのです」と言った。
しかし、誰もそんなことを信じる人はいないのです。
そこへNHKが来て、テレビで貴方(あなた)の言い分を国民に訴えたらどうかというので、喜んで訴えたのだそうです。
ところが後でテレビを見ると、いろいろな同じような事件の一つにそれが組みこまれていて、ごね得をする男の例の一つになっていた。
「これも非常にくやしかった一例です」と言っていました。
 宣長さんの頃は、日本で桜に関する好みも教養も一番高度に発達していた時だと、その人は言っていました。
桜についての学問、勿論(もちろん)これは実地の学で机上の学ではないが、その研究が一番盛んで、日本の国民が桜というものに本当に愛情と生きた知識を持った頃だというのです。
それで隅田川とか、その他どこでも桜の名所がありました。
江戸市民は皆、お花見を楽しんでいたのです。
今は全部亡(ほろ)びました。
ところで、誰がそれを世話していたか。
大変な費用がかかる桜の苗園の用意はどこでしていたのか。
それは千代田城の中にあり、幕府が全部やっていたのです。
幕府としては、全くそれはあたり前の常識だったのです。
それくらい、国民は誰もが桜というものを愛していたのです。
(『学生との対話』講義 小林秀雄、編者 国民文化研究会・新潮社 新潮文庫 平成29年)
続く
今朝の父の一枚です(^_^)v
カワセミを写せて大満足です!

水辺の名手たち

 カワセミは色鮮やかな鳥だ。
頭から体の上面は光沢のある青緑色、背の部分は美しいるり色、ほおと体の下面は赤褐色で喉は白い。
「水辺の宝石」などと形容する人さえある。
太っていて頭が大きく、尾は短いし、嘴(くちばし)も太くて大きいのでスタイルはいいとは言えないが、そのダイビングは素晴らしい。
水面につき出した木の枝や杭(くい)、石の上から、魚をねらって急に水中の飛び込み餌物を嘴で捕える。
水面上1~1.5メートルの空中に停空飛翔(ひしょう)をしてから飛び込むという妙技も見せる。
(後略)
(『野鳥の歳時記1 春の鳥』日本鳥類保護連盟監修 小学館 昭和59年)