2021年3月10日水曜日

冷たい風の中にも

今朝も冷たい風が吹いていましたが
歩いているとハナノキが咲き出していたリ
ヤマザクラがポツポツ咲いていたリしているのを見ると春だなと思います(^^)v

10日は晴れ間広がる」(えりの気象日記 3月9日)
夕刊に
戦災孤児の海老名さんへ、米大使からの便り 東京大空襲の犠牲者、悼む集い開催に「感謝」〟(朝日新聞)
(前略)

東京大空襲があった時は、学童疎開で静岡の叔母の家に身を寄せていた。
1945年3月10日未明、空襲警報が鳴り響く中、近くの山に登って東京の方角を見ると、ぼおっと赤くなっていた。
「どうか家族を助けて下さい」と拝んだが、数日後、訪ねてきた2歳上の兄に「みんな死んじゃった」と告げられた。
祖母、両親、2人の兄、弟の計6人が亡くなったことを知った。
 その後は親戚や知人の家を転々としたという海老名さん。
中学にはほとんど通えず、時には雑草を食べて空腹を紛らわせた。
遺族証明書や罹災(りさい)証明書がどこでもらえるかもわからなかった。
今も正式な遺族として認められていないため、「東京都が毎年開く慰霊祭には招待されないんです」と明かす。
(後略)
いつもその言葉遊び(?)に座布団を何枚もあげたくなる!

デーブ・スペクターさんのTwitterに

総務省に問い合わせてみたら「調査は全て官僚しました」と言われちゃった

そして 田中均さんのTwitterには、

拉致・核で交渉した北朝鮮の将軍は、後に権力闘争に敗れ銃殺されたと聞く。
彼は「田中さん、あなたが何か失敗しても更迭だろうが、私は死ぬ」と言っていた。
民主主義国日本で、死を賭ける必要がないないのは幸せだが、
高級接待といった公務員のマナーで更迭されていくのは、いかにも侘しい。

去年、よく聞かれた言葉が「正しく恐れる」だったかなぁ…
もとになったのは寺田寅彦の言葉だと思うのだけど、ちょっとニュアンスが違うと思う。

(「小爆発二件」より)

 ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。
(『寺田寅彦随筆集第5巻』岩波文庫 1948年 1963年改版)
Eテレ100分de名著「災害を考える」の第1回目は
寺田寅彦「天災と日本人」 ~「自然」とのつながり~〟でした。

番組の中で紹介されていた随筆「天災と国防」を数回に分けて転記したいと思います。
この「天災と国防」が発表されたのは昭和9年。
前年には国際連盟から脱退、瀧川事件、小林多喜二が検挙され築地署で虐殺など、
昭和9年には室戸台風、東北地方では凶作のために娘の身売りなどがありました。

国際連盟脱退へ」(NHKアーカイブス)

1934年の室戸台風被害を記録した映像」(朝日新聞 YouTube)
   天災と国防

 「非常時」というなんとなく不気味なしかしはっきりした意味のわかりにくい言葉がはやりだしたのはいつごろからであったか思い出せないが、ただ近来何かしら日本全国土の安寧を脅かす黒雲のようなものが遠い水平線の向う側からこっそりのぞいているらしいという、言わば取り止めのないない悪夢のような不安の陰影が国民全体の意識の底層に揺曳(ようえい)していることは事実である。
そうして、その不安の渦巻(うずまき)の回転する中心点はと言えばやはり近き将来に期待される国際的折衝の難関であることはもちろんである。
(『寺田寅彦随筆集第5巻』岩波文庫 1948年 1963年改版)
 そういう不安をさらにあおり立てでもするように、ことしになってからいろいろの天変地異が踵(くびす)を次いでわが国土を襲い、そしておびただしい人命と財産を奪ったように見える。
あの恐ろしい函館(はこだて)の大火や近くは北陸地方の水害の記憶がまだなまなましいうちに、さらに9月21日の近畿地方大風水害が突発して、その損害は容易に評価できないほど甚大(じんだい)なものであるように見える。
国際的のいわゆる「非常時」は、少なくも現在においては、無形な実証のないものであるが、これらの天変地異の「非常時」は最も具象的な眼前の事実としてその惨状を暴露しているのである。
 一家のうちでも、どうかすると、直接の因果関係の考えられないようないろいろな不幸が頻発(ひんぱつ)することがある。
すると人はきっと何かしら神秘的な因果応報の作用を想像して祈禱(きとう)や厄払(やくばら)いの他力にすがろうとする。
国土に災禍の続起する場合にも同様である。
しかし統計に関する数理から考えてみると、一家なり一国なりにある年は災禍が重畳しまた他の年には全く無事な回り合わせが来るということは、純粋な偶然の結果としても当然期待されうる「自然変異(ナチュラルフラクチュエーション)」の現象であって、別に必ずしも怪力乱神を語るには当たらないであろうと思われる。
悪い年回りはむしろいつかは回って来るのが自然の鉄則であると覚悟を定めて、良い年回りの間に充分の用意をしておかなければならないことは、実に明白すぎるほど明白なことであるが、またこれほど万人がきれいに忘れがちなこともまれである。
もっともこれを忘れているおかげで今日を楽しむことができるのだという人があるかもしれないのであるが、それは個人めいめいの哲学に任せるとして、少なくも一国の為政の枢機に参与する人々だけは、この健忘症に対する診療を常々怠らないようにしてもらいたいと思う次第である。
 日本はその地理的の位置がきわめて特殊であるために国際的にも特殊な関係が生じいろいろな仮想敵国に対する特殊な防備の必要を生じると同様に、気象学的地球物理学的にもまたきわめて特殊な環境の支配を受けているために、その結果として特殊な天変地異に絶えず脅かされなければならない運命のもとに置かれていることを一日も忘れてはならないはずである。
 地震津波台風のごとき西欧文明諸国の多くの国々にも全然無いとは言われないまでも、頻繁(ひんぱん)にわが国のような激甚(げきじん)な災禍を及ぼすことははなはだまれであると言ってもよい。
わが国のようにこういう災禍の頻繁であるということは一面から見ればわが国の国民性の上に良い影響を及ぼしていることも否定し難いことであって、数千年来の災禍の試練によって日本国民特有のいろいろな国民性のすぐれた諸相が作り上げられたことも事実である。
 しかしここで一つ考えなければならないことで、しかもいつも忘れがちな重大な要項がある。
それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。
 人類がまだ草昧(そうまい)の時代を脱しなかったころ、がんじょうな岩山の洞窟(どうくつ)の中に住まっていたとすれば、たいていの地震や暴風でも平気であったろうし、これらの天変によって破壊されるべきなんらの造営物をも持ち合わせなかったのである。もう少し文化が進んで小屋を作るようになっても、テントか掘っ立て小屋のようなものであって見れば、地震にはかえって絶対安全であり、またたとえ風に飛ばされてしまっても復旧ははなはだ容易である。
とにかくこういう時代には、人間は極端に自然に従順であって、自然に逆らうような大それた企ては何もしなかったからよかったのである。
 文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。
そうして、重力に逆らい、風圧水力に抗するようないろいろの造営物を作った。
そうしてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻(おり)を破った猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊(ほうかい)させて人命を危うくし財産を滅ぼす。
その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であると言っても不当ではないはずである、災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやが上にも災害を大きくするように努力しているものはたれあろう文明人そのものなのである。
 もう一つ文明の進歩のために生じた対自然関係の著しい変化がある。
それは人間の団体、なかんずくいわゆる国家あるいは国民と称するものの有機的結合が進化し、その内部構造の分化が著しく進展して来たために、その有機系のある一部の損害が系全体に対してはなはだしく有害な影響を及ぼす可能性が多くなり、時には一小部分の傷害が全系統に致命的となりうる恐れがあるようになったということである。
 単細胞動物のようものでは固体を切断しても、各片が平気で生命を持続することができるし、もう少し高等なものでも、肢節(しせつ)を切断すれば、その痕跡(こんせき)から代わりが芽を吹くという事もある。
しかし高等動物になると、そういう融通がきかなくなって、針一本でも打ち所次第では生命を失うようになる。
 先住アイヌが日本の大部に住んでいたころにたとえば大正十二年の関東大震か、今度の九月二十一日のような台風が襲来したと想像してみる。
彼らの宗教的畏怖(いふ)の念はわれわれの想像以上に強烈であったろうが、彼らの受けた物質的損害は些細(ささい)なものであったに相違ない。
前にも述べたように彼らの小屋にとっては弱震も烈震も効果においてたいした相違はないであろうし、毎秒二十メートルの風も毎秒六十メートルの風もやはり結果のおいてほぼ同等であったろうと想像される。
そうして、野生の鳥獣が地震や風雨に堪えるようにこれら未開の民もまた年々歳々の天変を案外楽にしのいで種族を維持して来たに相違ない。
そうして食物も衣服も住居もめいめいが自身の労力によって獲得するのであるから、天災による損害は結局各個人めいめいの損害であって、その回復もまためいめいの仕事であり、まためいめいの力で回復し得られないような損害は始めからありようがないはずである。
 文化が進むに従って個人が社会を作り、職業の分化が起こって来ると事情は未開時代と全然変わって来る。
天災による個人の損害はもはやその個人だけの迷惑では済まなくなって来る。
村の貯水池や共同水車小屋が破壊されれば多数の村民は同時にその損害の余響を受けるであろう。
怪力乱神を語る――『論語』述而(じゅつじ)第七に、「子、怪力乱神を語らず」とある。
(『寺田寅彦随筆集第5巻』岩波文庫 1948年 1963年改版)

続く

ここでアイヌの人たちについて触れておられるのですが
これを読んで思いだしたのは
ETV特集「帰郷の日は遠く~アイヌ遺骨返還の行方~」(2月20日)
明治以降、アイヌの遺骨を研究者らが各地の墓地などから持ち去り保管していました。
お墓から遺骨を持ち去ることになんの良心の呵責がなかったのか?
アイヌの人たちと研究者とどちらが野蛮(未開)なのだろうかと思う。

正当化するためにこんな蛮行ができるんだ!
ミャンマー デモで犠牲の女性遺体 墓掘り起こしに非難の声」(NHK 3月7日)