2021年3月9日火曜日

朝はひんやりとして

歩いていても寒さを感じたけど、
帰る頃には駐車場の止めていた車に戻ると窓を開けるほど暖かい。

9日は朝ひんやり 日中暖かい」(えりの気象日記 3月8日)
 公園で街頭インタビューかな?
ビデオカメラらしきものが見えなかったからラジオかな?
らいよん」らしき着ぐるみが見えたので…
けさのEテレ0655のオープニングで

桜は、夏に翌年のための花芽をつけ、秋ごろにいったん休眠に入ります。
そして冬になり、一定期間低温にさらされることで眠りからさめ、開花の準備をはじめます。
これを「休眠打破
(きゅうみんだは)」とよびます。
寒い冬があるからこそ美しく咲くんですね!


桜開花に寒さも大切」(気象キャスターネットワーク)
女性3人目の最高裁判事・桜井龍子さんが感じた男性の想像力の限界」(毎日新聞 3月8日)
このような意見を表明すると、政治的に中立な裁判官がという批判は起きます。

しかし、Eテレの「RBG 最強の85才」にはアメリカにおいては、
連邦最高裁の裁判官の選任は、上院の『助言と同意』(Advice and Consent.)を要する
ことが描かれていました。
ギンズバーグさんは、その場でご自身の信念を述べられていました。

日本では、そのような場がなく、最高裁長官を内閣が指名、天皇によって任命されます。
最高裁判事は、内閣が任命し、天皇が認証します。
(「最高裁判所」)
そのため私たちには最高裁判事がどのような信条を持っておられるかわかりません。
ただ、私の学生時代に団藤重光氏は法律を学ぶ者には「死刑廃止」論者として知られていました。

死刑廃止 - 著名人メッセージ:団藤重光さん(東京大学名誉教授、元最高裁判所判事)」(アムネスティ)
(「梟雄」続き)

  ★

 その年の秋、三男の喜平次を一色右兵衛大輔(いっしきうひょうえのたいふ)とした。
これいにいずれは後をゆずる腹であった。
道三は下の子ほど可愛いのだ。
「喜平次はオレも及ばぬ利口者」
 こう云って崇敬したが、誰もその気になってはくれなかった。
しかし道三は大いに喜平次を崇敬して満足であった。
 そして、十一月二十二日、例年通り山下の館で冬を越すために城を降りた。
(『坂口安吾歴史小説コレクション第1巻 狂人遺書』七北数人編 春陽堂書店 2018年)
 義龍は十月十三日から病気が重くなって、臥(ふ)せっていた。
道三が冬ごもりから戻るころには大方死んでいるだろうという話であった。
道三もそれを疑わなかった。
要するに、そんなものか、と城を降りたのである。
 しかるに義龍の病気は仮病であった。
道三が山下へ降りたので、道三の兄に当る長井隼人正(はやとのしょう)が義龍の使者となり、喜平次と孫四郎を迎えにきた。
「義龍が死期がきて、いまわに言いのこすことがあるそうだから」
  伯父が使者だから二人とも疑わない。
そして兄の病室へはいったところを、待ちぶせた人々の斬り殺されてしまったのである。
 この報をきくと、道三はただちに手兵をまとめて美濃の山中へ逃げこんだ。
翌年四月まで山ごもりして、四月十八日、六尺五寸の悪霊と決戦のために山中を出て鶴山(つるやま)に陣をはったのである。

   ★

 道三が義龍に城をとられて山中へ逃げこんだから、それまで鳴りをしずめていた信長の敵は色めきはじめた。
織田伊勢守のように、たちまち義龍と組んで信長の城下を焼き払う者もあり、やがて一時に味方の中から敵がむらがり立つ形勢がちかづいていた。
 四月十八日に道三が出陣と分ったが、もし信長が道三の援軍にでかけると、その留守に彼もまた城をまきあげられる怖れがあった。
誰がまきあげるか分らないが、親類も重臣も、いつ背いてもフシギのないのがズラリとそろっているのであった。
 しかし、道三を助けたい。
勝敗をともかくとして、この援軍に出ることをしないようでは、織田信長という存在は無にひとしいと彼は思った。
 しかし、その留守に城をまきあげられるようでは、道三を苦笑させるだけの話であろう。
二十三歳の信長は全身の総血をしぼってこの難局と格闘した。
 尾張の本来の守護職は斯波(しば)氏であった。
その子孫は信長の居候(いそうろう)をしていた。
 三河には足利将軍家の次の格式をもつ吉良(きら)氏が落ちぶれて有名無実の存在となっていた。
今川氏の世話をうけていたが、今川よりも一ツ格式は上の名家であった。
 信長は今川に使者をだし、今後斯波氏を立てて尾張の大守とするから、三河も吉良を大守とたて、両家のヨシミを結びたいと申し送り、今川の同意を得た。
すでに四月だ。
 信長は斯波氏を送って三河へ行き吉良氏と斯波氏参会、式礼をあげて、ヨシミをとげて、尾張へ戻る。
つづいて、斯波氏を尾張の国守と布告する。
自分は城の本丸を居候の斯波氏に明け渡し、それまで斯波氏が居候をしていた北屋敷へ引越して隠居した。
 こうしておいて、急いで美濃へかけつけた。
もう道三の出陣だった。
 自分の城が今では自分の城でなくて、斯波氏の城だ。
彼はそこの居候の隠居にすぎない。
この計略によって、信長の敵が彼の城を分捕ることを遠慮するかどうか。
そこまでは分らないが、これが信長の総血をふりしぼって為し得たギリギリの策であった。
  しかし道三は信長の援軍などは当(あて)にしていなかった。
そのとき信長の所有した兵力は千かせいぜい千五百だ。
美濃には万をこす精鋭がそろっているのだ。
もっとも、兵力の問題ではない。
人情などは、オックウだ。
援軍などは、よけいなことだ。
「小僧め。ひどい苦労をして、大汗かいているじゃないか。無理なことをしたがる小僧だ」
 道三は苦笑したが、さすがにバカヤローのやることは、バカヤローらしく快いと小気味よく思った。
 道三は信長を自分の陣の近所へ寄せつけなかった。
味方の家来もずッと後へひきさげた。
 道三は鶴山を降り、長良川の河原へでて陣をしいた。
身のまわりに自分のわずかな親兵だけひきつれて、一番前へ陣どったのだ。
「鉄砲の道三が、鉄砲ごと城をとられては、戦争らしく戦争をする気持にならないわさ」
 道三は笑って云った。
「お手本にある戦争を見せてやることができないのは残念だが、悪党の死にッぷりを見せてやろう」
 そして家来と別れる時にこう云った。
「今日は戦争をしないのだから、オレは負けやしないぜ。ただ死ぬだけだ」
 道三はヨロイ、カブトの上に矢留めのホロをかぶって、河原の一番前に床几(しょうぎ)をださせてドッカと腰をかけた。
 敵の先陣は竹腰道塵(たけごしどうじん)兵六百。
河を渡って斬りかかったが、敵方に斬り敗け、道三は道塵を斬りすてて、血刀をふりさげて床几に腰かけ、ホロをゆすって笑った。
 つづいて敵の本陣が河を渡ってウンカのように突撃し、黒雲のような敵の中で道三はズタズタに斬られていた。
(『坂口安吾歴史小説コレクション第1巻 狂人遺書』七北数人編 春陽堂書店 2018年)
以上で『梟雄』は終りますが、坂口安吾が書いたのは1953年6月「文藝春秋」。
その後、斎藤道三について新たな史料が発見されています。
新たな史料の発見により、定説が書き換えられることがあります。
このブログで紹介している記事の中には、新たな史料の発見により書き換えられたものもあります。
興味を持たられたらご自身で調べてみて下さい。歴史は、面白いです。
戦国時代の開幕
  道三、美濃を奪う
 道三、美濃に入る


 戦国前期に登場し、下剋上(げこくじょう)の典型という意味で早雲とならび称される斎藤道三(どうさん)は、明応3年(1494)に生まれたと伝えられる。
それは早雲が小田原を取る直前ごろにあたるから、早雲と道三とではゆうに一世代も年齢がちがう。
けれども、道三は20歳代のうちに美濃で活動をはじめているから、二人はやはり戦国前期の人物といってよい。
道三の伝記は霧につつまれているが、通説的には次のようなものである。
(『戦国時代』永原慶二 講談社学術文庫 2019年)
 道三は、北面の武士の家筋に属し、京都西南郊の西ヶ岡(にしがおか)にいた松波左近将監基宗(まつなみさこんのしょうげんもとむね)の子として生まれ、11歳のとき京都の日蓮宗妙覚寺(みょうかくじ)に入って法蓮房(ほうれんぼう)とよばれた。
のち、寺をとびだして松波庄五郎と名乗り、京都西南部西ヶ岡の油搾(あぶらしぼ)り商人奈良屋又兵衛の娘を妻として山崎屋庄五郎と改め、諸国に油を売り歩いた。
 しかし、かれはまだ20歳代のうちに縁をもとめて美濃国の守護土岐(とき)家の重臣長井長弘(ながひろ)に接近した。
長弘はこのころ稲葉山城の守将であったが、家臣西村三郎左衛門尉正元(さえもんのじょうまさもと)の死後、そのあとを庄五郎につがせて西村勘九郎正利と名乗らせ、やがて鷺山(さぎやま)城にいた守護大名土岐頼芸(よりなり)に仕えさせた。
――これが『美濃国諸旧記』などをもととして語り伝えられてきた道三のナゾの前半生の筋書きである。
 しかし戦後発見された「春日倬一郎氏所蔵文書」の中の「六角承禎(しょうてい)条書」には、妙覚寺から還俗(げんぞく)して美濃に来たのは道三の父(西村新左衛門尉)で、長井氏を名乗り、その子の道三が長井新九郎規秀(のりひで)と称したこと、のち改姓して斎藤利政と称したことなどが記されている。
この史料は信頼度の高いものである。
したがってこれをふまえれば、道三の国盗(くにと)りは父子二代の事業だったことになる。
 当時の美濃では四代にわたり実力を振っていた守護代斎藤氏が没落し、守護の土岐家も乱れて混乱がつづいていた。
たまたま妙覚寺時代に共に修行僧であった日運(にちうん)が、長井長弘の弟で美濃常在寺の住職になっていたことから道三の父が長井氏に接近し、この国に触手をのばしていった、というのが事実らしい。 
(『戦国時代』永原慶二 講談社学術文庫 2019年)
今日は、マウスピースと歯周病の予防があったのでショートコースで歩き歯科へ
待合室で読んでいたのが『命の救援電車 大阪大空襲の奇跡

見ていないのですが朝ドラ「ごちそうさん」で
ヒロインのめ以子の夫・西門悠太郎は「地下鉄1号線」の建設に関わり、
大阪大空襲のさなか、め以子たちが地下鉄の心斎橋駅構内に逃げこむシーンが描かれていたようです。
大阪で、朝ドラの舞台となった建築をおさらい」(婦人画報 2016年3月31日)

今月の100分de名著災害を考えるシリーズ
第2回 柳田国男「先祖の話」 ~「死者」とのつながり~
 『先祖の話』が書かれたのは1945(昭和20)年、東京が大空襲に見舞われ、その後も4度にわたって爆撃を受けているさなかのことです。
すでに七十代を迎えた彼は、何かに突き動かされるように、この論稿を猛烈な勢いで書き上げました。

(『100分de災害を考える』若松英輔 NHK出版 2021年)

東京大空襲は1945年3月10日未明、12日未明に名古屋、13日深夜から14日未明に大阪が空襲に襲われました。

番組の最後のほうで「かなしい」を「(かな)しい」と書くことが紹介されていました。

かな・し【愛し・悲し】〘形シク〙
《自分の力ではとても及ばないと感じる切なさをいう語。動詞カネと同根であろう。カネ・カナシの関係は、ウレヘ(憂)・ウレハシの類》
①どうしようもないほど切なく、いとしい。かわいくてならなぬ。(例文省略、以下同じ)
②痛切である。何ともせつない。
③ひどくつらい。
④《「楽し」の対》貧苦である。貧しい。
⑤どうにも恐ろしい。こわくてたまらない。
(『岩波古語辞典(旧版)』大野晋他編 岩波書店 1974年)