2021年3月11日木曜日

10年経つんだ…

枝垂れ桜を見ると午後には花が開きそうでした。
あれから10年経つんですね。
小学校1年に入学して、中学卒業までが9年。
中学1年生だったら高校、大学を卒業して新社会人になっている。

私も心筋梗塞そして肺炎を併発したのが10年前の7月31日(肺炎は8月2日)。
毎日、不安を抱えながらやってきました。
 安田菜津紀さんのTwitterに

2011年3月11日、私はフィリピンにいた。
スラム街に暮らす人々がすぐに、「これくらいしかできないけれど」と「1ペソ募金」をはじめ、
日本の被災地のために少しずつ寄付を集めてくれた。
明日の生活もままならないはずなのに。
忘れないよ。
又吉直樹のヘウレーカ!
東日本大震災10年 小さな微生物の大きな力とは?

東京大学の鈴木庸平さんが番組の最後に語っていたのは

自然は人がひれ伏すしかない大きなもので
今までは、そういうものを神とあがめて崇高してきたんですけど
今、科学技術によって、なんか、自然を理解したみたいな
そういうのが逆に自然に対して間違った捉え方をしているんじゃないかなと
“想定外”というのが多いんですけど、
そもそも想定していた自然は何なんだろう
そういうことを考え直して、自然と向き合っていかないと
やっぱり、また、同じような悲劇が繰り返されてしまって
僕は、学生に言っていることは
「自然をなめたらいかんぜよ」
ということを。
そういう目で自然をちゃんと見て
ああ、もう、なんか分かったような気にならないでねっていう。


寺田寅彦の考えそのものですよね。
天災と国防」の続きを転記しますφ(..)
  二十世紀の現代では日本全体が一つの高等な有機体である。
各種の動力を運ぶ電線やパイプやが縦横に交差し、いろいろな交通網がすきまなく張り渡されているありさまは高等動物の神経や血管と同様である。
その神経や血管の一か所に故障が起こればその影響はたちまち全体に波及するであろう。
今度の暴風で畿内(きない)地方の電信が不通になったために、どれだけの不都合が全国に波及したかを考えてみれば事は了解されるであろう。
(『寺田寅彦随筆集第5巻』岩波文庫 1948年 1963年改版)
  これほどだいじな神経や血管であるから天然の設計に成る動物体内でこれらの器官が実に巧妙な仕掛けで注意深く保護されているのであるが、一国の神経であり血管である送電線は野天に吹きさらしで風や雪がちょっとばかりつよく触れればすぐに切断するのである。
市民の栄養を供給する水道はちょっとした地震で断絶するのである。
もっとも、送電線にしても工学者の計算によって相当な風圧を考慮し若干の安全係数をかけて設計してあるはずであるが、変化のはげしい風圧を静力学的に考え、しかもロビンソン風速計で測った平均風速だけを目安にして勘定したりするようなアカデミックな方法によって作ったものでは、弛張(しちょう)のはげしい風の息の偽週期的衝撃に堪えないのはむしろ当然のことである。
 それで、文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。
そのおもなる原因は、畢竟(ひっきょう)そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顚覆(てんぷく)を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。
  しかし昔の人間は過去の経験を大切に保存してその教えにたよることがはなはだ忠実であった。
過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時に試練に堪えたような建築様式のみを墨守して来た。
それだからそうした経験に従って造られたものは関東大震災でも多くは助かっているのである。
大震後横浜から鎌倉へかけて被害の状況を見学に行ったとき、かの地方の丘陵のふもとを縫う古い村家が存外平気で残っているのに、田んぼの中に発展した新開地の新式家屋がひどくめちゃめちゃに破壊されているのを見た時につくづくそういう事を考えさせられたのであったが、今度の関西の風害でも、古い神社仏閣などは存外あまりいたまないのに、時の試練を経ない新様式の学校や工場が無残に倒壊してしまったという話を聞いていっそうその感を深くしている次第である。
やはり文明の力を買いかぶって自然を侮り過ぎた結果からそういうことになったのではないかと想像される。
新聞の報ずるところによると幸いに当局でもこの点に注意してこの際各種建築被害の比較的研究を徹底的に遂行することになったらしから、今回の苦(にが)い経験がむだになるような事は万に一つもあるまいと思うが、しかしこれは決して当局者だけに任すべき問題ではなく国民全体が日常めいめいに深く留意すべきことであろうと思われる。
 小学校の倒壊のおびただしいの実に不可思議である。
ある友人は国辱中の大国辱だと言って憤慨している。
ちょっと勘定してみると普通家屋の全壊百三十五に対し学校の全壊一の割合である。
実に驚くべき比例である。
これはいろいろの理由があるであろうが、要するに時の試練を経ない造営物が今度の試練でみごとに落第したと見ることができるであろう。
 小学校建築には政党政治の宿弊(しゅくへい)に根を引いた不正な施工がつきまとっているというゴシップもあって、小学生を殺したのは〇〇議員だと皮肉をいうものさえある。
あるいは吹き抜き廊下のせいだというはなはだ手取り早で少し疑わしい学説もある。
あるいはまた大概の学校は周囲が広い明き地に囲まれているために風当たりが強く、その上に二階建てであるためにいっそういけないという解釈もある。
いずれもほんとうかもしれない。
しかしいずれにしても、今度のような烈風の可能性を知らなかったあるいは忘れていたことがすべての災厄(さいやく)の根本原因である事には疑いない。
そうしてまた、工事に関係する技術者もわが国特有の気象に関する深い知識を欠き、通り一ぺんの西洋直伝(じきでん)の風圧計算のみをたよりにしたためもあるのではないかと想像される。
これについてははなはだ僭越(せんえつ)ながらこの際一般工学者の謙虚な反省を促したいと思う次第である。
天然を相手にする工事では西洋の工学のみにたよることはできないのではないかというのが自分の年来の疑いであるからである。
 今度の大阪や高知県東部の災害は台風による高潮のためにその惨禍を倍加したようである。
まだ充分な調査資料を手にしないから確実なことは言われないが、最もひどい損害を受けたおもな区域はおそらくやはり明治以後になってから急激に発展した新市街地ではないかと想像される。
災害史によると、難波(なにわ)や土佐(とさ)の沿岸は古来しばしば暴風時の高潮のためになぎ倒された経験をもっている。
それで明治以前にはそういう危険のあるような場所には自然に人間の集落が稀薄になっていたのではないかと想像される。
古い民家の集落の分布は一見偶然のようであっても、多くの場合にそうした進化論的の意義があるからである。
そのだいじな深い意義が、浅薄な「教科書学問」の横行のために蹂躙(じゅうりん)され忘却されてしまった。
そうして付け焼き刃の文明に陶酔した人間はもうすっかり天然の支配に成功したとのみ思い上がって所きらわず薄弱な家を立て連ね、そうして枕(まくら)を高くしてきたるべき審判の日をうかうかと待っていたのではないかという疑いも起こし得られる。
もっともこれは単なる想像であるが、しかし自分が最近に中央線の鉄道を通過した機会に信州(しんしゅう)や甲州(こうしゅう)の沿線における暴風被害を瞥見(べっけん)した結果気のついた一事は、停車場付近の新開町の被害が相当多い場所でも古い昔から土着と思われる村落の被害が意外に少ないという例の多かった事である。
これは、一つには建築様式の相違によるであろうが、また一つにはいわゆる地の利によるであろう。
旧村落は「自然淘汰(しぜんとうた)」という時の試練に堪えた場所に「適者」として「生存」しているのに反して、停車場というものの位置は気象的条件などということは全然無視して官僚的政治的経済的な立場からのみ割り出して決定されているためではないかと思われるからである。
 それはともかく、今度の風害が「いわゆる非常時」の最後の危機の出現と時を同じゅうしなかったのは何よりのしあわせであったと思う。
これが戦禍と重なり合って起こったとしたらその結果はどうなったであろうか、想像するだけでも恐ろしいことである。
弘安(こうあん)の昔と昭和の今日とでは世の中が一変していることを忘れてはならないのである。
 戦争はぜひとも避けようと思えば人間の力で避けられなくはないであろうが、天災ばかりは科学の力でもその襲来を中止させるわけには行かない。
その上に、いついかなる程度の地震暴風津波洪水が来るか今のところ容易に予知することができない。
最後通牒(さいごつうちょう)も何もなしに突然襲来するのである。
それだから国家を脅かす敵としてこれほど恐ろしい敵はないはずである。
もっともこうした天然の敵のためにこうむる損害は敵国の侵略によって起こるべき被害に比べて小さいという人があるかもしれないが、それは必ずしもそうは言われない。
たとえば安政元年の大震のような大規模なものが襲来すれば、東京から福岡に至るまであらゆる大小都市の重要な文化設備が一時に脅かされ、西半日本の神経系統と循環系統に相当ひどい故障が起こって有機体としての一国の生活機能に著しい麻痺症状(まいひしょうじょう)を惹起(じゃっき)する恐れがある。
万一にも大都市の水道貯水池の堤防でも決壊すれば市民がたちまち日々の飲用水に困るばかりでなく、氾濫(はんらん)する大量の流水の勢力は少なくも数村を微塵(みじん)になぎ倒し、多数の犠牲者を出すであろう。
水電の堰堤(えんてん)が破れても同様な犠牲を生じるばかりか、都市は暗やみになり肝心の動力網の源が一度に涸(か)れてしまうことになる。
 こういうこの世の地獄の出現は、歴史の教うるところから判断して決して単なる杞憂(きゆう)ではない。
しかも安政年間には電信も鉄道も電力網も水道もなかったから幸いであったが、次に起こる「安政地震」には事情が全然ちがうということを忘れてはならない。
 国家の安全を脅かす敵国に対する国防策は現に政府当局の間で熱心に研究されているであろうが、ほとんど同じように一国の運命に影響する可能性の豊富な大天災に対する国防策は政府はどこでだれが研究していかなる施設を準備しているかはなはだ心もとないありさまである。
思うに日本のような特殊な天然の敵を四面に控えた国では、陸軍海軍のほかにもう一つ科学的国防の常備軍を設け、日常の研究と訓練によって非常時に備えるのが当然ではないかと思われる。
陸海軍の防備がいかに充分であっても肝心な戦争の最中に安政程度の大地震や今回の台風あるいはそれ以上のものが軍事に関する首脳の設備に大損害を与えたらいったいどういうことになるであろうか。
そういうことはめったにないと言って安心していてもよいものであろうか。
 わが国の地震学者や気象学者は従来かかる国難を予想してしばしば当局と国民とに警告を与えたはずであるが、当局は目前の政務に追われ、国民はその日の生活にせわしくて、そうした忠言に耳をかす暇(いとま)がなかったように見える。
誠に遺憾なことである。
 台風の襲来を未然に予知し、その進路とその勢力の消長とを今よりもより確実に予測するためには、どうしても太平洋上ならびに日本海上に若干の観測地点を必要とし、その上にまた大陸方面からオホツク海方面までも観測網を広げる必要があるように思われる。
しかるに現在では細長い日本島弧(にほんとうこ)の上に、言わばただ一連の念珠のように観測所の列が分布しているだけである。
たとえて言わば奥州街道(おうしゅうかいどう)から来るか東海道から来るか信越線から来るかもしれない敵の襲来に備えるために、ただ中央線の沿線だけに哨兵(しょうへい)を置いてあるようなものである。
 新聞記事によると、アメリカでは太平洋上に浮き飛行場を設けて横断飛行の足がかりにする計画があるということである。
うそかもしれないがしかしアメリカ人にとっては充分可能なことである。
もしこれが可能とすれば、洋上に浮き観測所の設置ということもあながち学究の描き出した空中楼閣だとばかりは言われないであろう。
五十年百年の後にはおそらく常識的になるべき種類のことではないかと想像される。
 人類が進歩するに従って愛国心も大和魂(やまとだましい)もやはり進化すべきではないかと思う。
砲煙弾雨の中に身命を賭(と)して敵の陣営に突撃するのもたしかに貴(たっと)い大和魂であるが、〇国や△国よりも強い天然の強敵に対して平生から国民一致協力して適当な科学的対策を講ずるのもまた現代にふさわしい大和魂の進化の一相として期待してしかるべきことではないかと思われる。
天災の起こった時に始めて大急ぎでそうした愛国心を発揮するのも結構であるが、昆虫や鳥獣でない二十世紀の科学的文明国民の愛国心の発露にはもう少しちがった、もう少し合理的な様式があってしかるべきではないかと思う次第である。
    (昭和9年11月、経済往来)
ロビンソン風速計――イギリスのロビンソン(Robineson)が1850年に考案した風速計。十字形のうでに四つの風杯をとりつけ、この回転で風速を測る。 

弘安の昔――鎌倉時代の中期、元(げん)の大軍が、文永11年(1274)、弘安(こうあん)4年(1281)の2回にわたり、わが九州博多(はかた)に攻め入ったが、2度とも暴風が起こり、元軍は敗退した・

安政元年の大震――安政元年(1857)11月4日の東海道大地震、同5日の南海道の大地震と、二日にわたり史上まれに見る大規模な地震が発生した。
(『寺田寅彦随筆集第5巻』岩波文庫 1948年 1963年改版)
今朝の父の一枚です(^_^)v
マヒワが地上でエサを探している所を写していました。
私も出会ったのだけど、写せる距離に近づく前に飛んで行った(T_T)

マヒワ〔真鶸〕
 スズメ目アトリ科。全長12.5センチ、体重13.5グラム位。
東西に分かれてはいるが、ユーラシア大陸の温帯からその北部に広く繁殖しており、冬には南へ渡る。
日本では冬鳥として全国で記録があり、低山地や平地の林で見られる。
また北海道では、亜高山針葉樹林でかなり繁殖していると思われるが、詳しくは知られていない。
明確ではないが本州でも繁殖例がある。
冬にはハンノキ、マツ類などの実を食べている。
(『野鳥の歳時記5 冬の鳥』日本鳥類保護連盟監修 小学館 昭和59年)